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ちっぽけなあたしの死を嗤え #05

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【君塚幸恵・41歳】 その2


「近所迷惑。外までめちゃくちゃ音漏れしてた。常識考えろよ」

 リビングで流していた、ミスカルのCDがいきなり止められ、顔を上げるとそこには息子・幸多郎がいた。

「やだ、帰ってたの気づかなかった。チャイム鳴らしてくれれば開けたのに」

「鳴らした。でもあんなバカでかい音で聴いてたら、聞こえるわけないじゃん。なに世界に浸ってんだよ、気色悪い」

 大好きなミスカルことMr.QUARTETTOの音楽を聞いていれば、気が紛れるのではないかと考えたのだ。忌々しい『あの音』を、思い出さずに済むだろうと。

 でも何も知らない幸多郎に、そんな事を言えるはずもない。

「ごめんね」

 幸恵はただ、弱々しく微笑むしかなかった。

「·····ったく」

 これみよがしに大きなため息をついた幸多郎が、背負っていたバッグを床に放り投げた。

 ドスッ

 BGMが途切れた静かなリビングに、思いのほかその音は大きく響き渡り、幸恵の心臓は縮み上がった。

「そ、そんな風に乱暴に置かないでっ!!」

 瞬間的に、幸恵は声を上げていた。

 そんな風に息子に対して声を荒らげた事など、今まで一度だってなかったはずなのに。叱る時も怒る時も、いつだって静かに論理的に諭して来たはずなのに。

 『あの音』を思い出し、冷静な判断力が失われてしまったのだ。

 当の幸多郎も、初めて見る母親の様子に戸惑いを見せはしたが、

「なんだよ、逆ギレかよ」

 と、すぐさま不満を露わにした。

「……ごめんね、ママちょっと疲れていて。ねぇ、お腹空いたでしょ? すぐご飯にするからね」

「いらね。友達とこれから外で食ってくる」

「え? でもママ、幸ちゃんの為に好きな物たくさん用意したのよ?」

「……俺のため?」

 凍りつくような視線が、幸恵の頭上から降ってくる。ついこの間まで「ママ、ママ」と、甘えて足元にしがみついていた我が子の視線が。

「全部あんたの自己満だろ? 俺の事をちゃんと考えているって言うんだったら、今日の試合に勝って俺が仲間と祝勝会するかもとかの選択肢もあったんじゃないのかよ」

「あ、勝ったのね? すごいじゃな……」

「負けたよ! だから反省会だよ!!」

 リビングを出て行った幸多郎がドタドタと足を鳴らして、自室のある二階に上がって行く。

 大量に作ってしまった夕食を、少量だけ自分の分に残して保存容器に詰めた。

 夫の隆太郎と同じく、幸多郎もレンジでチンしたおかずを歓迎しない。しばらくはコレが自分の昼食になるだろう。

 階段を駆け下り、玄関が雑に閉められる音が聞こえてきた。どうやら「行ってきます」の言葉もなしに、出掛けるらしい。

 

 十四歳。

 声、身長、靴のサイズ、口元に生え始めた薄い髭。思春期を迎えた息子の最近の変化に、母親である幸恵が戸惑っているのと同様に、幸多郎自身も「もう子供じゃない、けれども大人でもない」自分の状況に苛立ち、荒ぶる感情をぶつけて来ているのだろうか。

