"相手を尊重できている" ってどういう状態なんだろう?
発信をはじめてからの一か月で何度も感じたこと。
「その場凌ぎの結論じゃなくて、本当に納得できる答えを見つけたい」
その想いは私自身に対してもそうだし、読者の方に向けた "熱" の部分でもあります。目まぐるしい世の中の変化についていく…いや、"耐える" には、柳のようにきちんと根を張る必要がある。
ハウツーやノウハウは役に立つけれど、万能じゃない。
自分で「使いどころ」を考えられることを前提としたツールなのに、それを考える思考は育てない。
だからこそ私は「問いかけ」という形で「物事の背景に目を向ける」ことの重要性を発信したいし ーー そのために必要な「なぜそうなっているのか」「自分にとってどういう意味をもつのか」を考え続ける思考を届けたい。
論理は正しい。だから証明したいのはそれじゃない。
私やあなたの中にある "見えない感覚" が間違いじゃないこと、それを信じていたいんです。
じつは夕べ、X(旧Twitter)で…いま話したような内容をあらためて「自分に問う」機会をいただきました。
この活動をはじめてから一か月が経って見えてきた私の困りごと。
Xでの発信や関わり方について、ほとんど「はじめまして」の状態だったのに親身に助言をくれたひとたちがいます。
※最後にクリエイターページを載せておくので遊びに行ってみてください
二つ名として掲げていた「問いを立てる一般人」というフレーズに対しても率直な意見をくれました。
「そもそも問いってなに?」「一般人ってどういう定義?」
「視座って言葉自体、あまり聞いたことがないかも」
それを聞いて、ハタと気づいた。…あぁ、そうか。
盲点だった。
私にとって「問いを立てて考える」ことは自然と身に着いた "生き方" で、こうして記事に残すたび、ラベルを貼り直すという「言語化」を行っているようなものだけれど。
重要性を感じてもらうより先に、"問い" そのものを翻訳する必要がある。
発信を届けたい人を広く持ちながら、いまの自分に見えていない人を取りこぼしていたのかもしれない。
言葉や意味が伝わったかは相手に委ねたい。そこは変わらないけれど…
この一か月、私は「問いをまだ知らない人」を尊重できていただろうか?
そんな問いを立てながら、今回の内容は自分を見つめ直すものにできたらなと思います!
"問い" ってなんだ?
先に謝っておきましょう。
問いを知らない人に向けて、と言いながら「問い」という言葉をすでに何度も使ってしまった。…すみません。
それくらい、私にとっては日常に溶け込んでいる概念なんだと思います。
べつに今の状態になりたいと思って日々を過ごしたわけではなく…
本を読んで、分からないことを考えて、実際に行動・検証しているうちにこうした思考が育っていった。
だからまずは「問い」の定義を言語化して、みなさんとの "共通言語" にする必要があるのかもしれない。
"問い" と "疑問" はどう違う?
きりしまつづりが発信する「問い」の定義は以下のとおりです。
・過程と結果(因果)がある疑問
・結果から過程に向かって "逆向きに" 深掘りできる
・深掘りすることで判断軸や選択見つかる
文章上の表現は「疑問」と変わらないものだと思ってください。
同時に、大事なのはそこ(=文字表現)じゃない。
その疑問に答えを出そうと考えること自体が、ほかの疑問を解決するという "構造" をもっているのが「問い」です。
…また抽象的なワードだ。具体例で説明してみようかな。
たとえば「なぜ雨が降るのか?」という質問をされたらなんて答えますか?
