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波 『傷を愛せるか』

印象深い一冊を読んだ。
やっと読み終えた、が、言葉としてただしい。
『傷を愛せるか』(宮地尚子・ちくま文庫)
行きたかった書店で数か月前に手に取った話題の著。
ひとつの項を読んでは置き、
時間や日を置いてはまたひとつ読み、
をした一冊で、だから、正直、わたしにしては時間がかかった。
いや、かけた、だ。
文を、書かれること考えられる想いを、
ひとつひとつ確実に受け取りたいな、
受け取れたらな、己に沁み込ませたいな。
そう思うと、早くはページをめくれなかった。
まるで波のよう。波を触るみたいな気持ち。
波打ち際に立って、
こちらに来る波を触る、寄せては返す波をまた触る、
おおきかったりちいさかったりする波を、
呑み込まれないように、おそるおそる、でも、大事に、
近寄って、その触感を空気をにおいを、自身の身体と心で、感じる。
そんな感じと気持ちからの、
あわあわと、でも、ひたひたと来る、読後感。
 
波、それは、人、人間というものの、簡単ではなさ。
 
なにげなく接したり交わしたりスルーしたり、
いや、過去形ではなく、しているだろうことの多いそれ。
 
精神科医師で、医学博士で、
臨床でカウンセリングも行う著者は、
世界のおおきなニュースや、
それだけでなく、「日常の」自他の出来事に対し、
感じ、思考し、考え、ていねいにていねいに言葉にする。
「嘘のない」、でも、なのに、だから、
とてもとても丁寧な誠実なそれを、
ひとつひとつ受け取り、感じ、考えることは、
わたしは、なんだか、波を触るような感じに近いように、思った。
この世の人それぞれの生きていく上でのむずかしさや悩みについて、
著者はそのひとつひとつに向き合……
いや「向き合う」なんて言葉は軽いくらい、
誠実すぎるほど言葉にしよう
言葉と行動にしようということを努める。
それぞれの人に相手に物事に対して、
ぜったいに、他人事ではなく気休めでもない
言葉や行動にしたい、しよう、と。
それはめちゃくちゃ難しく、
もしかしたら無理に近いことなのかもしれない。
「でもそれでも」
そこで出てくるのが例えばこのような言葉と行動だ。
〝(何も出来ないけれど)「ずっと見ている、見つめているよ」〟
〝(何も出来なくても)「ずっと祈っているよ」〟
文字にすると簡単だ。
でもこのほんとうにほんとうの「誠実さ」。
これしか出来なくても、これをするし、続ける。
その意味や「先」、「人が人へ」「人が人に」
接することの意味と大切さを、思わされる。
 
ひとつ、印象深かったエピソードを例に出してみよう。
どこかで人身事故が起きて、
電車が止まった、見通しが立たない、とある駅で。
殺気立つ駅で著者はまわりの皆と困りながらその様子を見て、考える。
無遠慮な言葉を発する若者にも出会う。
「だれだ。飛び込みやがった奴は!」
皆それを口に出すことだけはかろうじて踏みとどまっている中で。
そんなことはわたしたちの日常にも
(あってはいけないけれど)よくありもすることだ。
そこで著者は考えたりする。
かの若者に対して。
「あの若者は「儀礼的無関心」
(現代に生きる我々皆にあるもの)を決め込まず、
飛び込んだだれかを一人の具体的な人間としてイメージし、
声をかけようとした唯一の人間だったのかもしれない」
「でもやはり、腹を立てただけのわがままな青年かもしれない」
 
ね?
 
このような日々と物の見方と思考がおおきな事件ちいさな事件日々のこと、
それぞれについて誠実に誠実に言葉にされている。
だから、ゆっくり、読んだ。
ちいさな波大きな波を、受け取り、触り、
その温度とにおいを、文字から本から受け取った、
もとい、受け取ろうとした。
すべての波にちゃんとほんとに触れられたかどうかは、わからない。
一話一話一章一章、ひとつずつ読み、
触れたちいさな波おおきな波が
全部すぅっと己の中に入ってきたような、
でも波は波だからこそ入ってはこないような、
そう、波だからこそとらえようがなく、
でも、確かに触れたような、ほんとうに不思議な感覚。
うまく受け取れているか触れているかは(かも)わからないし、
まだあわあわと不思議な感覚で居るのだが、
その中でも確実に言える、いや、思うことは、
わたしは我々はその「波」をこれからも無視したり
「自分とは違う」なんて言いきることなく感じ考え続けなければ、
と、しかと感じたということ。
いや、出来なくても、そうあろう、あってみよう、と思ったということ。
 