 母親に対するこの冷たい仕打ちは、年頃の息子を持つ者なら、誰しもがぶつかる壁なのだろうか。

 それとも、現在の我が家では、きちんと律してくれる父親が不在なのが原因なのだろうか。

 独りでいると広すぎる自宅で、幸恵の胸には様々な不安が澱《おり》となって沈んでいく。更にその澱を、体内に色濃く染み込ませるかのように ――

 ゴッ 

 忘れようとしたはずの、あの忌まわしい音が幸恵の脳内に再現される。

 このままじゃいけない。

 もし幸多郎が、若さ故の悩みにもがき苦しんで、あの少女のように身を投げて自ら死を選んだりしてしまったら……。

 震える手を抑え、幸恵はミニコンポのリモコンを操作する。ミスカルのvocal、櫻本の甘い声が部屋を充たしていく。

 大丈夫。幸多郎は大丈夫。

 だって私の息子だもの。そんな愚かな真似は決してしないはず。

 流れるメロディーに合わせるように、幸恵は自分自身に何度も言い聞かせた。

 朝もやの烟《けぶ》る街を、幸恵は独り歩いている。どこに行こうとしているのか、何をしようとしているのか分からない。ただ、目的も見つからないままふらふらと。

 と、静まり返った町並みに、幸恵が何よりも恐れている『あの音』が突然響き渡る。

 ゴッ

 振り向く幸恵。

 道路に倒れた、制服姿の少女と目が合う。

 血の気のない白い顔。見開かれた目は光を失い、次第に白く醜く濁っていく。そして、道に広がっていく赤黒い染み……。

 衝撃のあまり身動きの取れない幸恵の前で、少女の姿はゆらゆらと変化していく。スカートの制服が詰襟姿に変わっていく。長い黒髪がみるみる短くなっていく。

 そして見知らぬ少女の顔が、息子・幸多郎の顔に変わった瞬間 ─

「……ひっ」

 幸恵はようやく、悪夢から目覚めた。

 もうこれで、何回目になるだろう。あの日以来、同じ夢を見てうなされて起きるのは。今夜はいつもより一段と、全身にイヤな汗をかいていた。

 幸恵は重い足取りで寝室を出ると、汗と共に、今見た悪夢も洗い流してしまおうと洗面所に向かった。

 薄暗い廊下に、明かりが漏れていた。幸多郎の部屋のドアの灯り取りのガラス部分が、黄色く光っている。

(まだ起きているの?)

 寝覚めに見た部屋の時計は、確か午前二時を回っていた。灯りをつけたまま眠ってしまったのではないかと、ドア越しに気配を伺うと、

「マジ? それイイね」

 幸恵と話す時とは別人の様な、幸多郎の弾んだ声が聞こえてきた。

「うん、うん。じゃあ、今度の休みに行こうか」

 どうやら電話で誰かと話しているようだ。こんな夜更けに。相手は学校の友達だろうか。

 この夏の十四歳の誕生日に、念願のスマホを幸多郎に買ってやった。夜間はリビングに置いておくという当初の約束は、一ヶ月ももたなかった。

「莉奈が観たい映画でイイって。うん、すげー楽しみ」

 ドアを開けて注意すべきかと迷っていた幸恵は、聞こえてきた「莉奈」という明らかに女の名前に動きを止めた。

(……莉奈って誰?)

 柔らかな声で女の名を呼ぶ。扉の向こうにいるのは、本当に自分の息子なのか。真実を確かめる勇気もないまま、幸恵は音を立てないようにして、そのまま寝室へと引き返した。

「ママが世界で一番好き」

 そう言ってくれていた息子の「一番」が、いつかは別の誰かになるとは分かっていた。

 だが、守るべき存在、守らなくてはならない存在だったはずの我が子が、日々こうやって変わっていく事を成長だと喜べずに、どうしようもない焦りと苛立ちが湧いてきてしまうのは何故なのか。

 私は、母親失格なのか?

 いけない。

 しっかりしなくては。

 だってあの子の母親は、この世で私ただ一人なのだから。

 私が、ちゃんとあの子を護っていかなくては。あらゆる物から。この手で ─

 暗い寝室で独り、幸恵はじっと自分の両手を見つめるのだった。

「君塚さーん、おはようございまぁす」

 朝から随分とテンションが高い。

 髪型やメイク、その服装のセンスから、恐らく幸恵よりも少なく見積もっても五歳ほど歳上と思われる美也子《みやこ》が、待ち合わせをしたドラッグストアの駐車場に、手を振り振り現れた。

