見出し画像

【エッセイ】【文学】独文学者大山定一とゲーテ、リルケのことなど(一) 捨身と遁走

 中島敦の「わが西遊記」が大好きだ。何なら「山月記」よりも好きなくらいである。「わが西遊記」は「悟浄出世」と「悟浄歎異」の短編二編から成り、「近代的自我の不安、懊悩」の権化たる沙悟浄を主人公に、孫悟空らが活躍するお馴染みの「西遊記」を中島敦流に描いているが、「僕のファウスト」とまでいった意欲作であった。
 今回は中島敦の話ではなく、ある学者についてである。

 「わが西遊記」に触れた作家の富士正晴(1913~87年)の面白い文章があるので引用する。まあ、富士正晴が書くものはたいがい面白いのだが。“ネタ”にされているのはいずれも京都学派の大先生である。

富士正晴

昭和二十年代の初期のころ、中島敦の小説を読んでいるうちに、そこに書かれている中島敦創作の沙悟浄の姿の中に、貝塚茂樹の姿が浮んで来るような気がして、ながく念頭を去らなかった。そのうちに、桑原武夫に孫悟空を、ついで吉川幸次郎に猪八戒を感じるという風になり、割合簡単率直にものをいう方だから、この三教授にその見立ての話をした。別に怒りはしないだろうとは思っていたが、三教授はこの見立てに余り不服はないらしかったのが面白かった。「ところで、君、三蔵法師は誰かね」と吉川猪八戒教授は質問した。「さあそれが適当な人がいない」とわたしが答えると、「それなら三蔵法師には大山君がいいな」と吉川猪八戒教授はいった。これには貝塚沙悟浄教授も賛意を表したので、三蔵法師は大山定一教授とほぼきまった。

富士正晴『桑原武夫のこと』

 野暮を承知で注釈する。貝塚茂樹(中国史)=近代人、桑原武夫(フランス文学)=行動人、吉川幸次郎(中国文学)=エピキュリアン、大山定一(ドイツ文学)=求道者ということだろう。大山三蔵法師がすごく偉い人に思えてくる。
 貝塚茂樹、桑原武夫、吉川幸次郎については、それぞれ著作集、全集が出版され、一般向けの本が現在でも多く書店に並び、斯界の大家と認められているだろう。それに比べて大山定一(1904~74年)はどうか。本屋で彼の名を目にするのは、わずかに新潮文庫版のリルケ(1875~1926年)の「マルテの手記」の翻訳くらいのものではないか。忘れられた存在に近いのかもしれない。近年のドイツ文学、ドイツ語学習の地盤沈下という要因もあろう。

大山定一

 大山定一の人となりについては、櫻井正一郎の「京都学派 酔故伝」という痛快な本で、一章を設けて詳述されている。「一番の酒豪」とされるが、悪酔いすることなどはなく、静かな酒だったという。「文人肌」の名文家で学者としての業績には無頓着、翻訳で本領を発揮した。学内政治で面倒なことが起こるとすぐ遁走して、桑原武夫の手を焼かせたという逸話も面白い。好感がもてる。
 訳業として真っ先に挙がるのは、わが国におけるドイツ文学の翻訳の質を飛躍的に向上させたといわれる、先述の「マルテの手記」だろう。

So, also hierher kommen die Leute, um zu leben, ich würde eher meinen, es stürbe sich hier.
人々は生きるためにこの都会へあつまってくるらしい。しかし、僕はむしろ、ここではみんなが死んでゆくとしか思えないのだ。

Rainer Maria Rilke『Die Aufzeichnungen des Malte Laurids Brigge』(大山定一訳)

 瑞々しい日本語、いいなあと思う。今となっては全体に難渋かもしれないが、何でもかんでも“分かりやすい”新訳がいいということはなく、版元には長く遺してもらいたい。
 そしてゲーテ(1749~1832年)の「ファウスト」の完訳。私は岩波文庫版の相良守峯訳の何ともかたい日本語に挫折し、大山定一の抒情性豊かな訳で読み通した。「その人は、ゲーテによって受胎した」という吉川幸次郎の格調高い序で始まる「ゲーテ詩集」はライフワークで、亡くなる間際まで訳を続け絶筆となった。私の座右の一冊である。
 深酒もたたり、学問的業績は「寂寞である」(吉川幸次郎)と評されるが、その方面では「文学ノート」がまごうことなき名著であろう。版元の筑摩書房にはぜひ学芸文庫版での再刊を望みたいところだが難しいかもしれない。世の中、まがいものが多すぎる。ドイツ文学は専門外だが、そんな私の文学観にも、少なからぬ影響を与えていると思う。

