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本能寺の変1852 その一因 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道   1   2   3   4   5 
その一因 目次大 概説大 目次中 
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【 重要史料 】 【 重史一覧 】 【 人物 】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

「本能寺の変」の「原因・動機」は、一つだけではない。

 複数、否、多数、存在する。
 また、それらは、その程度・大小等においても、一様ではない。
 様々である。
 故に、「その一因」なのである。

 信長と、ともに、歩んだ十五年。
 その間に、それらは、光秀の心の内で、複雑に、絡み合いながら、
 少しずつ、成長していった。
 やがて、それは、一本化して、より強固な意志に変化する。
 そして、最終的に、「決断」→「実行」に至るのである。
 それが、「天正十年1582、六月二日未明」、だった。


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 ⇒ 次へつづく


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