「すみません。お手数お掛けして」

「いいのいいの。お安いご用よぉ」

 彼女の様なわかり易い元気じるしタイプの人物は、気兼ねがなくていいがそのパワーに圧倒されてしまう事が多々ある。

 このところ、少々精神的に弱っている幸恵にとって、美也子のテンションの高さには若干疲れを感じてしまう予感がした。

「早めに買物すませて、ランチでも行きましょ」

 美也子は、幸多郎と同じバスケ部の同級生の母親だった。

 バスケ部では大きな大会の際には、父母会からベンチ入りする選手達にスポーツドリンク等の差し入れをする習わしがあり、それを取り仕切るのが主将の保護者である幸恵の担当だとされていた。

 数年前卒業した美也子の長男が、バスケ部の元・主将だった事もあり、この日美也子は幸恵の買出しに付き合ってくれる上に、保護者会長としての雑務の内容を教えてくれる事になっていた。

 美也子のアドバイス通りに素早く買物を済ませ、近所のファミレスに移動した。

「あたし、クーポン持ってきてんのよ。良かったら使って……って、君塚さん、聞いてる?」

「え? あ、ごめんなさい、何の話でしたっけ?」

「大丈夫ぅ? なんだかボーッとしてたけど、熱でもあったりするんじゃない?」

「いえ、すみません。ちょっと考えごとしちゃって」

 先ほどのドラッグストアの駐車場での出来事を、幸恵は思い出していた。

 ケース買いしたスポーツドリンクと栄養補助食品の段ボールを、幸恵の車のトランクに美也子が運び入れた際の事だ。

「そぉれっと」

 掛け声と共に段ボールを担ぎあげた美也子は、振った腕の勢いで荷物をトランクに放り入れた。

 その様子を見ていた幸恵が、「あっ」と声を上げた瞬間、

 ドムッ

 荷物は鈍い音を立てて、トランクに収まった。

 幸恵の腕に、瞬く間に鳥肌が立つ。

(お願いだから……、大きな音を出さないで)

 叫び出したくなる気持ちを、幸恵はぐっと飲み込んだ。

 日増しに、症状が酷くなってきている気がしていた。

 重量のある荷物などが、乱暴に置かれたりした場合の大きな音を聞くと、どうしてもそれをあの恐ろしい、少女が身投げした時の音に重ねてしまうのだ。

 と同時に思い出してしまう、少女の死に顔。

 不安に苛まれ、繰り返される悪夢に眠れず、幸恵は心身ともに疲れ果てていた。

 これは、生々しい「死」の体験に起因する「PTSD=心的外傷後ストレス外傷」、いわゆる「トラウマ」の症状なのだろうか。もしかすると、一度ちゃんと専門の病院で診てもらった方がいいのかもしれない。

 そんな事を考えながら、幸恵はドリンクバーのフルーツティーをグラスに満たした。

「そうそう! 幸多郎君、三組だったわよね? 担任の緑川先生のご主人の話、知ってる?」

 嬉々として噂話をする類の人種を幸恵は好まなかったが、大事な幸多郎の担任の話題だ。聞き流す訳にはいかなかった。

「何かあったんですか?」

「なっちゃったらしいのよ、鬱《うつ》に。あそこ、ご夫婦で教師やってんの知ってた?」

「……いえ、初耳でした」

「先月、ご主人緊急入院したらしいのよぉ。確かお嬢さんが大学受験だったはずなのに、大変よねぇ。お父さんがそんな事になっちゃ。世間体もあるしね、お嬢さんの就職や結婚にも問題でてきちゃう気がしない? 私だったらイヤだわぁ。息子の嫁のお父さんが、精神病だなんて」

 鬱は心の病気だ。そんな三文字で表していいものではない。

 でもこれが普通の人の反応なのだろうか。もし、幸恵がPTSDで病院に行ったとして、それが噂になったとしたら? 世間は美也子と同じような判断を下すのか?

