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変態人間論②──公家か、変態か

はじめに──私たちは、みんな公家であり、変態でもある

前回の記事では、「どうせ変態のくせに」という少し乱暴な言葉を通して、人間は本来、自分を見くびる必要のない創造的な存在なのではないか、という話を書きました。

すると、たくさんの方から面白い反応をいただきました。

一方で、自分自身の中でも、一つの問いが残っていました。

「変態の反対とは、何なのだろうか。」

普通?
エリート?
優等生?

どれもしっくり来ません。

泥にまみれるのが変態だとすると、その逆は、屋敷の中から一歩も出ることなく、決められた作法や慣習を守り続ける「公家」のような存在なのかもしれません。

自分の衝動や偏愛よりも、与えられたルールを優先する生き方。
それが、変態からもっとも遠い姿のようにも思えました。

でも、しばらく考えてみて、今はこう思っています。

私たちは皆、公家でもあり、変態でもある。

その二つのモードを持った存在なのです。



■公家は悪ではない

「公家」という言葉を使うと、少し誤解されるかもしれません。

ここで言う公家とは、歴史上の身分ではありません。
与えられたルールを守り、社会を安定して回す知性のモードです。

法律を守る。
約束を守る。
時間を守る。
税金を払う。
お店ではお金を払う。

これらは全部、公家モードです。

だから、公家は必要です。
公家がいなければ社会は成立しません。

学校も、家庭も、多くの企業も、ある意味では「公家養成機関」です。

社会を支えるためには、それが必要だからです。
問題は、公家になることではありません。

公家モードしか使えなくなることです。


■公家は右手を主人にする

以前、「左手」と「右手」という話を書きました。

左手とは、

楽しみ。
衝動。
熱狂。
義憤。
「どうしても諦めきれないもの」。

一方、右手とは、

知識。
技術。
合理性。
マネジメント。
社会性。

どちらも、人間にとって欠かせません。

しかし、公家モードでは右手が主人になり、左手はポケットの中にしまわれてしまいます。

「やるべきだからやる。」
「ルールだから従う。」
「評価されるから頑張る。」

右手が主人になると、左手は深い眠りへと落ちていってしまうのです。


■変態は左手のために右手を使う

変態モードは、その逆です。

左手が主人になります。

「これをやってみたい。」
「なんだか放っておけない。」
「どうしても面白そうだ。」

そんな左手の声を聞いて、右手がその左手のために働き始めます。

法律を学ぶ。
会計を学ぶ。
営業を覚える。
マネジメントを身につける。

全部、左手を現実にするためです。

つまり変態とは、
左手のために右手を使える人なのです。

だから変態は、意外と合理的です。
合理性を否定しません。

ただ、合理性を主人にはしないのです。


■私にも、公家モードはある

ここまで読むと、

「宮木さんは四六時中、情熱あふれた変態なのですね。」

と思われるかもしれません。

安心してください。
そんなことは全くありません(笑)。

私にも、公家モードはたくさんあります。

お店ではちゃんとお金を払います。
駅では列に並びます。
家電を買うときは、価格と性能を比較しながら合理的に選びます。

会社では予算管理のためにExcelを開き、経費精算もします。
※これは正直、あまり好きではありませんが(笑)。

でも、それも社会を支える大切な営みです。

一方で、新規事業を考えるとき。

誰かにインタビューをお願いするとき。
SNSで仲間を募集するとき。
イベントを企画するとき。

そんな「まだ誰もやっていないこと」を始める瞬間、私は自然と変態モードへ切り替わっています。

四六時中変態でいる必要はありません。

でも、「ここからは左手の出番だ。」

そう自分でスイッチを切り替えられることが、大切なのだと思います。


■「蹴鞠」は、なぜ生まれるのか

私は時々、組織の中で行われる空転する会議を「蹴鞠」と呼んでいます。

誰も悪意はありません。
みんな真面目です。
でも、誰もゴールを見ていない。
ボールを落とさないことだけが目的になっている。
会議のための会議。
調整のための調整。
手続きのための手続き。

