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温故知新(121)阿遅鉏高日子根神 阿知使主 昆支王 桃太郎伝説 県犬養三千代 犬養毅 白猪屯倉 児島屯倉 旧野﨑家住宅 鹽竈神社 聖ミカエルの山

 岡山県倉敷市本町にある阿智神社の「阿智」は、『日本書紀』に登場する応神天皇時代の渡来人で、東漢氏の祖と言われる阿知使主(あちのおみ)の伝承に因むもので、阿知一族は、大和国の桧隈(ひのくま)を本拠地としましたが、阿知一族の末裔がこの地に定住したことから、この地を「阿知」と呼ぶようになったと伝えられています。

 『日本書紀』は、雄略天皇の治世に、吉備政権とヤマト王権との間で大きな内乱が勃発したと伝えています(吉備の反乱伝承)。461年に百済の王族の昆支王(倭武、雄略天皇と推定)が倭国に来ています。5世紀後半の稲荷山古墳でみつかった「金錯銘鉄剣」にある「斯鬼宮(しきのみや)」が、雄略天皇の宮と推定されることから、縄文人と弥生人の混血氏族にとっては、百済王の昆支王は鬼とされていたのではないかと思われます。

 従来は、日本人は、縄文人と弥生人の「二重構造」とされてきましたが、近年はDNA分析から、下記のように「3系統説」が有力となっています。

縄文人の祖先集団は、2万~1万5000年前に大陸の集団(基層集団)から分かれて渡来して1000人ほどの小集団を形成していたことが分かった。そして弥生時代には北東アジアに起源をもつ集団が、また古墳時代には東アジアの集団がそれぞれ渡来してその度に混血があったと推定できたという。

出典:日本人祖先の「3系統説」

 弥生人のルーツは、スキタイ人以前のキンメリア人などの遊牧民族と推定され、北東アジアの燕国などからの渡来人と思われます。中央ユーラシア遊牧民の文化的特徴として、女性の地位が高い、異民族でも受け入れる、騎馬と騎射に優れるなどがあります。このような特徴から、縄文人とも融和的だったと考えられます。

 江上波夫氏の提唱した騎馬民族征服王朝説は、東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し、やがて弁韓(任那)を基地として日本列島に入り、4世紀後半から5世紀の崇神天皇または応神天皇の代に、大和地方の在来の王朝を支配し、それと合作して征服王朝として大和朝廷を立てたとする学説です。

 アジスキタカヒコネ(阿遅鉏高日子根神・阿治志貴高日子根神)は、大長谷王(雄略天皇)と推定されますが、鉏高(スキタカ)をスキタイとする説もあり、最初(阿字)のスキタイ人という意味かもしれません。また、「阿遅、阿治」は、阿知使主の「阿知」と関係があるかもしれません。スキタイ人は「家父長制」的といわれ、スキタイ人の習慣は「鹵獲」とも関係があるので(スキタイ)、蓋鹵王(安康天皇と推定)や獲加多支鹵大王(雄略天皇、昆支王と推定)の名前もスキタイ人と関係付けられているように思われます。百済は、前4世紀から5世紀にかけて、中国東北地方で栄えた「扶余」の系譜を引くとされます。扶余の土地には遊牧騎馬民族の「匈奴」「鮮卑」なども活動していました。スキタイ人は、紀元前6世紀から紀元前3世紀にかけて黒海北岸の草原地帯を中心に活動した遊牧騎馬民族で、スキタイ人の消滅後、古代・中世・近世の著者はスキタイ人とは無関係の大草原の諸民族を指して「スキタイ人」という呼称を使用したようです。

 岡山の桃太郎伝説では、桃太郎が吉備津彦命で、鬼が温羅一族となっています。「温羅」の名前が初めて登場するのは、江戸時代後期の吉備津神社の神官の賀陽朝臣爲徳著作の『備中国大吉備津彦略記』のようですが、別の資料によると、賀陽氏は1574(天正2)年、ときの神主高治の死をもって絶家したとされています(賀陽氏)。年号の確実な最も古い資料は、1583(天正11)年の『備中吉備津宮勧進帳』で、鬼神の名前は「冠者」とし、初めのほうでは「異国の国王」と記され、お釜殿の釜主は「古代新羅国の国王」となっているようです。

 香川の桃太郎伝説では、吉備津彦命の弟である稚武彦命が桃太郎ということになっているようです。讃岐の三木氏には神櫛王(仲哀天皇と推定)を祖とする讃岐国造の後裔氏族があり、橘氏支流の讃岐永成の一子で讃岐元重が讃岐国三木郡を領して、三木氏を称したことに始まるとされます。「橘氏」は、県犬養三千代が、和銅元年(708年)に第43代天皇で女帝の元明天皇から「」の姓を受けたことが始まりとされています。元明天皇は、天智天皇第四皇女子で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘の姪娘(めいのいらつめ)です。天武元年(672年)の壬申の乱で、大海人皇子(天武天皇)に鞍馬を提供した人物に、大海人皇子の舎人県犬養大伴がいます。犬養部は犬を用いて屯倉の守衛をしていたという説が有力になっていて、犬飼氏および犬養部の研究では、蘇我氏との関連が指摘されています。

