温故知新(98)景行天皇(誉津別命) 植月寺山古墳 久々井(鵠浦) 家島 コウナイの石 アルテミス神殿 播磨稲日大郎姫 稚倭根子皇子(大碓皇子) 彦五十狭芹彦命(吉備津彦命) 中山茶臼山古墳 吉備津神社 セリヌス
誉津別命と久々井
垂仁天皇の第一皇子で、狭穂姫命を母とする誉津別命(ほむつわけのみこと 本牟智和気御子)は、ひげが胸先に達したことや、泣いてばかりいたことなど、須佐乃男命と関連付ける伝承が残されています。丸谷憲二氏は、誉津別命が鵠(くぐい、今の白鳥)と遊ぶことにより、言葉を発するようになった場所を岡山県の久々井と推定しています。
岡山県には「久々井」が4か所あるようです。犬島の久々井の場所はわかりませんが、久々井(備前市)と久々井西公園(倉敷市)を結ぶラインは、岡山市東区の久々井(写真トップ)とスカラ・ブレイを結ぶラインとほぼ直角に交差します(図1)。久々井(岡山市東区)とパルテノン神殿を結ぶラインの近くに、垂仁天皇の陵墓と推定される金蔵山古墳(岡山市中区円山)があります(図1)。金蔵山古墳と誉津別命ゆかりの久々井が結ばれていることは、垂仁天皇と誉津別命が親子関係であることと整合します。

岡山市東区の久々井(写真トップ、1)にある金比羅宮(写真2)の石灯篭(写真3)には、瑜伽大権現と刻まれています。香川県仲多度郡琴平町にある金刀比羅宮には大物主命が祀られているので、久々井の金比羅宮には、大物主命(加具土命と推定)と豊受大神(豊受姫命)が夫婦で祀られていると推定されます。江戸時代から由加神社本宮と金刀比羅宮に参拝すると多くの御利益がいただけるといわれ、「由加・金比羅両参り」の風習が知られています。



久々井の金比羅宮は、貴船神社(瀬戸内市邑久町)と倭迹迹日百襲姫命や五十狭芹彦命(吉備津彦命)を祀る讃岐国一宮 田村神社(香川県高松市)を結ぶレイライン上にあります。高島を出発した神武軍団が船ぞろえをしたとされる鵠浦(くぐいうら)が、岡山市東区の久々井とすると、東区水門町に、珍彦命(孝元天皇と推定)と海童神(孝霊天皇と推定)を祀った亀石神社があることと整合します。また、久々井が久久能智神(須佐之男命、孝霊天皇と推定)と関係があるとすると、この時東征したのは、初代神武天皇ではなく第7代孝霊天皇と推定されることと整合します。
植月寺山古墳と誉津別命
岡山県の美作地方には、孝元天皇の陵墓と推定される備前車塚古墳と同様な初期の前方後方墳が複数確認されています。岡山県勝田郡勝央町植月東にある植月寺山古墳(うえつきてらやまこふん、観音寺古墳)は、美野平野を南に一望できる丘陵の頂上にあり、この地域を治めた首長の墓と考えられています。
植月寺山古墳と久々井西公園(倉敷市)を結ぶラインは、久々井(備前市)とアルテミス神殿、アルテミス神殿と久々井(岡山市東区)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図2)。植月寺山古墳と久々井が関係付けられていることから、植月寺山古墳は誉津別命の墓と推定されます。孝霊天皇ゆかりの「久々井」が「誉津」とすると誉津別命の「わけ」は、所縁(ゆかり)があるという意味かもしれません。

植月寺山古墳と景行天皇の日代宮があったと推定される津久見市四浦深良津の天満神社を結ぶラインは、久々井(岡山市東区)とオリンポス山を結ぶラインとほぼ直角に交差し、後者のラインは、高岡神社(岡山県真庭市)や石見神社(鳥取県日野郡日南町)の近くを通ります(図3)。このラインから、植月寺山古墳の被葬者と推定される誉津別命が、景行天皇と推定されることと整合します。

孝元天皇の陵墓と推定される備前車塚古墳とオリンポス山を結ぶラインは、植月寺山古墳と天満神社(津久見市四浦深良津)を結ぶラインとほぼ直角に交差し、立石神社(島根県出雲市)の近くを通ります(図4)。

植月寺山古墳と品陀真若王の陵墓と推定される作山古墳(総社市)を結ぶラインは、成務天皇の陵墓と推定される築山古墳(瀬戸内市長船町)とアルテミス神殿を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図5)このラインは、倭建命(景行天皇、成務天皇、品陀真若王)でつながっていると推定され、植月寺山古墳が、成務天皇の父の景行天皇の陵墓と推定されることと整合します。

