文字を持たなかった昭和340 梅の実のある風景(1)日の丸弁当
昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。
最近は、保存食品として毎年手作りしていた梅干しをテーマに書いてきた。庭の梅の実、赤紫蘇を加えての漬け込み、梅雨明け後の土用干し、専用の甕での保存などなど。最後の項では、長期間の保存で塩を吹いた梅干しとそのエピソードを書いた。
梅ついでに梅の実にまつわるエピソードをしばらく綴ってみたい。まずは「日の丸弁当」である。
いまの人――じゃあ書いているのはいつの人だ?――に日の丸弁当と言ってもまったくピンとこないだろうが、ある年代以上、概ね60歳前後以上の人にはおなじみだろうだろう。もちろん地域差、家庭差はある。
日の丸弁当とは、読んで字のごとく日本の国旗に喩えたもの、白いごはんの真ん中に梅干しが置かれたお弁当だ。
「なんだ、ふつうのコンビニ弁当もそれじゃないか」――?
いえいえ、コンビニのお弁当はおかずがちゃんとついてますね。正しい日の丸弁当は、おかずなしのご飯のみ、その真ん中に大粒の梅干しがどんと置かれているのだ。つまり梅干しだけで一食分の白飯を食べる。
「そんなにご飯ばかり食べられない」――?
いえいえ、おかずなし、ごはんだけを食べるのだからけっこうお腹に入る。そしてたくさんのごはんを食べ進めるためには、強烈な味の梅干しがいちばん、というわけ。梅干しを入れておけばごはんが痛みにくい、という点も大きなメリットだ。
ミヨ子たちの食生活も、お米のごはんが中心だった。昭和29(1954)年に嫁ぎ、子供たちが小さかった頃までは麦も植えていたが、稲作の収量が上がり、田んぼの傍ら果物などの経済作物(当時は換金作物と言った)を作るようになると、主食は米一辺倒になった。一方で、おかずのバリエーションの変化はそれほど急速ではなかったし、動物性たんぱく質のおかずのほとんどは「買ってくる」ものだったから、おかずは野菜主体の手作りであくまで「副食」、主食の米を食べるための手段だった。
田んぼなどに持って行く弁当も、ごはん中心である。「七十九(田植え、その四――ミヨ子)」で書いたように、一人分ずつの弁当箱にぎっしりごはんを詰める。おかずはみんなで摘まむものを別の弁当箱に詰めていく。自分のごはん茶碗を片手に、大皿からおかずを分けるイメージだ。
それぞれの弁当箱のごはんに、ミヨ子は必ず梅干しを入れた。弁当箱において、ごはんと梅干しはセットとも言えた。
ただし「日の丸」にはしなかった。いつも弁当箱の隅のほうのごはんに梅干しを「押し込み」、できるだけ梅干しが顔を出さないようにした。
日の丸弁当のエピソードでよく言われるのが、長年使っているうちに、金属の弁当箱の蓋に梅干しの酸で穴が開いてくる、というものだ。ミヨ子自身そんな経験があったのか、農作業の手伝いなどでよその農家の弁当箱の蓋に穴が開いているのを見たのか、ミヨ子の梅干し埋没作戦は徹底していた。
やがて子供たちが中学の土曜日の部活、そして高校の昼ごはんに弁当を持って行くようになったときも、梅干しは必ず埋め込まれていた。
そんなに心配なら梅干し抜きでいいのでは?
いえいえ、梅干しが入れないとお弁当が早く痛む、という心配が常にあったのだ。お弁当に冷凍食品をそのまま入れたり、持ち運びに保冷剤を使ったりする時代ではない。手作り、それもほとんどふだんの食事と同じようなものを詰めただけのお弁当で、いちばんの安全保障が梅干しだった。
