文字を持たなかった昭和344 梅の実のある風景(5)梅干しの「仁」、おまけ
昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。
最近では、保存食品として毎年手作りしていた梅干しをテーマに書いてきた(「梅干し(1)梅の木~(11)保存、おまけ」)。ついでに梅の実にまつわるエピソードをしばらく綴ることにして、日の丸弁当、砂糖梅、梅干しの食べ方、そして梅干しの「仁」について述べてきた。
梅干しの仁(じん)を思い出していて、家族の声が耳に甦ってきた。
「婆さんな 梅んサネを 食もいやっど(ばさんな うめんさねを たもいやっど)」
姑のハル(祖母)が、食べ終わった梅干しの仁を出すべく、前回書いたように石垣の上に梅の種を置いて叩こうと、種を持って庭へ下りた〈163〉ときの家族の誰かの声だ。標準語に直せば
「お婆さんは、梅の種を召しあがるつもりだよ」
という感じだろうか。
noteで何回か触れているように、当時鹿児島の農村、少なくともミヨ子たちが住んでいた地域では、家族であっても年長者や家長、妻から見ての夫には敬語を使っていたから。
ハルはそんな声を聞いてか聞かずか、石垣の「定位置」に梅干しの種を置き、手頃な石で殻を割って仁を取り出し、薄皮を剥いて口に入れた。
よく匂い(香り)と記憶は関係が深いと言われるが、声(音)と記憶のそれもかなり深いのではないだろうか。誰かの一言、とりわけ鹿児島弁のそれを思い出しただけで、情景がぱあっと浮かんでくる。
前回書いたように、家族で仁を食べるのはハル、そして二夫(つぎお。父)が多かったが、舅の吉太郎(祖父)はどうだったか。二三四(わたし)が小学校2年生のときに他界したので、あまり覚えていないだけで、食べていたのかもしれない。
農家だったこともあり、梅に限らず、サネ(種)という単語はよく使われていた。ミカン、ポンカン、スイカなど家で作っていた果物、ピーマンやキュウリ、トマトなどの野菜……。当時の作物の「サネ」は大きくて存在感があった。いつの間にか果物は種なしが喜ばれるようになり、ピーマンはともかくキュウリやトマトの種の部分も小さくなったように思う。
しかし、梅干しの種はいまも健在だ。塩分を控えた、漬け物のような梅干しを二三四は好まないが、地方の道の駅や物産店などで手作り梅干しを見かけるとつい買いたくなる。それでも仁まで辿りつくことは滅多になく、放置して塩の結晶ができてしまうこともしばしばだが。
贅沢になったものだと、しみじみ思う。
〈163〉ミヨ子の嫁ぎ先の家屋は床が高く、庭へは「出る」というより「下りる」という感覚だった。床を高くすることで湿気を防ぎ、白アリから守る効果があったようで、鹿児島の古い民家はこのような高床に近い構造だったと聞いている。高さは1メートルほどもあり、上がり框がなければ大人でも跨いで上がることはできなかった。床下には稲刈のあと稲架として使う竹など、ふだん使わない道具類を置くこともあったし、床下で鶏を飼っている家もあった。嫁ぎ先の家屋を含む屋敷全体については「八十一(屋敷)」で述べている。