 あの子の母親は狂ってしまったと。

 ダメだ。ダメだ。ダメだ。ダメだ。ダメだ。

 そんな事は許されない。自分のせいで、幸多郎の未来を潰してしまうなんて断じてあってはならない。

(私が、しっかりしなくては)

 指先が白くなるほどに、幸恵はグラスを強く握りしめた。

「鬱と言えば、そうだ。幸多郎君は、最近調子どう?」

「え?」

 なんでそこで我が子の名前が出てくるのかと、美也子の問いに、幸恵は眼球が転げでんばかりに目を見開いた。

「外部コーチの『大河田おおかわだ』よ。アイツ、いつも主将ばっかり目のかたきにしてキツく当たるのよね。ウチのお兄ちゃんは神経図太いからへっちゃらだったけどさ。前キャプテンの西尾君、それが原因でストレスためて、煙草に手ぇ出しちゃったんだから。幸太郎君も繊細そうだから、心配だわぁ」

「ご心配なく。責任感もつくし、良かったと思ってるわ」

 心にもないことを答えてしまった。美也子の指摘する通り、主将になってからの幸多郎は、なんだかいつもピリピリしているように幸恵にも感じられていたのに。

「そうよねぇ。幸多郎君、しっかりしてるしモテるでしょ?」

 ドア越しに耳にした『莉奈』の名前を思い出す。

「どうかしら。でもまだ中学生だし」

「何言ってんの。最近の中高生の恋愛事情は、びっくりするくらい進んでいるんだから。そうだ、駅前の女子高生の飛び降り自殺の話、知ってる?」

「え?」

 ゴッ

 聞こえるはずのない音が、耳元に響いたような気がした。

「自殺の原因、三角関係のもつれだって。まだ十代の子がよ? びっくり通り越して呆れちゃうわよねぇ。あー、ウチの息子達は女の子に縁がなくてひとまず安心だわぁ」

 目の前にいる美也子が、悪魔のように思えた。

 いや、そのずんぐりむっくりな外見から例えるなら、邪悪な精霊・ゴブリンだ。ゴブリンの一言一言が、黒く鈍く光る鉄の玉のように、幸恵を打ち砕いてゆく。

 もしも時間が巻き戻せるのならば、何も聞かなかった頃に巻き戻したい。ゴブリンの言葉も。『莉奈』の名前も。

 アスファルトを響かせた、悪夢を呼ぶ『あの音』も。

 耳にする前の、あの頃に ――

 

 帰ったら少し横になろう。日の高いうちなら、悪夢を見る事もないかもしれないし。

 まだまだ話し足りなそうな美也子に礼を述べ、幸恵は自宅へと車を走らせた。

 購入した差し入れの品の段ボールをトランクから運ぶ。大きな音が出ないように、慎重に。

 ファミレスから続いている、胸のむかつきと目眩に耐えながら作業を終えた幸恵は、玄関からリビングに向かう廊下で一瞬ふらつき、壁に手を掛けて自分の身体を支えた。

 ゴンッ

「ひぃぃっっ」

 廊下に響いたいきなりの物音に、幸恵は腰を抜かし思わず座り込んだ。

 音の出所を探ると、廊下の壁に掛けられていた額入りの写真が落下しているのが目に入った。

 幸多郎の七五三のお祝いの際に、家族三人で写真館で撮影した写真だった。はかま姿で凛々しくも、笑顔がまだまだ愛らしい幸多郎。なでしこ色の訪問着を着た幸恵も、幸恵の肩に優しく手を置く隆太郎も、三人とも幸せに満ちた表情で額縁に収まっている。

「……やだ」

 大切な額が壊れていないかと、幸恵は這ったまま確かめに近寄る。見上げると、額を掛けていた壁の釘が斜めになって抜けかけていた。あんな状態だったから、少しの衝撃で落ちてしまったのだろうか。

 のろのろと立ちあがった幸恵は、洗面台下の工具箱から金槌を取り出し、釘を打ち直そうと壁の前で構えた。振り下ろそうとして、ふと手を止める。

(これを振り下ろしたら、また『あの音』を思い出してしまうんじゃ……)