気圧と気温の関係。
雲の中で重くなった水滴が落ちてくるから。
そういう仕組みだから。
ぜんぶ正しい。疑問には「正解」がある。
ただこの質問を疑問ではなく「問い」として考えると、思考のながれが発生すると思っていて。
実際に私がこの質問を受けたらきっと「どうしてそれを知りたいのか?」をまず考える。
雨が降る理由を知ってどうしたいのか。
所謂「観点」というやつです。
そこが分からないと、質問した理由(背景)が見えてこない。
・"雨と雪の違い" を知りたいから、先に「雨が降る仕組み」を聞いたのか
・突然降り出した雨に対する「なんで雨が降るんだろう…」の嘆きなのか
理科の宿題をしている子供に聞かれて「そういう仕組み」と答えたら、たぶん「大人なのに分かんないんだ…」と言われちゃいそうですよね。
雨が降る仕組みが分かったら、何ができるのか?
疑問をもった背景に目を向けて、疑問と背景にある理由との両方に "応える" のが「問い」という形式です。
それを知りたいのが自分か相手かによって、実際にどう返事をするのかは難しいところ。
そういうときに役立つのが "視座" なのですが…これは別の機会に。
なんせ「視座をテーマにした記事」を数十本書ける程度には奥が深いので。
会話としては成立しているのに「言いたいのはそれじゃない」というモヤモヤを感じたこと。
一度くらいは、そんな経験がありませんか?
相手の発言を疑問として捉えるとこうしたすれ違いが起きます。
逆に「コミュニケーションがスムーズ」だったり「相手が言いたいことは分かる」ひとはすでに "問いを立てている" ことになるんじゃないかな。
誰もが無意識に使っているもの。
それを意識的に使える思考を育てることが、当面のゴールになりそうです。
問いの目的って?
問いは "因果関係" を内包している ーー と聞くと難しいけれど、なんてことはない。「どういうことが言えると、何が説明できるのか」という論理をもっている。
ただ、 問いの目的や…効果の射程範囲は「非・論理」だと思っていて。
たとえば「会話が噛み合わない」と感じたとき。
その理由を考えると思います。自分の話し方が悪いのか、そもそも前提の認識が違うのか ーー それが分からないと、ずっとモヤモヤしてしまう。
「いま話が嚙み合わなかったな」という感覚。目の前の結果から「理由を逆向きに深掘りしていく」ことでズレの原因にアタリがつく。
勿論それは「正解」じゃない。疑問と違って "問い" には正解がありません。
小難しい言い方だと "文脈" なんて言いますが…誰しも無意識にやっていること。なんていうか…「空気読み」に近い。
誰と話しているのか。その相手とどういう関係なのか。
具体的な場面によって思い当たる原因というのは変わってくる。
毎回異なる条件を加えて自分なりに "今の答え" を考えるために必要なのが「問い」という形であり ーー その形をもっていれば、一時的に伝わらなくても改善の余地を生み出せる。余地があるとき、人はまだ動ける。
あなたの「感覚」に根差した理屈、答えを探すために "問い" というツールが必要なのだと思ってもらえれば十分です!
この一か月で得たもの、とりこぼしたもの
…こういったことをまず知ってもらうところから、私は発信をはじめるべきだったのかもしれない。
けれど、後悔はしていません。
実際には違うやり方でやってみて、その結果、この結論に戻ってきたのだから私にとっては意味があった。
ただ、一か月の間に置いて行ってしまった人もいると思います。
それはしたくなかった。
先程の「問いとはなにか?」という話だって、私は一度で伝わらなくてもいいと思っているんです。これから何度だって発信するし、今まで見えてこなかった気づきが「これまでのあたりまえ」から見つかればいい。
結果は結果であって、本来誰も関与できるものではない。
だからこそ私は過程と感覚を大事にするために、浮かんだ疑問や現状を問い、答えや意味に気づくための論理を組み立てている。
…けれど。
それは「問いが分からないひと」に向けた発信があってこその話だ。
相手を尊重するために必要なもの
伝えてみたけれど、結果としては伝わらなかった。
伝わった気がするけれど、そのうえで相手は違う選択を選んだ。
それを許容することが「相手を尊重する」ということだと思う。
そして、許容するためには納得という "感覚" が要る。
相手の状況、背景は? その場合に何をすればいい? ーー その問いの答えがなければ、伝わらなかったという "結果" だけに固執してしまう。
その点で、私は「問いを知らない読者を尊重する姿勢」を発信できていなかった。
ここ数日、Xでの活動規模がすこしずつ拡大しています。
発信内容の主軸は「視座」や「問い」といった抽象概念。一般的に「ビジネス用語」として知られる内容をポストしていることになる。
選んでそうしている、というより ーー note での発信内容を圧縮すると、テーマとしての抽象度が高いせいでビジネス用語を借りる機会が多くなってしまう。
その結果、コンサルタントや経営者の方、営業さんといった "人と関わることを仕事にしている方" のほか、同業である ITエンジニアがフォローしてくれるようになりました。
けれど、私自身はコンサルタントでもなければ、経営の経験や役員のような「視座の高い立場」としての実績があるわけでもない。
仕事や日常生活で自分が困ったときに「使える!」と思った考え方が、世間ではビジネス用語として浸透している考え方だった…という順番です。
だから、ビジネスに関する専門性はもっていない。
この方針でいいのか? この先、届けたい層に届くのか?
