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【エッセイ】【文学】独文学者大山定一とゲーテ、リルケのことなど(四) 薔薇の墓碑銘を巡って

おお薔薇、かなしい矛盾の花。
花びらと花びらは、幾重にもかさなって、まぶたのように、
もはや誰のねむりでもないはかない夢を、ひしとつつんでいる
うつくしさ。

 一読して美しい調べの詩だなという感想を抱かれたのではないか。あるいは、「えっ?」と怪訝に思われた方もいるかもしれない。ライナー・マリア・リルケ(1875~1926年)の墓碑銘を大山定一(1904~74年)が訳したものだが、別の訳で読まれた方は「これってこんなに言葉が多かったっけ?」と思われたのではないか。あるいは原文に触れたことがある方は、「かなしい」とか「儚い」とか、そんな言葉なかったのではないかと。

Rose, oh reiner Widerspruch, Lust,
Niemandes Schlaf zu sein unter soviel
Lidern.

リルケの墓

 薔薇を愛し、多く詠んだ「薔薇の詩人」リルケが死の前年、自ら遺書で墓碑銘に指定した大変有名な詩だけあって、和訳の数もとても多い。ただそのほとんどは直訳に近いものであり、逆にいえば大きな差はない。一例として、詩人でもある生野幸吉(1924~91年)の訳をあげておく。私が十代の頃に最初に手にしたリルケ詩集、白鳳社版の掉尾を飾る一篇で、今でも自然に口について出る。ピアズリーの絵の入った瀟洒な函入りの造本に惹かれて古本屋で手に取ったのだと思う。ろくに詩人のことも知らずに。今の時代、詩集にこれだけ愛情を注ぐ出版社はないだろう。

ばらよ、おお、きよらかな矛盾よ、
あまたの瞼のしたで、だれの眠りでもないという
よろこびよ。

 大山定一訳が際立って言葉数が多いことが分かるであろう。特に「花びらと花びらは、幾重にもかさなって、まぶたのように」、薔薇の花びらと人の瞼、リルケが好んで用いた喩を、噛んで含めるようにやさしい日本語に移している。瞼のような花びらが複雑に重なり合った形態、一個の矛盾のように見える薔薇の単純な美しさ、その瞼の奥底の甘美な眠り。訳注が詩に入りこんでいるようなものだが、それが少しも説明的ではなく、詩の言葉として馴染んでいるところはたいしたものだといえるかもしれない。
 ただ、この短詩は言葉が少ないこと、すなわちわずか21音節、言葉を極限まで切り詰めていることに意味があるのではないか。実際、晩年のリルケの関心のありか、具体的にはフランス語による詩作、そのかろやかさへの志向、フランス語訳を通じての日本の俳諧への接近という線から、三行詩ということもあり、この墓碑銘への俳諧の影響を指摘する論もある。
 英語圏、フランス語圏でも直訳調の選択という事情は同じようである。代表的とされるリーシュマンの英訳をあげておく。

Rose, oh the pure contradiction, delight
of being no one's sleep under so many
lids.

 この簡潔さに比して、大山定一訳はかなしいとか、はかないとか、情緒過多であろう。この墓碑銘については、逐語訳に如くはないのではないか。言葉尽くさぬゆえの晦渋さ、謎深さを、事物、世界の神秘性として感受すること——ただ、このあふれんばかりの抒情性、繊細巧緻なワードセンス、フラジャイルなたおやめぶり、私は好きだったりする……。

 和訳の数が多いということは、それだけ解釈の数も多いということで、どの訳者の見立てもそれぞれ裨益されるところは多いが、私にとって最も刺激的だったのは意外にも文学者のものではなく、哲学者のそれだった。マイスター・エックハルトや西田幾多郎の研究で名高い上田閑照(1926~2019年)が宗教哲学、具体的には禅の立場からこの墓碑銘を論じている。まず上田閑照の訳を示す。

