本能寺の変1582 【 重史 27 】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【 重史 027】 『信長公記』
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*加筆修正
【 重史 027】
①情無く、主の頸を切り、
②毒飼を仕り、殺し奉り、
③大桑を追ひ出し侯。
④むかしは、おさだ、いまは、山しろ、
『信長公記』
斎藤道三の国盗り、すなわち、下剋上について、『信長公記』の著者、
太田牛一は、以下のように書き残している。
牛一は、道三が、一人、一代で、成し遂げたもの、と勘違いしていた
ようである。
先の【 重史 024】「春日文書」とあわせて、お読みいただきたい。
そもそも、道三の父新左衛門は、山城西岡(桂川の西岸地域)の出であり、
姓を松波と称する者であった。
首巻 土岐頼藝公の事
一、斎藤山城道三(父長井新左衛門慰の誤り)は、元来、山城国西岡の
松波と云う者なり。
一年下国侯て、美濃国長井藤左衛門(長弘)を憑み、扶持を請け、
与力をも付けられ侯。
①天文三年1534は、信長の生れた年。
その頃のこと。
新九郎(道三)は、主である長井景弘を殺害し、惣領家を乗っ取った。
折節、情無く、主の頸を切り、長井新九郎と名乗る。
一族同名共、野心を発し、取合ひ半の刻、
土岐頼芸公、大桑に御在城候を、
長井新九郎、憑み奉り候ところ、別状なく御荷担候。
其の故を以て、存分に達す。
②天文十六年1547。
道三が、土岐頼純(次郎)を殺害した。
次郎は、土岐氏の嫡男=後継者の名である。
其の後、土岐殿(頼武)御子息次郎(頼純)殿、八郎殿とて、
御兄弟これあり。
忝(かたじけな)くも、次郎殿を聟(むこ)に取り、宥(なだ)め申し、
毒飼を仕り、殺し奉り、
其の娘を又、御席(むしろ)直し(=後妻)にをかせられ侯へと、
無理に進上申し侯。
主(ぬし)は、稲葉山に居申し、
土岐次郎(八郎のことか?)殿をば山下に置き申し、
五三日に一度づゝ参り、御縁に畏まり、
御鷹野へ出御も無用、御馬などめし侯事、是れ又、勿体なく侯と
申しつめ、籠(かご)の如くに仕り侯間、
雨夜の紛れに忍び出で、御馬にて、尾州を心がけ御出で侯ところ、
追い懸け、御腹めさせ侯。
③天文十九年1550。
道三は、土岐頼芸を追放した。
頼芸は、尾張へ逃れ織田信秀を頼った。
斯くして、道三の下剋上は、成った。
法華坊主の子倅が、美濃一国を奪い取った。
父土岐頼藝公、大桑(おおが)に御座侯を、
家老の者どもに属託をとらせ(仕事を頼んで任せること)、
大桑を追ひ出し侯。
それより、土岐殿は、尾州へ御出で侯て、
信長の父の織田弾正忠を憑(たの)みなされ侯。
④道三に対する世人の評価である。
道の角々に、落首が立てられた。
道三は、その昔、源頼朝の父義朝を殺害した長田忠致(おさだただむね)
に比せられた。
爰にて何者の云為哉(しわざやらん)、落書に(()ふ。
主をきり聟をころすは、身のおはり、
むかしは、おさだ、いまは、山しろ、
と侍(はべ)り、七まがり百曲に立て置き侯らひし。
道三の人生は、正に、乗っ取りの連続だった。
先ずは小守護代長井氏を、次に守護代斎藤氏を、そして最後に守護土岐
氏を追放して美濃一国を乗っ取った。
恩を蒙り恩を知らざるは、樹鳥枝を枯らすに似たり。
道三は、冷酷非道の人物と噂された。
山城道三は、小科の輩(ともがら)をも牛裂きにし、
或ひは、釜を居ゑ(据え)置き、其の女房や親兄弟に火をたかせ、
人を煎(に)殺し、事、冷(すさ)まじき成敗なり。
(『信長公記』)
これが美濃の戦国時代。
光秀の生年を大永四1524±四年ぐらい◎第77話とすれば、
斎藤道三の下剋上①天文三年1534~③天文十九年1550は、
光秀の年齢が、十一±四~二十七±四歳ぐらいの時に当たる。
すなわち、少年時代~思春期~青年時代である。
このことが、光秀の性格・人格の形成に、大きな影響を及ぼした◎第78話
ものと思う。
【引用】 ◎第72話
⇒ 次へつづく
