文字を持たなかった昭和398 介護(17) 姑⑪嫁として

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 最近はミヨ子が嫁として仕え最期を看取った舅と姑の介護の様子を、「介護」というタイトルで書きいてきた。 昭和40~50年代のできごとである。介護という概念すらなかった当時の状況()、舅・吉太郎(祖父)のお世話()に続き、姑・ハル(祖母)について。当初はぼんやりしたり、(本人には意図があるが)「徘徊」したり、粗相したりする程度だったが、やがて足腰が弱りほとんど寝たままの状態になった。ときにはおむつを外して部屋を汚すことすらあった。

 この頃には、ハルとの通常の会話は難しくなっていた。家族は口に出さないまでも「ボケた」としてハルを扱っており、最低限のお世話をすることが優先された。つまり、食事をさせること、おむつを換えること、体を拭いてあげること、の3点である。

 いまなら認知症の人への対応として、やさしく声がけする、繰り返しになっても本人が好んでよく出す話題につきあってあげる、つじつまが合わなくても否定しない、怒らない、などはけっこう知られているが、当時の考え方では「ボケる=何もわからなくなる」だったのだ。

 かと言って声をかけなくなったわけではなく、家族の誰もがハルの顔を見れば会話を試みたが、会話が成立しなくなっていく状況に、お世話する側が「甲斐がない」と感じたとしても、責められることではなかった。

 ミヨ子の夫・二夫(つぎお。父)にとって、ハルは賢母であり慈母だっただろうが、ミヨ子にとっては嫁いでから一貫して厳しい姑であり続けた。口下手というより、何につけても一歩も二歩も下がることを女性として、嫁としての徳だと教えられ実践してきたミヨ子にとって、姑に口答えするなど考えられなかった。

 姑からきつく言われてしょんぼりするとき、二夫がやさしい言葉をかけてくれるわけでもなかった。下手すると「お前がぼんやりしてるからだ」と追い討ちをかけられた。もっともそれで誰かを恨むとか、落ち込むということもなかったが。

 なぜなら「嫁とはそういうもの」だと思っていたから。そう思ってやり過ごさなければ、心がもたなかったから、というのが正しいかもしれない。

 そんなきつかった姑が「萎えて*」しまった。厳しく自分を指導し、ときに問い詰めたりしたのに、いまは子供のように
「ミヨちゃーーん、どこにいるの」
と頼ってくる。子供たちがおやつを食べていれば、横から
「わたしにもちょうだい」
と手を出してねだることもある。ずっとめでたいこととされてきた「長生き」について、ミヨ子はつくづく考えざるをえなかった。

 排泄についても、毎回お世話するわけではない娘の二三四(わたし)ですら前項で述べたような体験をしたのだから、ミヨ子はもっと多くの経験をし複雑な思いを抱えていたはずだが、ミヨ子がハルのお世話で愚痴る姿を見たことはない。「嫁」という立場はそれほどまでに絶対なのか、ミヨ子の個性なのかはわからない。あるいはその両方かもしれない。いつも淡々とした表情と動作でお世話を続けていた。

 確かなのは、ミヨ子は舅と姑のお世話にできる限りの力を尽くした、ということだろう。

*鹿児島弁:体(の一部)が動かなくなる、不自由になることを「萎え」(名詞)「萎(な)ゆっ」(動詞)という。元は脳卒中などによる部分・半身不随に使われていたようだが、寝たきりのお年寄りが増えつつあった昭和50(1975)年頃にはお年寄りの寝たきりを指すことが増えた。


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