【エッセイ】【文学】独文学者大山定一とゲーテ、リルケのことなど(二) 「旅人の夜の歌」を巡って
お気に入りの散歩コースだった。昔京都に住んでいた頃、哲学の道をちょっと入って、緑溢れる法然院によく立ち寄った。広い外廊下に腰を下ろし、飽きることなく庭と空と雲をながめ、静寂の中、ぼんやり思索に耽る——今振り返るととても貴重な時間だったように思える。時に墓地まで足を伸ばした。谷崎潤一郎、河上肇、内藤湖南……。苔むした著名人の墓の間を縫って歩く。少し奥まったところだったように思うが、私の好きな哲学者九鬼周造(1888~1941年)の墓もあった。ある夕暮れ時、横だったか裏だったかに回ると、碑文が刻まれているのに気づいた。
見はるかす 山々の頂
梢には 風も動かす 鳥も鳴かす
まてしはし やかて汝も休はん
「ゲーテの歌 寸心」ともあった。「寸心」とは西田幾多郎(1870~1945年)の号、「ゲーテの歌」とはシューベルトの歌曲としても有名な「旅人の夜の歌」のことだと博識の友人に教えてもらったように記憶している。西田幾多郎が才能豊かな若い友の早世を悼んで、自ら愛誦する詩を訳し、揮毫したのだという。

Über allen Gipfeln
Ist Ruh,
In allen Wipfeln
Spürest du
Kaum einen Hauch;
Die Vögelein schweigen im Walde.
Warte nur! balde
Ruhest du auch.
自由律によるわずか8行の短詩だが、Gipfeln、Wipfelnなどきれいに韻を踏み、簡潔かつ端正な形式であることは、仮にドイツ語の知識がなくても何となく分かるだろう。ゲーテ詩の中でもとりわけ広く人口に膾炙している一篇だけあって、後述するように数えきれないほどの訳があるが、一冊丸ごと費やしてこの詩を考察した、ゲーテ研究者でエッセイストとしても名高い小塩節の原文に忠実な口語訳が意味を取りやすいと思う。
すべての峯をおおって
憩いがある、
すべての梢の中に
お前は そよ風のいぶきの
跡をほとんど見ない、
小鳥は森に沈黙している。
待つがよい やがて
お前も 憩うのだ。
大山定一と中国文学の泰斗、吉川幸次郎(1904~80年)との間の往復書簡「洛中書問」でも、「旅人の夜の歌」が取り上げられている。というよりこの詩を一つの範例として、詩について、文学そのものの本質について、特に外国文学の翻訳のあり方について、議論が展開されている。
「洛中書問」も私にとっては大切な一冊だ。学生時代に読んだ時、いつか詩心豊かな二人の偉大な学究の議論についていけるだけの本物の「教養」を身につけたいものだと考えた。現実は日暮れて道遠しである……。
この本の要約らしきものだったら私にもできる。「翻訳文学というものは今日当然書かれていなければならぬ文学作品を、言わば翻訳という形で示したもの」という信念を根底にすえ、森鴎外、二葉亭四迷の「文人訳」を理想とする大山定一に対し、吉川幸次郎は「原文のもつだけの観念を、より多からずまたより少なからず伝える」ことが翻訳の本義と考え、「文人訳」に敬意を払いつつも、「科学的」な「学人訳」に優位性を置く。少なからぬ開きがある両者の討議は時に白熱を帯びる。
と、分かった風な口をきいたところで、この本が分かったことにはならないであろう。例えば、吉川幸次郎は「旅人の夜の歌」を五言絶句に訳すという“離れ業”をさらりとやってのける。
諸峰夕照在 樹杪無隻籟
投林歸鳥盡 物我亦相待
原詩に含まれたゲーテの観念を、「より多からずまたより少なからず伝えている」のだろうが、私にこの漢訳の妙味を吟味できる教養があろうはずない……。

