世の中にはpower(権力)を 持つ人があふれている リンク
権力論についても筆者は専門家ではありません。素人のたわごとです。ご勘弁。
解説
power とその翻訳語の権力
権力(power)とは、あらゆる意味での強制力のことであ る。権力を物理的諸力(=暴力)と区別してはならない。なぜなら、西洋 語の権力はすべて英語のパワーに他ならないからだ——もちろん政治権力(political power)という狭い言い方も存在する。
権力
power
https://navymule9.sakura.ne.jp/power.html
幕末から明治期にかけて、「権」という言葉は「まず power、 つまり力という意味だった」というわけである。この事実認識は、おそらく間違っていない。なぜなら、漢語の「権」には、「重り、分銅」といった語義に加 え、「支配力、服従させる力」という意味
power source
規範
「ルールだから」従う人は何割?「罰も報酬もないルール」になぜ人は従ってしまうのか?https://t.co/lZUImxo5P6
— ナゾロジー@科学ニュースメディア (@NazologyInfo) June 12, 2025
英ノッティンガム大学は「人はなぜルールを守るのか」という疑問に迫りました。研究では、守ることに意味が感じられないルールにも多くの人が従うことが分かりました。なぜでしょうか。 pic.twitter.com/iBp2xZORw5
power source
パワーソース
— 石部統久 (@mototchen) June 22, 2025
社会心理学者
ジョン・フレンチ
バートラム・ラーベンhttps://t.co/o7y5lw6rsJ 「権力」「権威」「権限」の違い
中小企業診断士 大崎高宏 公式サイトの図
(権力の源泉)
power source
正当
legitimate power
報酬
reward power
強制
coersive power
専門力
同一視
referent power pic.twitter.com/6WOw5u15Ct
1959年に社会心理学者のジョン・フレンチとバートラム・ラーベンは、他者を望ましい方向に変えるために使われる5つのパワーの基盤を定義した。それは強制力(力に依拠)、報酬力(インセンティブに依拠)、正当権力(ヒエラルキーに依拠)、同一視力(所属に依拠)、そして専門力(知識の権威に依拠)である。彼らは数年後に、第6のパワー基盤として、情報力(希少価値のあるデータ源へのアクセスに依拠)を付け加えている。
新しい職場のパワーダイナミクスを理解するための5つの戦略 ヒエラルキーに関係のない「影の組織図」を把握せよ | 組織文化/組織開発|DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー
power 権力
権力とは規範としての意思による支配である。滝村隆一
— Kuto (@KutoCat) January 31, 2015
権力とは「規範にもとづいた観念的な支配力」にほかならない
https://karinkarin01.seesaa.net/article/2015-02-26.html
権力は大きく分けて、経済権力と政治権力にわかれます。企業や労働組合などの経済権力が、おもに物質的な富の生産と分配にかかわるとすれば、政治権力は思想やイデオロギーなどの観念にかかわっています。ほかに思想やイデオロギーにかかわる権力としては、宗教組織(教団)などが挙げられるでしょう。マスメディア権力にも、たぶんにそうした側面があります。
もちろん、経済権力、政治権力、宗教権力、思想権力といっても、その分類は画然としたものではありません。たとえば宗教組織が、政治的・経済的役割をもつこともあり、経営者団体や労働組合などの経済権力が政治的性格を帯びることもあるわけです。
https://karinkarin01.seesaa.net/article/2015-02-26.html
組織における権力
組織のあるところ権力は存在します。権力とは、規範による、個々の組織構成員の意志に対する支配力のことです。この支配力に対して、組織の個々人が喜んでそれを受け入れようと、いやいや受け入れようと権力の本質には関係ありません。このことは滝村隆一さんから学びました。
— 蝸牛疾走(かぎゅうしっそう) (@kagyu_tetsu6) August 11, 2015
権力とはいったいなんなのだろうか。 滝村は権力を「人間主体に対する、外部的・客観的な〈支配力〉」と規定している。 人間社会において、こうした支配力は、当初、「原初的な神的・宗教的権力」のかたちをとって出現した。神(自然)の力と、神の力を律する者が、人びとの生活を支配したのである。 神的・宗教的権力は、次第に強力な政治的権力へと発展していく。その背景に、人間社会の歴史的発展があったことはいうまでもないだろう。 権力は国家だけの現象ではない。職場においても、学校においても、支配−服従関係の発生する場においては、どこでも権力が発生する。 権力が存在するところでは、権力者の指示・命令(支配者の意志)にしたがって人が行動する。逆に、そうした関係がまったくないところでは権力は成立していない。
組織における権力者の心理 社会的勢力感の影響に関する実験研究
The Psychology of Powerholders in Organizations An Experimental Study on the Sense of Social Power
hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/29116/com020201700203.pdf
国家権力とは何か
近代以降においては、支配者の意志は、国家意志となり、その規範は法律のかたちをとり、それに違反した者を、規定にもとづいて罰するようになります。そして、支配者自身もまた法律にしたがわなくてはならなくなるわけです
https://karinkarin01.seesaa.net/article/2015-02-26.html
国家権力をも含めた政治的権力の特質は、社会的秩序全体に関わる観念的かつ一般的な意志を必須的媒介とした権力、という点にある。そしてかかる一般的意志が、社会全体に対して有無をいわさない法的規範形態をとるか、それともたんに政党の綱領の如き形態にすぎないかが、国家権力と政治的権力一般とを峻別する標識といってよい
国家権力は秩序を形成しそれを維持していこうとする。そしてそのためには、国民の行動に干渉することが必要である。これは国家意志によって、具体的にいうならば法律とか政令とか よばれるすべての国民にとって客観的に存在すると見なされる一般的な意志によって、国民各自の個別的な意志を拘来するかたちをとる。つまり意志関係をもってするところの支配である
『三浦つとむ選集2』
レーニン批判の時代
勁草書房1983
powerを持つ支配者
デモクラシー国家の代議士
他にもいっぱいいます
スポーツ(ゲーム)ゲーマー、
ヨガ練習者、
瞑想家、
医学部教育の学生、
富裕層
サイコパスが好む職業は権力者
オックスフォード大学の研究専門の心理学者で、『サイコパス』の著者のケヴィン・ダットンによれば、サイコパスの多い職業を10挙げると、以下のようになるという。
CEO、
弁護士、
テレビ/ラジオのパーソナリティ、
セールスパーソン、
外科医、
ジャーナリスト、
警察官、
聖職者、
シェフ、
公務員。
別の調査の結果は、ダークトライアドの特質を持った人は支配的なリーダーシップ――他者を支配することを伴うリーダーシップ――を発揮できる機会が得られる地位、とりわけ金融やセールスや法律の分野での地位に強く引きつけられることを示している。
ダットンは自分のリストに政治家を含めていないが(おそらく、サンプルとなる数がかなり少ないからだろう)、首都ワシントンはアメリカのあらゆる地域のうちでサイコパスの割合が際立って高いという調査結果がある。
https://toyokeizai.net/articles/-/776561?page=3
第四権力と揶揄されるマスメディア
ノンポリティカル・エリート
マス・メディア、
学者、
官僚、
財界人
などのいわゆる非政治的エリート(non-political elite)
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-23K22082/
権力者としての科学者
スキエンティアはpowerというベーコンの格言。
「scientia est potentia」、「knowledge is power」
フーコーによる科学的真理の言説は権力という説
あらゆる言説は「権力の意思」を有す-フーコー
このことを示す典型例としてミシェル・フーコーほどの適材はいないであろう。フーコーは次のようにいう。
あらゆる言説は、決して中立的な事実を述べたり真理を述べたりするものではない。なぜなら、いかなる言語表現も、必ず他者に何かを伝え、一定の効果をもたらし、場合によれば社会的効果を生みだそうとするからだ。
その場合、いかに中立的で正当にみえるような言説であっても、その背後を覗けば、その表現者の利益や特殊な感情や、もっと端的にいえば「権力への意思」がある。自分を正当化したり、自己を引き立てようとしたり、他人を味方に引き入れたり、というわけである。無色透明な蒸留水のようなサラサラした言説はありえない。
こうして言説は必ず一定の「権力作用」をもたらす。それは、科学的真理といった場合にも当てはまる。「真理」という言葉に騙されてはならない。ある言説を真理だといったとき、それに対する反論を寄せ付けないのであり、そこに真理の絶対化が生じ、その真理を述べたものの権威化が生じているのである。「真理」につくことによる自己特権化である。
「科学」にせよ「真理」にせよ、無垢な客観性を装っているだけで、それは実は、ある意図を秘めた「権力」を隠しもっているのだ。
今日、「真理」はしばしば「事実」や「エビデンス」として表現される。たとえば政策の評価基準としてしばしばいわれるエビデンス主義においても、「事実が大事だ」「エビデンスが大事だ」という。だが、このいかにも中立的で客観的で科学的な言辞じさえも、考えてみれば、「科学中心主義」のイデオロギーを隠しもっている。
エビデンスを操り、それを握ったものの優位を隠している。これこそが「エビデンス」だといえば、誰もが容易には反論できない。これは「権力作用」にほかならないのである。
「リベラルな価値」も一種の権力にすぎない...批判主義にみる決定的な矛盾 | Web Voice|新しい日本を創るオピニオンサイト
弱者と公認された人
弱者だとみなしていた人間に同情が集まって権力者になる
https://note.com/meta13c/n/n57e6a0eb03b0