これは、公家モードだけで組織を運営すると、自然に生まれてしまう現象です。

社会を維持する知性だけでは、社会を更新することはできません。


■泥に入ると、公家は困る

変態は、なぜ泥に入るのでしょう。

それは勇敢だからではありません。
左手が放っておいてくれないからです。

新規事業も。
組織変革も。
教育も。

全部、泥だらけです。

私はこれまで、
ある初期アイデアを広告代理店の社長に話したとき、

「そんなものはどうでもいい。」

と一蹴されたことがあります。

社内で新しい取り組みを提案すれば、

「やめておいたほうがいい。」
「うちでは無理だと思う。」
「それで、いつ、いくら儲かるの?」
「今年の計画には入っていない。」

そんな言葉は日常茶飯事でした。

イベントを開催して参加者ゼロだったこともあります。
無観客でライブをやったこともあります。
サービスをローンチしたのに利用者ゼロだったこともあります。

通行人にインタビューをお願いして、ナンパや勧誘と間違えられながら頭を下げ続けたこともありました。

頼み込んで現場を見せてもらい、一次情報を集めて回ったこともあります。

正直、格好いい話なんてほとんどありません。
常に泥だらけです。

でも今振り返ると、
あれは失敗ではありませんでした。
拒絶でもありませんでした。

構造から返ってきた一次情報だったのです。

「なぜ受け入れられなかったのか。」
「なぜ伝わらなかったのか。」
「なぜ誰も来なかったのか。」

その問いを持ち続けることでしか、構造は見えてきません。

AIの回答は一次情報ではありません。
PowerPointの中にも一次情報はありません。
会議室からは顧客に関する一次情報は生まれません。

構造は、現実とぶつかったところにしか姿を現さないのです。

だから私は、失敗を恐れなくなったのではありません。

失敗ですら、構造を学ぶための貴重な一次情報だと思えるようになったのです。

この瞬間、公家モードは困ります。

正解がありません。
前例もありません。
評価基準もありません。

だから、
「世の中そんなものだ。」
と言って帰りたくなる。

ここが分岐点です。


■義憤とは、利己が利他へ変態する瞬間

最初は、自分のためでいい。

面白いから。
悔しいから。
やりたいから。

でも、泥の中でもがいていると、ある日気づきます。

「これは、自分だけの問題じゃない。」

すると怒りの矛先が、人から構造へ移ります。

「この構造は、もっと面白くできるはずだ。」

この瞬間に生まれるのが、私のいう「義憤」です。

怒りではありません。
愛です。
だから義憤は、人を壊しません。
構造を更新しようとします。

利己から始まった衝動が、利他へ変態する瞬間です。


■最強の変態

私は最近、「最強の変態とは何か」を考えていました。

今の答えは、こうです。

最強の変態とは、自分の衝動や熱狂、執着や義憤を、誰かの楽しみに変態させられる人である。

自分だけが面白い。

それも素敵です。

でも、それだけでは終わらない。

秘密基地を作る。
仲間を巻き込む。
ゲームを作る。
文化を育てる。

そうやって、自分の衝動が誰かの笑顔へと変態していく。

私は、それこそが価値創造なのだと思っています。


おわりに──どうせ変態のくせに

私の中にも、公家はいます。
だから、公家を否定したいわけではありません。
ただ、主人と執事は間違えたくないのです。

右手は、とても優秀です。
でも主人になると、人は少しずつ「やるべきこと」の中で生き始めます。

だから私は、ときどき自分にこう言い聞かせます。

「どうせ変態のくせに。」

左手は、まだ眠っていないか。
本当にやりたいゲームを忘れていないか。

右手は、左手のために働いているか。
そして今、本当に必要なのは、公家モードなのか。
それとも、変態モードなのか。

その問いを持ち続ける限り、人は何歳になっても変態し続けられるのだと思います。

そして私は、そんな変態たちが増える社会のほうが、きっと今より少しだけ面白いと信じています。

あらたも、たまにはあなたの中の公家を黙らせてみませんか。

「どうせ変態のくせに。」


最後までお読み頂きありがとうございました☆

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