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わたしの死 #わたし世界観No.1

本日もおつかれさまです。
メンタルよわしです。

今回は、普段のメンタル系のお話とは少し違い
ずっと自分の中にあった考えを、
言葉にしてみようと思います。

まとまりきっていない部分もあると思いますが、最後まで読んでくれたら嬉しいです。



私は小さい頃から、

「死」

というものについて考えることが
多い人間でした。

怖いとか、不安とか、
そういう単純な感情だけではなく、

「死とは何なのか」

ということを、ぼんやりと考えていました。

その中で私は、「死」には

一つの意味だけではなく、
いくつかの種類があるのではないかと

考えるようになりました。

そして今は、
大きく分けて三つあると思っています。


一つ目は、


「からだの死」


これは誰もが思い浮かべる、
いわゆる一般的な「死」です。

心臓が止まり、呼吸が止まり、
生物としての生命活動が終わること。

ニュースで見る死も、歴史で学ぶ死も、
この「からだの死」に当てはまります。

二つ目は、

「記憶の死」

よく物語やアニメの中で語られる考え方ですが、人は誰かの記憶の中にいる限り、
完全には死んでいない、というものです。

たとえ「からだの死」を迎えたとしても、 

家族や友人、
あるいはほんの少し関わった誰かの中に、
その人の存在が残っている限り、

その人はどこかで生き続けているとも言えます。

そして三つ目が、

「わたしの死」


私はこれが、現代を生きる私たちにとって、

一番身近かつ、一番見落とされやすい「死」

なのではないかと思っています。

私たちは日々、
人の目を気にして生きています。

嫌われたくない、
浮きたくない、
評価を下げたくない。

そんな思いから、
本当はやりたいことや、
言いたいことを
押し殺してしまうことがあると思います。

その積み重ねの中で、
本来の自分らしさが少しずつ削られていく。

気づいたときには、

「自分が何をしたいのか分からない」
「これって本当に自分なのか分からない」

そんな状態になってしまうこともあります。

それは、

自分で自分を少しずつ殺してる状態。

つまり

「わたしの死」

なのではないでしょうか。

もちろん、社会の中で生きていく以上、
すべてを自分の思い通りにすることは
できません。

好き勝手に生きればいい、
という単純な話ではないと思います。

それでも、
必要以上に自分を押し殺し続ける必要は
ないです。

ほんの少しでも、
自分の気持ちに正直になる瞬間を増やすこと。

自分が直感で「これ」と思える選択を、
少しずつ積み重ねていくこと。

それだけでも、「わたしの死」を

遠ざけることはできると思うのです。

もし
「わたしの死」を
迎えたまま、
「からだの死」を
迎えてしまったとしたら。

たとえ誰かの記憶に残っていたとしても、

それは本当の自分ではなく他人である。

私はそう思います。


誰かにとって都合のいい自分。
周りに合わせ続けた結果の自分。
そういう"別の誰かのような自分"
が記憶に残るだけなのかもしれません。

それは、少しだけ寂しいことだと思うのです。

ただ、
「からだの死」
「記憶の死」と比べ

「わたしの死」には
一つだけ違いがあります。

それは、自分の意志で、

何度でも取り戻すことができる

という点です。

これまでに押し殺してきた自分が、
完全に元通りになるわけでは
ないかもしれません。

でも、今この瞬間からでも、
「自分らしくあろう」とすることはできます。


まだ間に合う。


そう思えること自体が、
生きている意味の一つなのかもしれません。

だからここまで読んでいる人へ向け、
少し強い言葉で私の思っていることを言います。

他人で死ぬな。



できる限りでいい。
無理のない範囲でいい。
それでも、自分のままでいようとすることを、
やめないでほしい。

「からだの死」を迎えるその時に、
「ちゃんと自分として生きた」と思えるように。

そして、誰かの記憶に残る自分が、
本当の「わたし」であるように。

わたしは、わたしでいる。
わたしとして死ぬために。


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