見出し画像

本能寺の変1582 重要 ◎第53~54話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

重要 ◎第53~54話 

9光秀という男 2立入宗継の証言 

はじめに ←目次 ←重要 ◎目次 ← 
重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 
その一因 目次 
見えてきたもの 目次 
【 重要史料 】 【 人物 】 
*加筆修正 

◎第53話 ◎小53   第53話

 「立入左京亮入道隆佐記」
  
以下は、立入宗継の日記である。
  光秀の素性を知る上で、最も重要な史料の一つ。
  是非とも、じっくりと、目を通していただきたい。

 前代未聞の大将なり。
 
 時は、天正七年1579、六月十日。
  場面は、丹波八上城を攻め落とした光秀が、捕らえた城主波多野秀治
  を、安土へ護送する途中、京を通過した時の模様である。 

   丹波国、惟任日向守(光秀)、
   御朱印を以って、一国下行(げぎょう=下賜)せらる、

   時に理運、申し付けられ候、
   前代未聞の大将なり、
   坂本城主、志賀郡主なり、

 立入宗継は、歴史の証人。
 
 宗継は、この行列を見ていた。
  光秀に対して、感嘆の声を上げている。
  興奮状態が伝わって来る。 

   多喜郡高城、波田野兄弟、
   扱いにて送らるゝの刻、路地に於いて、からめ取り、
   安土へ、馬上にからみつけ、
   つゝをさしほだしをうち、
   はたの、おとゝい(一昨日)、はたもの(磔)に上せられ候、

   前代未聞なり、
   天正七年六月十日、京都を通るなり、

 光秀は、美濃の出身。
 土岐氏の家臣だった。
 美濃に在住していた。
  
これが、動かぬ証拠である。
  土岐氏は、美濃の守護。
  光秀の明智氏は、その家臣。
  すなわち、美濃在住の武士であった。

   美濃国住人、土岐の随分衆なり、
   明智十兵衛慰、其の後上様より仰せ出され惟任日向守になる、

 弓取りはせんじてのむへき事に候。
 光秀は、世間からも、注目されていた。
 
 光秀は、希望の星。
  憧れの的だった。

   名誉の大将なり、
   弓取りはせんじてのむへき事に候、
               【 重史 002 】(「立入左京亮入道隆佐記」)

 光秀は、土岐氏の随分衆だった。
 
 「随分衆」とは、身分の高い者をいう。

  「立入左京亮入道隆佐記」には、荒木村重の謀叛に関する記事もある。
  その中の、関係者処刑の場面に、身分の高い女房衆たちの最期の様子が
  描かれている。
  立入宗継は、ここでも、「随分衆」という言葉を、同じ意味で、用いて
  いる。

  しかし、そのレベルがどの程度なのかがよくわからない。
  家中における地位の高低を、「上」・「中」・「下」に三分類した
  場合。
  光秀の明智氏は、果たして、何れに、属したのだろうか。

  「随分衆」というからには、「下」ではなかろう。
  「貴種」、すなわち、血脈が尊重された時代である。
  明智氏は、土岐氏の一族。
  その分流の一つである。
  嫡流家は、幕府奉公衆の家柄だった。
  ところが、光秀は「足軽」として、召し抱えられている。
  したがって、嫡流家ではない。
  庶流である。

  また、所領・居城等については、信頼し得る確実な史料等が残って
  おらず、ハッキリしない。
 
  おそらく、大身=「上」クラスではなかったように思う。
  すなわち、それ程、身分の高い家柄ではなかった。
 
  さらに、
  光秀の妻が、妻木氏の出であること、
  細川藤孝と出会ったこと、
  信長の家臣になったこと、
  出世のスピード、
  これらのことも、考慮せねばなるまい。

  以上の観点から、
  光秀の明智氏は、土岐氏の家中で、低からず、高からず、
  すなわち、「中」クラス程度の家臣だったのではないだろうか。

◎第54話 ◎小54   第54話

 立入宗継は、朝廷の御蔵職。
 
 宗継は、京都の商人、金融業者。
  大永八年1528生まれ~元和八年1622没。   
  代々、禁裏の御蔵職(おくらしき)をつとめた。
  米・銭・物品の保管・管理・出納等がその役目である。 
 