 県犬養三千代は、はじめ敏達天皇系の美努王(みぬおう/みのおう)に嫁し、葛城王(後の橘諸兄)をはじめ、佐為王(後の橘佐為)・牟漏女王を生んでいますが、後に藤原不比等の後妻となっています。桃太郎のお供の犬・猿・雉にはモデルがあり、犬のモデルは、犬養毅元首相の先祖の犬飼部犬飼健命といわれています。犬養毅元首相の生地は、吉備津神社(岡山市北区)に近い備中国賀陽郡川入村(現・岡山市北区川入)です。

 『日本書紀』によれば、吉備国に設置された白猪屯倉(しらい の みやけ)には、555年に蘇我稲目ら、574年に蘇我馬子が遣わされ、児島屯倉(こじま の みやけ)には、556年に蘇我稲目らが派遣されたとされています。白猪屯倉の場所は、美作国大庭郡という説があり、「大庭郡」は「真庭郡」の南部で、五反廃寺跡(真庭市)がその地域に収まり、同寺跡出土の瓦が高句麗系のもので、白鳳期間に遡るものがあることから、古くから帰化人(渡来人)が居住していたことが知られています。屯倉は、中国北朝の均田制が高句麗を通じて伝来した可能性も考えられています。

 「白猪屯倉」は、「児島屯倉」とともに、吉備国造の支配していた地帯を南北にはさむ形で設置されています(wikipedia 白猪屯倉)。吉備の児島は、大陸との交流と貿易に欠くことのできない大和政権の拠点でした(児島の歴史)。児島屯倉の所在地は不明ですが、『万葉集』歌人の大伴旅人、筑紫娘子児島の歌碑があるJR児島駅付近と仮定して、白猪屯倉遺阯碑(五反廃寺)と児島駅を結ぶラインを引くと、出雲建(品陀真若王温羅と推定)の城だったと推定される鬼ノ城跡備中国分寺や阿智神社の近くを通ります(図1)。備中国分寺は、奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、備中国国分寺の後継寺院にあたります。このラインは、邪馬台国(やまとのくに)の高天原があったと推定される場所を通ります(図2)。

図1 白猪屯倉遺阯碑(五反廃寺)とJR児島駅を結ぶラインと鬼ノ城跡、備中国分寺、阿智神社
図2 図1のラインと備中国分寺、備中国総社宮、作山古墳、造山古墳、鯉喰神社、楯築遺跡

  豊玉姫命を祀る玉比咩神社(岡山県玉野市)と御崎神社(岡山県笠岡市神島)を結ぶラインと、備中国分寺と櫃石恵比須神社(香川県坂出市櫃石櫃石島)を結ぶラインは、ほぼ直角に交差し、交点付近に国の重要文化財に指定されている旧野﨑家住宅(倉敷市児島味野)があります(写真1、図3)。野﨑家は清和源氏を祖として、かつては多田姓・昆陽野姓を名乗り、16世紀後半に児島郡味野村に居住するようになったと伝えられています。野崎家は製塩業と新田開発で財を成しましたが、釜島にある鹽竈神社(図3)は、玉比咩神社とレイラインでつながっています

写真1 旧野﨑家住宅
図3 櫃石恵比須神社、玉比咩神社、御崎神社を結ぶ三角形のライン、櫃石恵比須神社と備中国分寺を結ぶラインと旧野﨑家住宅、阿智神社
写真2 旧野﨑家 中座敷
写真3 室 味噌製造所
写真4 石垣
写真5 扇面の石
写真6 各種電化製品
写真7 方位などを計る器具

 児島にある龍王山は、神功皇后が舟がかりして休まれたと伝えられていて、図3のラインの交点付近には、児島味野城という地名があるので(図4)、邪馬台国(やまとのくに)の城があったのかもしれません。

図4 図3のラインと龍王山、児島味野城

 鹽竈神社(釜島)と聖ミカエルの山を結ぶラインは、児島味野城、鬼ノ身城跡(総社市山田)、井倉洞(岡山県新見市)の近くを通ります(図5)。鬼ノ身城も鬼ノ城と同じく、邪馬台国(やまとのくに)の城だったのではないかと思われます。

図5 鹽竈神社(釜島)と聖ミカエルの山を結ぶラインと児島味野城、鬼ノ身城跡、井倉洞

 鬼ノ城跡と鬼ノ身城跡を結ぶラインは、備中国総社宮と聖ミカエルの山を結ぶラインとほぼ直角に交差し、後者のラインは、天柱山のある豪渓(総社市槙谷)の近くを通ります(図6)。このラインは、鬼ノ身城跡に邪馬台国(やまとのくに)の城があったと推定されることと整合します。

図6 総社宮、鬼ノ城跡、鬼ノ身城跡を結ぶ三角形のライン、総社宮と聖ミカエルの山を結ぶラインと豪渓