文字を持たなかった昭和 終末期21 奇妙な待機

 鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)の近況の続きである。昨年末から入院していたミヨ子さんの容態が2月早々に急変し、わたしは「万一」も考えて鹿児島へ向かったが幸い容態は安定、1週間少々の滞在ののち一旦自宅へ戻ってきた。

 ミヨ子さんの容態とそれを取り巻く家族の状況は、「その後の容態」(2025/3/1掲載)に簡単に列記した。ミヨ子さんは安定という名の「低空飛行」を続けながら、最後の到達点――ゼロ地点――に向かってゆっくりと高度を下げている、とでも言える状態だろうか。

 そしてわたしは、ゼロ地点への着陸がいつになるのか予想がつきかねながら、しかし遠くないであろうその時を意識しつつ暮らす、という奇妙な待機状態が続いている。

 もちろん、親の「その時」を待つなどという表現は、言語道断、あり得ない、ということはよくわかっている。わたしも「その時」など永遠に来てほしくない。親はいてくれるだけでありがたいのだ。

 しかし、直近――と言ってももう1カ月が経った――の面会で見たミヨ子さんの痩せよう、点滴だけを供与され横たわっているだけの様子を見れば、「その時」が早晩訪れることは疑いようがない。

 それがいつなのか。神様だけにしかわからず、わたし(たち)はその報せを待つしかない。病院から受ける報せは容態悪化の前兆、あるいは危篤かもしれないし、もしかすると「巡回の時にはもう……」かもしれない。第一報は息子のカズアキさん(兄)へもたらされるから、わたしのところへはタイムラグもある。ある意味緊張しつつ、日々の暮らしを続けるしかないのだ。

 鹿児島から戻ったとき、旅装を解くのは最小限にした。4、5日分を想定した洗面道具などはキャリーケースに入れたままだ。次に着ていくであろう衣類はふだん着るものとは分けて、いつでも旅の支度に使えるようにしてもある。

 生鮮食品の買い置きも最小限にしている。人と会う約束も避けよう、遠出の計画も立てないほうが無難だろう、と行動半径は極めて狭く設定し、外出は自宅と最寄り駅周辺の、買い物、散歩、食事といった短時間で帰宅できる用事に限定している。

 そんな生活を続けて(本項掲載時点で)3週以上が経過した。些細なことばかりのようだが、常に「いつ呼ばれるか」と考えていなければならない生活は、些か窮屈というか、ひらたく言えば落ち着かない。自分が看病したりしばしばお見舞いに行ったりしているわけではないくせに偉そうに言う資格はないとわかっていても、「その時」に飛行機のチケットが取れるか、最期のお別れに間に合うか、という意識が常に頭から離れない。

 前回かけつけたときから季節は確実に進み、使ったままカズアキさん宅に置いてきた厚手の衣類はそろそろ季節外れになりそうだ。じつは、「その時」のための礼装も冬仕様のパンツスーツである。この分だとあれも季節外れになる。

 こんなふうに「その時」を考えながら過ごしている自分を責めたい気持ちもある。母親には「一日でも長く穏やかに過ごして」と祈るべきだろう、と。

 それにしても。点滴だけなのにこんなに長期間命を繋げられるなんて。ミヨ子さんの思いがけない生命力に感嘆する。(次は「病床での誕生日」)

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