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本能寺の変1582 信長、死す 「是非に及ばず」 3 №3-003 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長、死す 「是非に及ばず」 3 №3-003

はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】 
【五大要因】  
1 時代の風潮 1 2 3
2 光秀の実像 1 2 3 4 5 6
3 光秀の苦悩 1 2 3 4 5
4 武田の滅亡 1 2 3
5 信長の油断 1 勝利の余韻
         「事態急変」
         2 四国出陣
         3 足蹴事件
         4 中国出陣
         「時は今」
さる程に、不慮の題目出来候て、
【注目ポイント】 目次
【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】
【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 260419

信長、死す 「是非に及ばず」 3 №3-003

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光秀は、沓掛に到着した。

 分岐点である。
 ここで、道が二つに分れた。
 右、中国毛利へ。
 左、京。

  六月朔日、夜に入り、老の山へ上り、
  右へ行く道は、山崎・天神馬場、摂津国皆道(街道)なり。
  左へ下れば、京へ出る道なり。

そして、桂川へ。

 光秀は、躊躇せず。
 「左」の道をとった。
 明智軍は、前進する。
 
  爰(ここ)を左へ下り、

「漸く、夜も明け方に罷りなり候」

 光秀は、川を越えた。
 目指すは、「本能寺」。
 「信長の首」。
 
  桂川打ち越し、
  漸(ようや)く、夜も明け方に罷りなり候。

                    (『信長公記』)



⇒ 次回へつづく  信長、死す 「是非に及ばず」 4

【記事一覧】


目 次
目次大

目次大 信長、死す 1~7 
目次中 信長、死す 1~7
目次小 信長、死す 1~7

信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。
 

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