薔薇、おお!純粋な矛盾、
幾重にも重ねた瞼の下 
誰のでもない眠りであるよろこび

 上田閑照は訳詩のうえではほとんど問題にならないohという感嘆詞を「根源語(Urwort)」ととらえ、そこからこの詩句全体が分節してくるとみる。「『おお!』は薔薇と呼んですませていたそのものが突然名づけ得ず言い得ざるものとなることによって、そこが裂け目になって言葉の世界が破れるその音響である」。すなわち、薔薇の現前にあって自己を、また薔薇すらも忘れる「おお!」という体験から言葉が、世界が開けてくると。
 長くなるが興味深い見解かと思われるので引用を続ける。「この墓碑銘の詩から他の語句を全部消して『おお!』だけにしてもそれは禅であり得、禅の言葉であり得るということである。これに対していえば、『純粋な矛盾』の句だけ残して他を全部消すと、それは哲学の一つの根本語になり得るであろう。さらに『幾重にも重ねた瞼の下 誰のでもない眠りであるよろこび』の句だけ残して他を全部消してもこれは詩になるであろう。しかし、『おお!』だけ残して他を全部消すと、もはや哲学でもあり得ず詩でもあり得ない。『おお!』と言ってそれだけでも充全に現成するもの——それが禅である」。
 リルケと禅、特に詩人のいう「世界内面空間」とのかかわり——ルードルフ・カスナーこのかた、多くの論があるようだが、私の手には余るので口を噤む。ただ、この墓碑銘が、清澄な境位に達した高僧の遺偈のように清潔であるということはいえるだろう。「誰のものでもない眠り」という「非在」の「在」、それは矛盾であり、同時に純粋な調和でもあり、禅とも親和性の強い哲学の方の言葉でいえば、「絶対矛盾的自己同一」ということになろうか。

死の前年、1925年のリルケ

 大山定一のユニークな訳について述べたが、実はこの墓碑銘にはあっと驚くような訳もある。誰あろう、リルケ自身の「フランス語訳」である。リルケ研究者として、アララギ派歌人としてよく知られた高安国世(1913~84年)がスイス国立図書館のリルケ資料室で見つけた。さる侯爵夫人の所有になる、リルケ自筆の紙片が寄贈されたものだという。走り書きのメモのようだというそのフランス語と、高安国世がつけた訳をあげる。

Rose,oh pure contradiction,
            Désir,
De n'être le sommeil de personne parmi tant
de Chants.

薔薇、おお純粋な矛盾、
          熱望、
なんびとの眠りでもないことの、そのように多くの
うたのあいだで。

 大きく二点あると思うが、まずドイツ語のLustをリルケはフランス語でdésir=欲望としている。Lustにはよろこびの他、欲望の意味もあるが(英語のlust)、私が見た範囲の和訳ではすべてよろこびの線で解釈している。英訳、仏訳でも同様のようで、delight, volupté, joieなどの語が当てられている。「切望」くらいが日本語としていい感じか。生きることへの切望と、永遠の眠り=死は矛盾的に同一であると。
 もっと驚くのは「瞼の下で」が「歌の間で」に変わっていることだろう。これはドイツ語のLider=瞼(複数)が、Lieder=歌(複数)と同音異義語で、それがフランス語のchants=歌(複数)へと連想を広げたのだろう。高安国世はドイツ語が不得手な11歳年上の貴婦人に対し、死のわずか5カ月前のリルケが言葉遊びのような感じでフランス語訳を示したのだろうと考察しているが、それが一番あり得そうな気がする。すなわち、「試訳」ですらない戯れだと。
 ただ、仮に「歌の間で」と読んだとして、リルケの世界観とは背馳しないようにも思う。Gesang ist Dasein. 歌は存在である。かの「オルフォイスへ寄せるソネット」第一部第三歌の有名な一節を思い出す。多くの存在の歌の間で、誰の眠りでもないというよろこび——そもそも瞼と歌のダブルミーニングだったのではないかとすら思えてくる。

おお、薔薇よ、純一なる矛盾よ
瞼の如き幾重もの花びらの奥底、あまたの存在の歌のあわいで
もはや誰のものともいえぬ永遠とわの眠り
それは生への切望

 戯れである。詩の言葉にしては理が勝りすぎている。だいたい大山定一の訳よりもwordyである。

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橋本 健史 公開中の「林檎の味」を含む「カオルとカオリ」という連作小説をセルフ出版(ペーパーバック、電子書籍)しました。心に適うようでしたら、購入をご検討いただけますと幸いです。