大山定一は筑摩書房版の世界文学全集で、この詩に次のような訳注を付している。「遠い山なみ——足下に見える山腹の森の梢——山小屋のまわりに木立、というように、視野は遠景から中景、中景から近景へとしぼられてゆき、最後は自分自身のたましいの内部に、焦点をむすんでいる」。簡にして要を得ていると思う。
さらに「文学ノート」では、李白の代表作の一つ「静夜思」(牀前看月光 疑是地上霜 挙頭望山月 低頭思故郷)を取り上げ、次のように比較している。「不思議に、この漢詩における作家の連想の輪は『旅人の夜の歌』とは反対に、身辺から漸次はるかな遠い空へ階層的に発展している。すなわち、Gipfeln(山頂)-Wipfeln(梢)-Vögelein(小鳥)―du(汝)とその輪が次第にちぢまってくるのとはちょうど逆に、月光―地上霜―名月―故郷というように、波紋は遠くへ遠くへとひろげられていく」(『ゲーテの自然感情について』)。静寂というモチーフは共有しながらも、線の方向は真逆である東西二つの名詩の対照、実に面白い。
「詩の翻訳はどこまでも『詩』でなければならぬ」。そう繰り返し主張する大山定一の訳を次に示す。大山訳は多くの詞華集に採録されており、名訳という評価は定着しているようで、実際、その調べは美しく、朗誦にも堪えるだろう。
山々は
はるかに暮れて
木ずえ吹く
ひとすじの
そよぎも見えず
夕鳥のうた木立にきえぬ
あわれ はや
わが身も憩わん
ただ、原詩に忠実とはいいがたい、かなり自由な訳のように感じる。特に二人称duを「わが身」=一人称で訳しているのは大胆にすら思える。確かに文脈から、duは旅人=ゲーテ自身であることは明らかであるし、辞書にも「話者が自分を対話の相手としてduを用いることがある」とちゃんと載っている。英語、フランス語にも同じような用法があっただろう。
吉川幸次郎の愛弟子でもあった中国文学者の一海知義によると、経済学者で同志社大学総長だった住谷悦治は、先に触れた九鬼周造の墓碑に感銘を受け、明治から昭和にいたるまでのこの詩の邦訳を32種も集め、解説と感想を付して私家本として出版したというから恐れ入る。アマチュアの私にそこまでは無理と思いつつ、それでも半日かけて我が家の乱雑に積み上がった本の山塊をひっかきまわし、詩やドイツ文学関係の文献をかき集め、半数の16人の著名な学者や詩人の訳を照合することができた!(西田幾多郎、阿部次郎、生田春月、並木祐一、高橋健二、大山定一、星野慎一、谷友幸、高安国世、山口四郎、生野幸吉、芦津丈夫、小塩節、柴田翔、高辻知義、森泉朋子)
果せるかな、duを一人称として訳しているのは大山定一だけで、他はなんじ、なれ、おまえ等々、すべて二人称を訳語にあてていた。

「旅人の夜の歌」については、あまりによく知られた、ドラマチックなエピソードが伝わっている。この詩が書かれたのは1780年、ゲーテ31歳の時で、キッケルハーン山に登頂した際、そこの山小屋の板壁に鉛筆で書きつけた。ワイマール公国の枢密参議官に就任して4年目、行政官としての公務に多忙を極めた日々のひと時の休養だった。見晴るかす峯々、夕暮れから日没にかけての誰そ彼時、風景は夕闇に沈み、風も、鳥の声もやんで、まったき静寂が辺りをつつむ。まあ、あせらず待て、憂いに満ちたわたしの心にも、やがて平安が訪れるだろうよ。仮にこんな風に、特に最後の二行を自分なりにかみ砕いてみたが、下界の喧騒と世俗への倦厭、天上への彼岸的な憧憬など、多義的、多層的な解釈が可能であろう。
約半世紀もの時を隔てた1831年、老ゲーテは82歳の誕生日の前日、再びキッケルハーン山に登る。山小屋の板壁には若き日に書いた自筆の詩の消えかかった文字。ゲーテの頬に涙が伝う。詩人はおもむろにハンカチを取り出して涙をぬぐうと、しみじみと最後の二行を繰り返し口ずさんだという——Warte nur! Balde ruhest du auch.——若きゲーテにとっては後景にあったと思われる「永遠の憩い=死」という主題が、この瞬間、ぐっと前景にせり出し、ichとduの自己内対話という近代自我的な距離を越え、もっと直截な魂の真情の自然な流露としてこの二行をつぶやいた——ゲーテが世を去るのはこの半年後のことである——そう考えると、ここはやはり大山訳の、「あわれはや、わが身も憩わん」がいいな、などと結論しては、さすがに我田引水、贔屓の引き倒しだろうが、吉川幸次郎をして「詩人のふところに飛び込み、詩人と一体となる能力、その卓越」といわしめた面目は躍如しているといえよう。
【付記】
因縁話めくが、西田幾多郎が冒頭の九鬼周造の墓碑を揮毫したのが1945年5月26日。日記には「九鬼の墓碑を書く。昨夜二百五十機来襲」とある。敗北必至の祖国、「日本精神主義的ではない」などというファナティックな世論によるいわれなきバッシング、肉親や友人との相次ぐ死別。筆を執る西田幾多郎の胸中にも「永遠の憩い」への溢れる思いが去来していなかったか。「待てしばし、やがて汝も休わん」。日本の哲学を独力で切り拓いたこの巨人が永眠するのはわずか10日後の6月7日。絶筆であったともいわれている。
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