noteとX。それぞれ異なる特色のツールの運用に悩んでしまって、現状の結果だけに目が向いていた。ちいさく伸びはじめたからこそ、気づいてしまった。
ただ、逆に言えばそれが強みだったはずだ。
そんな平凡な人間が生きていくうえで「実際に必要だった」思考とその重要性を実感として共有できる。
"論理で先に枠を作って、あとから現実を当てはめる" 手法をトップダウン的と言うのだけれど、私がやっているのはその逆。
発信内容としてみれば「コンサル的」「戦略」といった言葉があてはまるしそれも間違いではない。実際、ビジネスでも活かせる部分が大きい。
ただ、論理と感覚の順番が違うことで「仕事以外でも、偉い人じゃなくても使える」「むしろすでに使っている」理屈として再定義することが可能になっている。
個人の経験に根差しているから、私にしかできないし ーー 「誰にとっても」という形の再定義ができるから、あなたに届く。
…実際、どういう目的や何を期待してXでフォローしてくれているかは分からない。肩書で見れば平社員、そんな私を知ってか知らずか「偉い人」「すごい人」がフォローしてくれるのは…意図が読めないとちょっと怖い。
そもそも今はそこで悩む段階でもなかったのだけれど…結果として、私に足りなかったことに気づけた。これも問いのおかげ。
問いの定義や…今後はそれこそ「視座と視点の違い」といった内容からはじめて抽象概念を誰でもイメージできる形に翻訳するのが先。
重要性に気づいてもらうのはそれから ーー そんな順番でまた漕ぎ出そう。
「肯定」ではなく「尊重」したい
正論や失敗のために「自分の感覚は間違いだった」なんて思わなくていい。
私が伝えたいのはこの一言に尽きてしまう。
抽象的な概念は、あくまでそれを伝えるためのツールでしかない。ハウツーだけでは不足するから "問い" を掲げているだけで、やっていることとしては周りの先駆者たちと変わらない。
あなたの悩みを、未然に防ぐことは私にはできない。
だけど、悩みに寄り添う思考を渡すことはできます。一人で抱え込む必要性はどこにもない。
"感覚を優先するための論理" があったっていいじゃない。
私はそれを伝えることで、同じ思いや経験をしたことのある誰かの人生を許容したい。正しさによる肯定ではなく、間違っていないという尊重の形で。
それは私自身がずっと「ほしい」と願っていたことでもある。
そんな気持ちも抱えつつ、今日から "問い" の伝導師 を名乗っています。
▼ …という経緯ではじめたシリーズ連載がこちら ▼
▼ Special Thanks ▼
さいごに今回の「問い直し」の機会をくださった方の note アカウントを(勝手に)紹介させてください!
▼ きりしまつづりってどんな人? ▼
▼ 問うことで「自分の選択に納得感をもつ」のがゴール ▼
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
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