ベッティーナ・ブレンターノ(結婚後フォン・アルニム)

 といいつつ、そんな大切な一冊の「文学ノート」、果たしてちゃんと読めていたのかどうか、はなはだ心もとないことに気づいた。いたるところに線は引いてあるのだが、読み返してみて、ドキリとする箇所があった。ロマン派の女流作家ベッティーナ・ブレンターノ(1785~1859年)の「ゲーテと一少女の手紙」に触れたところであるが、すっかり忘れていたのである。
 ベッティーナとゲーテは1807年、ゲーテ58歳の年、22歳のベッティーナからのアプローチで知り合う。二人は文通を始めるが、大詩人を熱烈に崇敬するベッティーナの時にエキセントリックな愛の手紙に対し、ゲーテからの返事は概ね抑制的なものだった。ゲーテ死後の1855年、ベッティーナは二人の往復書簡を出版する。
 「ああ、あの話か」と思った方がいるかもしれない。ミラン・クンデラ(1929~2023年)が傑作「不滅」でことの経緯を詳細に考察している。クンデラの手にかかるとベッティーナはストーカーまがいの散々な扱いようである。歴史に残る卓越した人物と特別な情緒的関係を結び、それを公にすることで自身の“不滅”の名声を獲得しようとした云々。往復書簡といいつつ、実際はベッティーナの創作も加わった「書簡体小説」であり、案外クンデラのいっていることは的を射ているのかもしれない。
 私には学問的なことは分からないが、リルケは断然、ベッティーナの側に立つ。この書簡はプラトンの「饗宴」と並び、愛について書かれた最も偉大な書物だろうとまで評して。そしてベッティーナのひたむきな悲しい心根、無窮の情愛に対し、泰然として動じないゲーテの姿勢に手厳しい。「たぶん、ここにゲーテの詩人的な偉大さの限界があるのかもしれなかった」。リルケの静かな視線はベッティーナのそれとほとんど同一化している。
 前振りが長くなったが、私がドキリとしたのは、以上のことを受けての大山定一のコメントである。

僕はいま、ふとゲーテの一番苦が手な読者はあるいはリルケのこのような深いしずかな眼でなかっただろうかと思いついた。リルケは決して『ゲーテの敵』ではない。しかし、かたい貝殻のなかで一人さびしく自己だけの孤独な思念にふけっている人間ほど、作家にとって厄介な読者はないのである。作家にはきっとそのような孤独な読者が一番きびしい良心の棘となって、突きささって来るにちがいない。リルケはそういう良心の一番するどい棘であった。

大山定一『ゲーテへの道』(『文学ノート』所収)

 オリュンポスの神の如く悠揚とした文豪を、牡蠣の殻のような自我に籠り凝視する貧しき詩人——二人の偉大な詩人の対照とか、ドイツ精神史を象徴する一素描とか、そういうことではなく、もっと普遍的な、文学という営為そのものの〈原型〉とでもいうべきものを、ズバリと言い当てたように思えてならないのである。それ以上はうまく言えそうにないので口をつぐむ。

 その他、気がついたこととして、「捨身」という言葉がしばしば用いられていた。特にフリガナも振っていないので、日常語として「すてみ」と読んでいいのだろう。学者先生の学問的文章でお目にかかることはあまりない、激しい言葉のように思う。大山定一その人のキーワードといっていいのかもしれない。文学に対する“賭け”にも似た“全身全霊”的なコミット=求道という程の意味だろうか。それは文学以外の世事に対する「遁走」癖と表裏をなしているのであろう。実に潔い。

 前回へ   次回へ

いいなと思ったら応援しよう!

橋本 健史 公開中の「林檎の味」を含む「カオルとカオリ」という連作小説をセルフ出版(ペーパーバック、電子書籍)しました。心に適うようでしたら、購入をご検討いただけますと幸いです。