そう「生」は続く。
 
いろんなことを見る。聞く。かかわる。考える。
 
関係ないが、最近、胸に引っかかったことも、書いておこう。
 
例えば、今SNS上で話題の一件。
我々世代にとって通ってきたり好きだったり影響を受けた作家が
(わたしはそうあまりたくさんは読んでこなかったが)
SNSに書いた「今」とそのプライベートなことと叫び。
その課金制の文章とそれへのいろんないろんな、いろんな意見。
例えば、これもSNS上での考えさせられる一件。
今放送中のわたしもとても「いいな」「とてもいいな」と思いながら、
胸いっぱいになりながら毎週観ているテレビドラマについて、
とある芸能人(芸人)が「良い作品」とつぶやいたところ、
そこに「おまえがやっていること(や思想)と逆だから
お前が褒めるのはおかしい」「なぜおまえが」という意見が書かれ、
しかもそれが数として広まっていること。
 
それらは(も)一例でしかないけれど。
 
わたしは、これもとても伝わりにくいだろうとは自覚しているが、
どうしてもどのような物事や人に対しても
例えば白黒やイエスノーだけで判断したり考えたり
またそれらを過剰に決めつけたり過剰に押し付けたりすることは
とてもむずかしくこわいことである、
だから「聞きたい(聞く)」「考えたい(考える)」を
やめてはいけない、やめずにいよう、と、いつも思うことにしている。
己が血の気が多く、好き嫌いもたいへん多く、
その血と気を自覚しているからこそ、
それでもなかなか出来ていないことが多いからこそ。
正論や効率、また好き嫌いや主観だけでは
言えない言いきれない言い表すことが出来ないことが(は)たくさんある。
人間は、かんたんじゃない。
劇場、中でも人の汗や熱やにおいを感じる舞台と客席たちで、
そこで〝抱える〟いろいろさまざまな人びとに
関わったり、見たり聞いたり、巻き込まれたり、
そんないろんないろんな「生」に多少なりとも出会いもしてきて、
そう考えるようになった、とても、ひたすら、めっちゃ。
 
波。
 
文庫版のあとがきを著者はこの一文で締めくくる。
 
「傷を抱えるすべての人に、この本を捧げる」
 
そんな本著の最後の最後はこのような文章で終わる。
大きな波に触れ、書き留めた。
書き留め、あとがきと解説を読み、
ページを閉じると、文庫の帯の裏面の文章にも
この最後の文章がそのまま掲載されていた。

置いておきたい。
 
「傷がそこにあることを認め、受け入れ、
傷のまわりをそっとなぞること。身体全体をいたわること。
ひきつれや瘢痕を抱え、包むこと。
さらなる傷を負わないよう、手当てをし、
好奇の目からは隠し、それでも恥じないこと。
傷とともにその後を生き続けること」
「傷を愛せないわたしをあなたを、愛してみたい。
傷を愛せないあなたをわたしを、愛してみたい」


ばたばたわたわた梅雨時で色々バテてもいますが(笑)
あれこれぼちぼち更新してゆきたい。
連載コラムやあたらしい企画などもがんばります、ふふふ


ここで書いた「波」みたいなものを
「穴」と例えて書いた劇場記事はこちら

 *
『桃花日和』を昨年からそして先月今月と
本や出発点さんや通販や各お店で買ってくださった方々が
note(など)にとても嬉しいお言葉綴って下さったりありがたく光栄
気持ちがしゃんとなります
3日前にも素敵な言葉を書いて下さったこちらの氏にも感謝!
 
今回の『傷を愛せるか』を買わせていただいた
本屋「とほん」(と同店の通販)さんでも買えます!
勿論、他のお店様でも!
勿論日々の文やいろいろとも併せて、
またまたまだまだよろしくです!


ライター/エッセイスト/構成作家の
momoこと中村桃子(桃花舞台)と申します。
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