温故知新(125)武渟川別命(建沼河別命) 会津大塚山古墳 大彦命(大毘古命 天五田根命) 彌彦神社 四道将軍 布留0式土器 稲荷森古墳 観音平古墳群 神明塚古墳 クサール・ヌアイラ 稲荷山古墳 生島足島神社 日光二荒山神社 伊佐須美神社 武蔵御嶽神社 ジェッダ
土器の型式の「布留0式」は、古墳時代前期を示す布留式のような形状をしつつ、弥生時代後期を示す庄内式のようにまだ規格化されていない段階の土器で、倭迹迹日百襲姫命の陵墓とされる箸墓古墳や彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)の陵墓と推定される中山茶臼山古墳などから見つかっています1)。箸墓古墳出土の「布留0式」土器に付着していた炭化物を放射性炭素年代測定により分析した結果、箸墓古墳の築造は西暦240年~260年と推定されました。
「布留0式」土器は、山形県南陽市の稲荷森古墳、新潟県妙高市の観音平古墳群、静岡県沼津市の神明塚古墳などからも見つかっています1)。「布留0式」土器は、古墳時代におけるこれらの地域と西日本等との政治的関係も示す重要な遺物となっています。『日本書紀』によると、四道将軍(大彦命、武渟川別命、吉備津彦命、丹波道主命)は、崇神天皇10年にそれぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣されたとされています。また、『古事記』では崇神天皇の章に、大毘古命(大彦命)を高志道(こしのみち)に、大彦命の子の建沼河別命(武渟川別命)を「東の方十二道」にそれぞれ遣わしたとの記載があります。
第10代崇神天皇は、箸墓古墳の被葬者の倭迹迹日百襲姫命の子と推定されるので、3世紀の人物と推定されます。下記のブログにあるように、吉備津彦命は、年代的に無理があるように思われます。
四道将軍というのは後世の中国風の名付け方で、おそらく7世紀以降に作り出されたという指摘も通説になっているようです(続ヤマトタケル 吉備考5 四道将軍の意味と邪馬台国)。やまとのくに(邪馬台国)の中心があった吉備を隠すために、崇神天皇が大和(奈良)にいて、吉備を征服したという話を創作したのではないかと思われます。
稲荷森古墳と中山茶臼山古墳を結ぶラインは、観音平古墳群の近くを通り、このラインは、箸墓古墳とマラケシュを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図1)。中山茶臼山古墳と箸墓古墳を結ぶラインは、豊玉姫命(倭迹迹日百襲姫命と推定)と関係があると推定される西大寺観音院(岡山市東区)の近くを通ります(図1)。また、稲荷森古墳と中山茶臼山古墳を結ぶラインは、神明塚古墳と高天原と関係があると推定されるクサール・ヌアイラを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図2)。これらのラインは、「布留0式」土器が指標となっていると推定されます。


稲荷山古墳(埼玉県行田市)から出土した5世紀後半の「金錯銘鉄剣」の銘文から、稲荷山古墳は大彦命の子孫の墓と推定されるので、稲荷山古墳と稲荷森古墳や観音平古墳群との関係を調べてみました。稲荷森古墳と和珥氏の墓と推定される雨の宮古墳群(石川県鹿島郡中能登町)を結ぶラインは、稲荷山古墳と聖ミカエルの山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図3)。

また、稲荷森古墳と生島足島神社(長野県上田市)を結ぶラインは、稲荷山古墳とオリンポス山を結ぶラインとほぼ直角に交差し、後者のラインは、観音平古墳群の近くを通ります(図4)。これらのラインから、稲荷森古墳や観音平古墳群は、大彦命と関係があると推定されます。

新潟県西蒲原郡弥彦村に天香山命(高倉下命 大国主命 孝元天皇と推定)を祀る越後一宮 彌彦神社があります。創建は、天香山命の御子である第一嗣・天五田根命が廟社を築き奉祀したことに始まるとされるので、天五田根命は孝元天皇の第一皇子の大彦命と推定されます。稲荷森古墳と観音平古墳群を結ぶラインは、日光東照宮(栃木県日光市)とクサール・ヌアイラを結ぶラインとほぼ直角に交差し、後者のラインは彌彦神社の近くを通ります。このラインから、彌彦神社は大彦命が創建したと推定されることと整合します(図5)。

日光東照宮の近くには、下野国一宮 日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)があり、古来より修験道の霊場として崇敬されてきたので、図5のレイラインは、日光二荒山神社が指標となっていると推定されます。神津島や安房神社などとつながるレイラインも、日光二荒山神社を指標としていると思われます。日光から地方勧請がなされた初めての東照宮(玉井宮東照宮)は、豊玉姫命を祀る玉井宮(岡山市中区)の場所に造られています。

福島県大沼郡会津美里町に伊弉諾尊、伊弉冉尊、大毘古命、建沼河別命を祀る陸奥国二宮(岩代国一宮) 伊佐須美神社があります。「会津」は、北陸道を進んだ大毘古命と東海道を進んだ大彦命の子の武渟川別命とが行き会ったことに由来するといわれています。東京都青梅市御岳山にある武蔵御嶽神社は、社伝によると、創建は崇神天皇7年で、武渟川別命が大己貴命と少彦名命を祀ったのが起源とされます。伊佐須美神社と武蔵御嶽神社を結ぶラインは、第8代孝元天皇(倭建命、大国主命と推定)の皇子の少名日子建猪心命(少彦男心命、少彦名命と推定)の陵墓と推定される姫塚古墳(茨城県大洗町)とジェッダを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図7)。このラインは、武渟川別命と少彦名命を関係付けていると推定されます。

図2の稲荷森古墳と神明塚古墳を結ぶラインは、伊佐須美神社、武蔵御嶽神社の近くを通り、このラインは、孝元天皇の母と推定される丹生都比売命を祀っていると推定される玉前神社(千葉県長生郡一宮町)とジェッダを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図8)。このラインから、神明塚古墳は、武渟川別命や大彦命と関係があると推定されます。

会津大塚山古墳と伊佐須美神社を結ぶラインは、日光二荒山神社の近くを通り、このラインは、姫塚古墳(茨城県大洗町)と神武天皇社とつながるドンゴラを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図9)。このラインは、会津大塚山古墳が武渟川別命の墓と推定されることと整合します。

文献
1)宮本一夫(編) 2025 「論争 邪馬台国」 日本考古学協会/企画 雄山閣
