小さな選択、だったはずなのに。 #シロクマ文芸部
ハンカチを拾って、立ち尽くす。
帰りがけ、社内の廊下、ひとり。
定時は過ぎてはいるけれど、社内にはまだ人は残っているはずだ。
周りに人がいれば、誰か落としたかと気軽に聞けるのに。
なのに今はたったひとり、廊下に立ち尽くしている。
そもそもどうして拾ってしまったのだろう。
社内に落ちているものだ。俺が拾わなくたって、誰かが拾う。
つい、というだけだったに違いない。
廊下に立ったままで、じっとハンカチを眺めてしまう。
おそらく女性のものだろう。このご時世、持ち物だけで判断するのもいけないか。
いやいや、そんなことに考えを飛ばしているときではない。
なんだか妙に、ハンカチを拾ったことで重大な判断を迫られているような気がしてならない。
どうするべきか。
家に持って帰ったりなんかすれば、妻からの質問に答えなければならないだろう。
妻だってきっと女性のものだと判断するはずだ。
「どうしたの、これ?」
「女の子が貸してくれたんだよ。俺だってね、女子に気にかけてもらえるの」
張らなくていい見栄を張り、つかなくていい嘘をつく。
でまかせの見栄と嘘で更に自分の首を締める。
そんなくだらない未来が見えるようだ。
事実を話せばいいだけなのに。「拾った。どうしたらいいかわからなくて持って帰ってきてしまった」と。
そうだ、それでいい。
ハンカチを拾っただけで重大な判断なんて必要ない。ただの気のせいだ。
「あのぉ、」
俺ではない声。女性の声。
不意に聞こえた声に顔を上げると、女性が立っていた。
丸顔の、可愛らしい女の子——『子』と言っても失礼ではないように思える——が、くりくりとした瞳で、上目遣いに俺を見上げている。
社員ではあるのだろうが、俺は見たことがなかった。
「それ、そのハンカチ、私のです」
「あ、そうですか。落ちてたのでつい拾っちゃって……」
ハンカチの持ち主。
そうそう、事実を伝えればいいだけ。
これを返して一件落着だ。
ハンカチを拾ったくらいで変な誤解をしないでほしいとひっそり願う。
「ありがとうございます!」
女性はぐっと俺に近づいた。
……え?
「お気に入りのハンカチなんです」
「そう、だったんですね」
礼を言われるようなことはなにもしていない。
彼女のお気に入りだとしても、俺はわざわざ彼女を探し当てて渡したわけではない。
むしろ彼女のほうが先にこのハンカチを探し当てたのだ。
俺がしたのは、落ちていたものを拾い上げた、というだけのこと。
「よかったですね、見つかって」
はい、と手渡そうとした俺の手を、彼女が捉えて包んだ。
……え? え? ええ?
「お礼をさせてください」
「あ、いえいえ、気にしないでください。拾っただけなので」
「そんなわけには……、お食事くらい、ダメですか?」
彼女の可愛らしい目が、しょんぼりしていることを訴えてくる。
断る、の一択しかない。
重大な判断なんて、必要ないんだ。
つい、ハンカチを拾い上げただけなんだ。
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2025.06.07 もげら
