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変態人間論──どうせ変態のくせに

はじめに

私はよく、人に向かってこう言います。

「どうせ変態のくせに。」

宮木の口癖

もちろん冗談です(笑)。

けれど、この言葉には、私なりの人生観が詰まっています。

「もっと変わったことをしろ」という意味ではありません。

「自分を見くびるな。」

その一言です。

人は、生まれながらにして世界を創る存在です。

それなのに、いつの間にか誰かが作ったゲームの中で勝つことだけを目標にし、自分がゲームを創れる存在であることを忘れてしまう。

私は、そのことが少しもったいないと思っています。



■老いとは、年齢ではない

私は最近、「老い」について考えていました。

老いとは何なのでしょうか。
年齢を重ねることでしょうか。
体力が衰えることでしょうか。

私は違うように思います。

老いとは、自分の変態性を諦めたときに始まる。

もっと言えば、

「どうせ変態のくせに」を、自分自身に言えなくなったとき。

人生の中で得た教訓は宝物です。
しかし、それは壮大な真実という彫刻を形づくる、一粒の砂に過ぎません。

だからこそ宝物であり、だからこそ、それだけでは世界のすべてではありません。

私たちは、ときに美しい結論へ辿り着きます。

けれど、その結論は「真実そのもの」ではなく、「真実との出会い方」の一つに過ぎません。

だから私は、自分の結論を大切にしながらも、それを絶対視しない人でありたいと思っています。

自分の経験を信じながらも、自分の経験だけでは語り尽くせない世界への敬意を持ち続ける。

その謙虚さこそが、人を学び続けさせるのだと思います。


■シンプルな結論は、美しい

私は「シンプル・イズ・ベスト」を否定したいわけではありません。

むしろ、美しいと思っています。

ただ、その美しさは主にHaving──成果や結論の世界に属するものです。

一方で、そこへ至るDoingは泥臭く、試行錯誤に満ちています。

さらに、その過程で更新されるBeing──価値観や世界観は、もっと複雑です。

迷い、葛藤し、失敗し、誰かに支えられ、自分を疑い、それでも前を向く。その感情の変遷は、どれだけ要約しても映画一本分は必要でしょう。

だから私は、「シンプルな結論」そのものではなく、それだけで人生を語り切ろうとする態度に違和感を覚えます。

シンプルさとは、出発点ではありません。
複雑さを生き抜いた人だけが辿り着ける、一つの到達点なのだと思います。


■人生を要約しないでほしい

人生の最後に、

「楽しかった。」
「いい人生だった。」

と言えることは、とても素敵なことです。

けれど、その言葉だけを人生の途中にいる人へ渡してしまうことには、少し危うさも感じます。

同じような結論に辿り着く人はたくさんいるかもしれません。
しかし、そこへ至る物語は、一人として同じではありません。
だから、人類は何十億人も存在する意味がある。

私はそう思っています。

人は、誰かの言葉を借りて生きるためではなく、自分自身の言葉を育てるために生まれてきたのではないでしょうか。


■泥の中には、ドジョウがいる

私は泥だらけの現場が好きです。
なぜなら、世界が一番面白くなるのは、たいてい泥の中だからです。

新規事業。
組織変革。
人材育成。

どれも泥だらけです。
自ら泥に飛び込み、泥の中でもがいている人がいれば、私も一緒に泥まみれになります。

けれど、そこで私が探しているのは「答え」ではありません。

最近、一つの比喩が浮かびました。

「こんなところにドジョウがいたぞ!」

泥の中でもがいている人は、決してドジョウを探しているわけではありません。

売上を上げたい。
会社を変えたい。
仲間を増やしたい。
人生を良くしたい。

そんな思いで必死にもがいています。

でも、もし泥の中でドジョウを見つけたらどうでしょう。
ドジョウがいるということは、この泥は単なる行き止まりではありません。

どこかで川とつながり、水が流れ、生き物が育つ生態系の一部だということです。つまり、その泥には構造がある。

私は構造を説明したいのではありません。

一緒に泥に入り、

「このドジョウ、なんでここにいるんだろう?」

そんな問いを立てたいのです。

すると、その問いをきっかけに、相手は自分で地形を読み始めます。

「あ、この沼は川につながっていたんだ。」

世界の見え方が変わる瞬間です。

教育とは、答えを教えることではありません。
誰かが自分自身のドジョウを見つけ、世界の構造を読み解き始める、その瞬間を共につくることなのだと思います。


■人は、生まれながらのゲームクリエーターである

私たちは最初、誰かが作ったゲームで遊びます。

勉強。
受験。
就職。
昇進。

それも大切なゲームです。

しかし、人間は本来、ゲームを遊ぶだけの存在ではありません。
ゲームを創る存在です。
さらに、ゲームを創る人を増やすこともできます。
ゲームを創る人が育つ場を創ることもできます。
そして、その場が自然と育っていく文化を育むこともできます。

創造は自己増殖します。この連鎖に終わりはありません。

だから希望とは、「未来は明るい」という楽観ではなく、
人間は創り続けられる存在であるという信頼なのだと思います。


■「どうせ変態のくせに」

だから私は、人がこう言うたびに、心の中でそっとつぶやきます。

「世の中そんなものだ。」
「何を普通のこと言ってるんだよ。どうせ変態のくせに。」


「もうダメだ。」
「いやいや。お前、本当にそんなことで終わるやつじゃないだろ。どうせ変態のくせに。」


「成功するには○○すべきだ。」
「それ、本当にお前がやりたいゲームなの?成功より大切にしているものがあるだろ。どうせ変態のくせに。」

これは否定ではありません。

私の人間観であり、信念です。

「俺は、お前をそんな小さく見積もっていない。」

というメッセージです。

そして、

「そんな当たり前のことじゃなくて、お前だから言えることがあるだろう。」

という願いでもあります。

人間は、本来もっと創造的な存在です。

もっと面白い存在です。

もっと世界を更新できる存在です。


おわりに──老いとは、変態を諦めたときに始まる

年齢を重ねることは、老いではありません。

むしろ経験を重ねるほど、人はもっと変態になっていけるはずです。

世界の複雑さを知り、自分の小ささを知り、それでもなお、新しいゲームを創ろうとする。

その姿勢こそが成熟なのだと思います。

だから私は、これからも自分自身に問い続けたい。

「どうせ変態のくせに。」

この言葉は、自分を責めるための言葉ではありません。

自分を信じ直すための言葉です。

そして誰かが泥の中でもがいていたら、私はまた一緒に飛び込みたいと思います。

答えを渡すためではありません。

一緒に泥をかき分け、

「こんなところにドジョウがいたぞ!」
「このドジョウは、何を教えてくれているんだろう?」

そんな問いを囲みながら、世界の構造を読み解いていきたいのです。

そうやって一人ひとりが、自分だけのゲームを創り、自分だけの言葉を育てていく。

その営みには、終わりはありません。

世界は、まだ完成していません。

だから今日も、泥のどこかに新しいドジョウがいます。

私は、それを一緒に探しに行きたい。

そして、ときどき笑いながら、こう声をかけたいのです。

「どうせ変態のくせに。」


最後までお読み頂きありがとうございました☆

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