植月寺山古墳と、大名持命(孝元天皇と推定)、須世理姫命(倭迹迹日百襲姫命と推定)他を祀る備中国総社宮(総社市総社)を結ぶラインは、家島のペトログラフがあるといわれるコウナイの石(頂上石)とアルテミス神殿を結ぶラインとほぼ直角に交差し、総社宮とコウナイの石を結ぶラインの近くには、倭迹迹日百襲姫命を祀っていると推定される百枝八幡宮(瀬戸内市邑久町尾張)があります(図6)。これらのラインは、誉津別命(景行天皇)と孝元天皇や倭迹迹日百襲姫命の関係を示していると推定されます。

景行天皇と播磨稲日大郎姫
行燈山古墳、金蔵山古墳、植月寺山古墳を結ぶ三角形のラインを引くと、行燈山古墳とジェッダを結ぶラインは、金蔵山古墳と植月寺山古墳を結ぶラインとほぼ直角に交差し、行燈山古墳とジェッダを結ぶラインは津山市二宮にある美和山古墳群の近くを通ります(図7)。

大和国(奈良)の狭穂姫命の墓と推定される行燈山古墳と、古代は吉備国だった美作国の植月寺山古墳や備前国の金蔵山古墳の関係は、倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼と推定)の墓と推定される箸墓古墳と、孝元天皇(大国主命と推定)の陵墓と推定される備前車塚古墳(図7)の関係に似ています。植月寺山古墳の被葬者と推定される誉津別命は、孝元天皇、垂仁天皇と関係付けられていることから、景行天皇と推定され、景行天皇は、狭穂姫命を母とする垂仁天皇の第一皇子の誉津別命と推定されます。
美和山古墳群の美和山一号墳は、美作最大の前方後円墳で、奈良盆地東南部(天理市南部から桜井市北部)にあるオオヤマト古墳群にある行燈山古墳(狭穂姫命の墓と推定)の3分の1モデルという見方があります。播磨稲日大郎姫の陵墓は、兵庫県加古川市加古川町大野にある日岡陵(ひのおかのみささぎ)に治定されていますが、美和山一号墳は、景行天皇の后の播磨稲日大郎姫の陵墓かもしれません。『日本書紀』では、播磨稲日大郎姫は、大碓皇子(おおうすのみこ)・小碓尊(日本武尊)の母とされていますが、この他に稚倭根子皇子(わかやまとねこ)の母とする説も注しています。稚倭根子皇子は、小碓尊(仲哀天皇と推定)に討たれた大碓皇子ではないかと思われます。
中山茶臼山古墳と彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)
大吉備津彦命(吉備津彦命)の墓に治定されている中山茶臼山古墳は、行燈山古墳と大きさがほぼ2分の1の相似形であることが指摘されています。吉備の中山茶臼山古墳とアルテミス神殿を結ぶラインと、オリンポス山と須佐之男命(孝霊天皇)の陵墓と推定される鯉喰神社遺跡(倉敷市矢部)を結ぶラインの交点付近に、須佐之男命(孝霊天皇)の城があったと推定される備中松山城があります(図8)。このレイラインから、中山茶臼山古墳の被葬者は、須佐之男命(孝霊天皇と推定)と近い関係にあると推定されます。

中山茶臼山古墳とクサール・ヌアイラを結ぶラインは、吉備津神社を通ります(図9)。聖ミカエルの山と中山茶臼山古墳を結ぶラインは、吉備津彦神社(岡山市北区一宮)と吉備津神社を結ぶラインとほぼ直角に交差し、吉備津彦神社と吉備津神社を結ぶラインの近くに吉備津彦神社元宮磐座があります(図9)。このラインは、中山茶臼山古墳の被葬者が吉備津神社に祀られている大吉備津彦命(吉備津彦命)とされていることと整合します。

備中国一宮 吉備津神社(岡山市北区吉備津)の創建については、仁徳天皇が大吉備津彦命(吉備津彦命)の功績を称えて創建したとの説があり、また、社伝では5代目の子孫の加夜臣奈留美命が茅葺宮に社殿を造営し、命を祀ったのが始まりであるとします。ブラウロン遺跡と豪渓(岡山県総社市槙谷)にある天柱山を結ぶラインの延長線付近には、在地豪族賀陽(かや)氏の鎌倉時代の居館跡とみられる賀陽氏館跡があります(図10)。下記ブログによると、古い時代には近くにある新宮が備中吉備津宮であった可能性が高いとされています。

吉備津神社と賀陽氏館跡を結ぶラインは、中山茶臼山古墳と古代都市セリヌス(Selinus Ancient City)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図11)。セリヌスは、彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)を祀っていると推定される伊太祁曽神社ともレイラインでつながっているので、セリヌスの「セリ(セロリ)」は、彦五十狭芹彦命の「芹」と関係があると推定され、中山茶臼山古墳の被葬者は、彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)と推定されます。

