言語化は生き延びるための必須スキル
言語化は、ただの自己表現手段ではない。
命にすら関わる、生きる上での必須スキルなのではないだろうか?
自分の感覚を伝えたい時はもちろん、
うまく言語化できない人を相手にした時も、
自分の言語化スキルは役に立つ。
練習しておいて損はない。
絶対に、上手いに越したことはない。
前回の記事を書きながら、気付いたことがある。
私が目標としているのは、「自分の思考のプロセスや感情や感覚を、高精度で言語化できるようになること」だということだ。
読書や映画を通して感じたこと、頭の中でぐるぐると考えていた概念、うまく言葉にならない違和感やモヤモヤを、どれだけ正確に言語化できるか。
いつか書いたことさえ忘れてしまっても、読み返せばまた、その思考の形跡を辿って今のこの気持ちをを再現できるか。
そして、他の誰かにも、この私の頭の中をできるだけ誤差なく理解してもらえるように。いつか誰かと議論したり喧嘩したり、自分の考えを伝えたいと思った時に、なるべく相手に誤解されず、正確に自分の意図を伝えられるように。
きっとそのために、私はここで言語化の練習をしたかったのだなと最近やっと分かってきた。
note 3年目の悟り。
今までの私は「こう思った、考えた」「嬉しかった、悔しかった」などの"思考や感情"に意識が向きがちだった。とはいえ、私の中にあるのは思考と感情だけではない。「触感、痛み、味、匂い」といった"感覚"だって、とても大事な情報。
ふと、ドラマ『舟を編む』の松本先生(辞書監修者)の病院のシーンを思い出した。三浦しをんの原作にはなかった、ドラマオリジナルのシーン。
最終回、入院中の松本先生から辞書編集部のみんな宛にこんなメールが届く。
おかげさまで副作用を抑える薬の選択がうまくいき、今は大変、安楽に過ごしております。
抗がん剤の副作用はオーダーメイドと言われる位、個人差があるそうで、医師が薬を探り当てる為に、我々患者は自分の症状を的確に自己申告しなければなりません。
「手足がしびれる」と伝えると、医師にこう尋ねられました。「それはピリピリと電気が流れるような感じですか?それとも氷水に長い時間、手を浸していたような感じですか?又は、ゴム手袋を何枚も重ねてはめている感覚ですか?」
驚きました。
私は手足に電気を流したことも、氷水に長時間手を浸したことも、ゴム手袋を何枚も重ねてはめたこともないのに、ありありとその感覚がわかるんです。言葉の持つ力とはなんと不思議なものでしょう。そして、なんとすばらしいものなのでしょう。
最終回 松本先生のメール文面より
もしも、松本先生の「手足がしびれる」という自己申告に対して、医者が「分かりました」としか言わなかったら?
松本先生がそれ以上、自分の感覚を詳細に伝える力やその意思を持っていなかったら?
もしかしたら医者は、薬の選択を間違え、松本先生は副作用に長期間苦しめられたかもしれない。
「副作用を抑える薬の選択がうまくいき」と書かれてあったが、これは医者が分かりやすい質問をしてくれたからこそだと思う。
ピリピリと電気が流れるような感じですか?それとも氷水に長い時間、手を浸していたような感じですか?又は、ゴム手袋を何枚も重ねてはめている感覚ですか?
医者がこんなに具体的に質問できたのは、医者自身がこの病気の元当事者だからなのかというと、たぶん違う。
これまでの患者の誰かが
ピリピリと電気が流れている感じ
氷水に長い間手を浸したような感覚
ゴム手袋を何重にもはめているみたい
といった具体例を出して、医者に自分の感覚を説明してくれた長い歴史があるのだろうと思う。
その地道なデータを積み重ねて、「こういう感覚がある場合はこの薬が合いやすい」といった医学的根拠に至ったのだと思う。
もしも、過去の患者全員が「しびれる」としか自分の感覚を言語化できなかったら?
誰も、「電気、氷水、ゴム手袋」という第三者にも理解しやすい良い例えを思いついてくれなかったら?
今よりもっともっと多くの人が、副作用に長く苦しんでいたのではないか。医者だって、適切な選択ができずに悩んだり困ったりするのではないか。
言語化は、ただの自己表現手段ではない。
命にすら関わる、生きる上での必須スキルなのではないだろうか?
自分もいつか病気になった時、言葉の力、言語化で、同じように苦しんでいる誰かの役に立つことができるかもしれない、ということではないか?それは、私にとっての生きる希望、生きる力になるのではないか?