  永禄七年1564と同十年1567、御料所の回復と御所の修繕を
  依頼するため、正親町天皇の綸旨を、信長に届けている。
  このことが同十一年1568の、信長の上洛へと繋がった。

 光秀は、立入宗継のことをよく知っていた。
 
 また、山中の土豪磯貝久次は、宗継の舅にあたる。
  光秀の幕臣時代、久次は、その配下だった。
  「兼見卿記」にも、度々登場する。 

  宗継の菩提寺、清浄華院に、勤王を顕彰する石碑がある(上京区寺町通
  広小路上る)。

 立入宗継も、光秀のことをよく知っていた。
 
 宗継は、商人である。
  情報に聡い。
  光秀との接点も、度々、あった。
  知らないわけがなかろう。

  永禄十二年1569、四月。
  
光秀が京都奉行になったばかりの頃。

  光秀は、秀吉ら織田家の重臣と連署の上、山国庄の押領問題について、
  裁定を下した。
  以下は、その時の、書状である。
  宛先は、禁裏御蔵職立入宗継。

  おそらく、この頃が、最初の出会いになるのであろうか。

   禁裏御料所山国庄の事、数年宇津右近大夫(頼重)押領仕り候を、
   今度、信長、糾明を遂げ、宇津に違乱を停止すべくの由申し付け、
   両御代官へ信長朱印を以って申し渡し候、
   前々の如く御直務として仰せ付けられるべきの由、御収納相違有る
   べからず候、
   宇津かたへも堅く申し遣わし候、
   此れらの旨御披露有るべく候、
   恐々謹言、
                      木下藤吉郎
       四月十六日             秀吉(花押)
                      丹羽五郎左衛門慰
                         長秀(花押)
                      中川八郎右衛門
                         重政(花押)
                      明智十兵衛慰
                         光秀(花押)
        立入左京亮(宗継)殿
                   【 重史 003 】(「立入宗継文書」)

  なお、これについては後述する。

 光秀は、美濃に親戚がいた。
 
 吉田兼見の日記から、そのことがわかる。
  兼見は、吉田神社の神主である。

  場面は、元亀三年1572、十二月十一日、京。

  この日、京都は大雪だった。
  七寸は、3×7≒21cmほど。 
  光秀は、美濃の親類のため兼見に祈祷を依頼した。
  この時の、光秀の所在は、よくわからない。
  築城中の坂本にいたのか。
  それとも、京。
  否、岐阜城の軍議に出ていたのかもしれない。

   十一日、雪降る、七寸計り、
   明智十兵衛尉、折帋を以て申し来たり、
   云く、
   濃州より、親類の方、申し上げるなり、
   山王の敷地に、新城(坂本城)を普請せしむなり、
   其れ以来、不快なり、
   今度、別して祈念の儀憑み入るの由、申し来たるなり、
   鎮札・地鎮、調え遣はすべきの由、返事しおわんぬ、
                     【 重史 004 】(「兼見卿記」)

  「濃州より親類」とは、一体誰なのだろうか。
  光秀の父方か母方の、縁者なのだろうか。
  それとも、光秀の妻方の関係者か。
  いずれにしても、美濃に在住の縁者である。
  それも、光秀に祈祷を依頼できる間柄。
  となれば、関係は濃い。

  また、「山王の敷地」とは坂本のこと。
  「新城を普請」とは、築城中の坂本城をさすものと思われる。



 ⇒ 次へつづく


NEW!!

目次 が更新されました。

 これで、全体像がよくわかる!!
 毎日更新!!
 原因・動機の究明は、この一歩から!!

重要 ◎目次 が更新されました。

 「本能寺の変」
 原因・動機は、この中にあり!!
 ご注目下さい!!

テーマ別 目次 が更新されました。

 視点を変えれば、見える景色も違ってくる!!

見えてきたもの 目次 が更新されました。

 これで、さらに、一歩、近づいた!!
 ご期待ください!!

いいなと思ったら応援しよう!