商業映画ばかりが映画ではない
僕は一般映画としては、いわゆる“ドキュメンタリー映画”しか撮っていない。
だから世間的には「ドキュメンタリー映画監督」と呼ばれるのだろうし、それ自体に怒りがあるわけではない。
ただ、自分の内側では、あくまで「映画監督」という感覚が強い。
そして以前から、ドキュメンタリーを撮っている人が、自らを「映画監督」ではなく「映像作家」と名乗ることに、どこか説明しづらい違和感を覚えてきた。
もちろん、それぞれが自由に名乗ればいい。
だが僕には、その呼称の奥に、ある種の“カテゴリー分け”が透けて見える。
それは、 「映画」と「映画ではないもの」 を分ける無意識の線引きだ。
商業映画、劇映画、興行システムの中にあるものを「映画」とし、その外側にあるものを「映像作品」と呼ぶような感覚。
あるいは、ドキュメンタリーを「映画の周辺」に配置するような空気。
僕には、それがどうしても不自然に思える。
なぜなら、僕の映画観の基盤には、実験映画研究所・イメージフォーラム5期で受けた教えがあるからだ。
そこでは、はっきりと、
「商業映画ばかりが映画ではない」
という思想が流れていた。
これは単なる反商業主義ではない。
映画とは本来、 巨大資本や興行システムの中だけで成立するものではなく、
個人の視線、 時間感覚、 存在への問い、 世界認識そのものから立ち上がるものであり、 既定の概念から自由である、
という考え方だ。
だから僕にとって映画とは、フィクションかノンフィクションかではない。
映画とは、
「世界をどの視点からどう切り取り、どう時間を構築するか」
という行為そのものだと思っている。
そこに俳優がいるかどうか。 脚本があるかどうか。 現実を撮っているかどうか。
それらは本質ではない。
編集によって時間を変形し、 構図によって視線を操作し、 音によって感情を導き、 沈黙によって観客の内部に空間を生む。
それは劇映画だけのものではない。
ドキュメンタリーもまた、完全に映画的な行為だ。
むしろ、現実という制御不能なものを相手にしながら、 そこに“時間”や“存在”を立ち上げていくという意味では、 極めて映画的だとも言える。
前作『虚空門GATE』には、様々なレビューが寄せられた。
その中には、
「テロップやナレーションがほとんど存在しない」 「この監督はドキュメンタリーを分かっていない」
といった趣旨の批評もあった。
だが、僕がそこから感じたのは、 作品への否定そのものよりも、
「ドキュメンタリー映画とは、こういう形式であるべきだ」
という硬直した認識の存在だった。
もちろん、そうした形式を用いる作品を否定したいわけではない。
だが僕自身には、そもそも『虚空門GATE』を、 “ドキュメンタリー映画として撮っている” という認識がほとんどなかった。
あの作品で自分が向き合っていたのは、 情報伝達や社会解説ではなく、
言葉に回収されない存在の気配、 沈黙、 時間の漂流感、 境界の揺らぎ、 そして、観客自身の内部で立ち上がる感覚だった。
だから、テロップやナレーションによって、 意味や解釈を固定していくことに、 むしろ強い違和感があった。
僕にとって映画とは、 説明によって世界を閉じることではなく、
観客の内部に、 未定義の空間を開いていく行為に近い。
だから『虚空門GATE』に対して、 「これはドキュメンタリーとして正しくない」 という評価を受けた時、 僕の中では、
「そもそも、僕は“ドキュメンタリー”を撮ろうとしていたのではない」
という感覚の方が強かった。
僕が現在制作している『ヒグマカルマ』も、 社会問題の記録映画を作ろうとしている感覚はほとんどない。
この作品で扱っているのは、
人間と野生の境界、 死と生、 時空の視座、 そして、人間中心主義からの逸脱だ。
それを、映像・音・時間・画質・沈黙によって構築しようとしている。
だから僕の感覚では、 “ドキュメンタリー”である以前に、 まず「映画」なのだ。
僕は、社会的ラベルに回収されること。 「あなたはこの枠の人です」と既定されること。
そこに強い窒息感を覚える。
だから、「映像作家」という呼称に対しても、 どこか“映画から半歩外側へ配置される感覚”を見てしまうのかもしれない。
もちろん、それを好んで使っている人を否定したいわけではない。
ただ少なくとも僕自身は、 現実を素材にしていたとしても、 ドキュメンタリーを撮っていたとしても、
「映画を作っている」
という感覚でいたい。
だから僕は、 「ドキュメンタリーを撮っている」 という感覚そのものに陥ることを、どこかで忌避しているのだと思う。
もちろん、現実を素材にしている以上、世間的にはドキュメンタリー映画なのだろう。
だが僕自身は、 “ドキュメンタリーというジャンルを撮っている” 感覚でカメラを回してはいない。
僕が向き合っているのは、 もっと曖昧で、境界的で、 言葉になる以前の“世界の気配”のようなものだ。
だから僕にとって映画とは、 現実か虚構かではなく、
「どのような視座で世界を捉え、 どのような時間を立ち上げるか」
という行為そのものなのである。
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