本能寺の変1852 その一因 一、光秀の年齢 そ第77話 240727 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
その一因 一、光秀の年齢 そ第77話
2光秀の年齢 5結論 240727
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*加筆修正 240727
そ第77話
「当代記」には、六十七歳とある。【 重史 023】
すなわち、永正十三年1516の生れと言っている。
しかし、何を根拠としたのだろうか。
それが、わからない。
これを裏付けるに足る、信頼できる有力史料が、他にないのである。
光秀の行動力を考慮した場合、これでは、あまりにも、高齢に過ぎる。
そう、思うのだが、・・・・・。
新たな史料の発見を期待する。
結論として。
ここで、現時点での、私見を申し述べたい。
下限は、五十五歳ぐらい。
すなわち、享禄元年1528以前の生れ。
とすれば、土岐頼純の家臣としては、二十歳以上。
妻木氏との婚姻時、二十八~三十歳以上。
信長に出会った頃は、四十一歳以上。
上限は、六十三歳ぐらい。
光秀は、甲斐遠征に参陣。
中国攻めにも、出陣を命じられた。
すなわち、行動力に、問題はなかった。
とすれば、上限は、六十代の初め頃まで。
また、邂逅の時、信長は、三十四、五歳。
その信長が関心を示し得る年代。
おそらく、それは、四十代まで。
五十代では、高齢にすぎよう。
以上の観点から、
上限は、六十三歳。
永正十七年1520以後の生れ。
そう、判断した。
とすれば、
土岐頼純の家臣としては、二十八歳以下。
妻木氏との婚姻時、三十六~三十八歳以下。
信長に出会った頃は、四十九歳以下。
この辺りがギリギリなのではないか。
光秀の生年は、大永四1524±四年ぐらい。
光秀の年齢は、五十九±四歳ぐらい。
光秀は、永正十七年1520~享禄元年1528の生れ。
五十五~六十三歳ぐらいということになる。
とすれば、土岐頼純の家臣としては、二十歳以上~二十八歳以下。
妻木氏との婚姻時、二十八歳以上~三十八歳以下
信長に出会った頃は、四十一歳以上~四十九歳以下。
光秀は、1520年代~1582年を生きた人である。
こんなところでないだろうか。
光秀には、やらねばならぬことがあった。
光秀に、残された時間は、少ない。
このことが、先を急がせた。
そこに、中国出陣命令が出た。
これが、最後のチャンス。
そして、信長が、上洛した。
この時、信忠も、京に居た。
父子二人が、揃った・・・・・。
供廻りは、少ない・・・・・。
これすなわち、信長の「油断」。
光秀は、それを見逃さなかった。
天正十年1582、六月二日未明。
「本能寺の変」
⇒ 次へつづく