松本先生は、「経験したことがないのにありありとその感覚がわかる」と驚いていた。(そして喜んでいた)
とはいえ、松本先生は辞書を監修するほどの言葉のプロ。もしも医者が質問してくれなくても、きっと「まるで氷水に長時間浸したあとのような痺れです」などと、言葉を潤沢に使って自分の感覚を的確に表現できただろう。
しかし、もしもこれが子供だったら?
よほど賢い子でない限りは、「電気をピリピリ流したみたい」「ゴム手袋を何枚もはめているみたい」といった表現を使って説明することは難しいのではないだろうか。
そんな時、お医者さんが「ピリピリしてる?それともジンジンする感じ?手袋をはめているみたいな感じ?」と子供が理解しやすそうな言葉でいろんな質問ができたら…
幼すぎてまだ分からない子もいるかもしれないが、小学生以上ならおそらく「うん、そう」「ちがう」くらいは答えられるのではないか。
私の娘はもうすぐ年長になる歳だが、
よく「おなかがいたい」と言う。
しかし、同じ「おなかがいたい」でも
その意味は毎回異なる。
ある日は「お腹がすいた」だった。
また別の日は「おならが出そう」だった。
またある時は、ひどい下痢だった。
まだ生まれて4〜5年しか経っていない人間が、自分の感覚を的確に表現できるほどの語彙は持っていない。うまく言語化できなくて、当たり前。
そんな時、私は質問する。
「うんちが出そうな感じ?おトイレ行く?」
すると娘は、
「うん、行く」と答えてトイレに行く時もあれば
「ううん、うんち出ない」と言って、そのままケロッとした顔で遊び続ける時もある。
だからと言って、本当にもう痛くないわけじゃないかもしれない。痛みや違和感をうまく言語化できないから我慢しただけなのかもしれない。何も言わなくても、こちらがよく観察して、どんな痛みなのか、本当に大丈夫なのかを気にかけてあげないといけない。
病院に行ったら、いつからどんな症状があったのかを明確に医者に伝える必要もある。間違った薬を処方されては困る。
自分の感覚を伝えたい時はもちろん、
うまく言語化できない人を相手にした時も、
自分の言語化スキルは役に立つ。
自分のためにもなるし、
誰かの役に立つことだってある。
言葉が、生死に関わる選択に
大きく影響することもある。
もちろん身体的な意味だけでなく、言葉の刃で心が傷けられたり、誰かを傷つけてしまうこともある。
同時に、誰かの言葉に癒されたり、誰かを癒すことだってできる。勇気づけることもできる。寄り添うこともできる。笑わせることだってできる。言葉こそが、生きる力になることもある。
心を持った人間がいる限り、
言葉は常に、すごい力を発揮する。
やはり、
言葉は、言語化は、コミュニケーションは
生きる上での必須スキル。
この世界で他者と関わりながら生き延びるには
そのスキルが必須なのだ。
松本先生のメールの続きも本当に素晴らしいので紹介したい。
病を得た身としては、やはり死について考えます。もう十分に生きたはずなのに、恥ずかしながらたまらなく恐ろしくなることもあります。
そんな時、こんな想像をするのです。
私の死後、あなた方が言葉を潤沢に、巧みに使い、私の話をしてくれる。その時私は、確かにそこに、あなた方と共にあるのです。
言葉は死者とも、そしてまだ生まれていない者とさえ、つながる力を持っているのだと……つながるために、人は言葉を生み出したのだと、そう思えてならないのです。その瞬間、死への恐怖は打ち上がった花火の様に散り去って、消えることのない星の輝きだけが残るのです。
新型コロナウイルスによって人々が分断されてしまった今、まさに言葉の力が試されているのかもしれません。
最終回 松本先生のメール文面より
例えば、1914年に夏目漱石が書いた小説『こころ』を、100年以上の時を超えて2025年の私が読んだ。
夏目漱石が作り出した世界や伝えたかったメッセージが、彼の文章を通してありありと感じられた。共感した。明治時代に思いを馳せた。そして今度は、私がそれを言葉にした。
私の書いた文章を100年後、とある少年が読むかもしれない。「あぁ、この人の気持ち、僕も分かるなぁ」と思ってくれるかもしれない。
その時、私の思いは文章を通して、彼の心の中に宿る。彼の中に、私の思考や感情が再現される。私はもうそこにいないのに、確かにそこにいる。
言葉は死者とも、そしてまだ生まれていない者とさえ、つながる力を持っている
夏目漱石と、私と、少年。
3人の、時代を超えたつながり。
コミュニケーション。
言葉というものは、時空をも超えて想いが届く、とてもない役割とパワーを持っている。
結論
言語化スキルは、生き延びるための必須スキル。
練習しておいて損はない。
最悪、命に関わる。
絶対に、上手いに越したことはない!
言語化についてはまだまだ書きたいことがある!
また書けたら書く。
<追記>↓早速書いたよん♫笑