 そう考えただけで、幸恵の手は震えだした。

 ダメだ。ダメだ。ダメだ。ダメだ。こんなんじゃダメだ。打ち勝たなきゃ、強くならなきゃ。幸多郎を護る為に。

 ―― と、

 

 トゥルルルルルルルル トゥルルルルルルルル

 電子音のハイトーンが、リビングから鳴り響いた。電話だ。幸恵は金槌を手にしたままリビングに向かう。

「奥様ですか?」

 若い女の声が、幸恵の耳を捉えた。

「ご主人と、別れて下さい。……私、お腹の中に、隆太郎さんの赤ちゃんがいるんです」

 電話口から聴こえて来た言葉に、もはや目を覚ましていても悪夢を見てしまうのかと、幸恵は絶望した。

 ガン ガン ガン ガンッ

 何度手にしていた金槌を振り下ろしただろうか。

 リビングのフローリングの床には、無残にも粉々に破壊された電話器の部品が飛散している。

 あの馬鹿な男は、一体何をしでかしてくれたのだ。

 赤ん坊だと? あんなに望んだ二人目が出来なかったというのに、何故他の女と。

 隆太郎の部下だと名乗ったあの女。もしこんな事がおおやけになって、会社を首にでもなったとしたら……。この家のローンはどうなる? 幸多郎の教育費は? 私が全てを掛けて、ここまで築きあげた幸せな家庭は?

 ダメだ。ダメだ。ダメだ。ダメだ。

 誰にも壊させてたまるもんか。

 絶対に。絶対にだ。

 ガチャリ 

 ふと、玄関の鍵が開く音が聞こえてきて、幸恵は顔を上げる。

 誰かが壊しに来た。この家を。私の幸せを。

 金槌の柄をきつく握り締める。

「……護らなきゃ、私が護らなきゃ」

 ゆらりと立ち上がった幸恵の足元はおぼつかなかったが、その瞳には強い光が宿っている。

 侵入者の足音が、リビングに向かって来る。ドアノブが動き、扉が開かれた。

「こんにちはぁ。お土産持ってきたわよぉ」

「うわぁぁぁぁぁぁぁーーっっ」

 現れた澄子を侵入者だと判断した幸恵は、叫び声をあげながら、金槌を力の限り振り下ろした。

 ガシュ

 奇妙な音が発せられる。

 そのまま膝をつき倒れた澄子は

「な、なんで? なんで?」

 金槌を受けた頭からダラダラと血を流しながら、信じられないという顔で幸恵を見上げている。

 侵入者の正体が義母だとようやく認識した幸恵は、最初は驚愕と動揺の表情を見せていたが、ふつふつと湧きあがる怒りを露わにすると、次第に鬼女の形相を浮かべていく。

「·····だ か ら、来るなら電話しろって言 っ た で し ょ う が ぁぁぁぁっっっ!!」

 ガシュッ ガシュッ ガシュッ

 ああ、この音は知っている。

 幸多郎が小学校の頃所属していたミニバスのチームで行ったキャンプ場で、子どもたちがスイカ割りをしていたっけ。

 あの時の音だ。バットでスイカを叩き割り、露わになった赤い果肉に興奮した子供たちが何度も何度も繰り返しバットを振り下ろした。あの時の音だ。

 キャンプ場の夏の草の匂いと混じり合った、果実の甘い匂い。

 そんな匂いを思い出しながら、幸恵も振り下ろす。

 金槌を。

 何度も。何度も。

 この女が甘やかして育てたから、夫の隆太郎はあんなダメな男になったのだ。夫の浮気はこれが初めてではなく、三度目だった。その度に「浮気は男の甲斐性」だなどと言って、無条件で許すように言って来たのは義母の澄子だった。

 全ての元凶はこの女だ。この女のせいだ。

 

 ガシュッ ガシュッ ガシュッ

 砕け散ったスイカのように、赤い血肉を撒き散らして絶え果てた澄子を見下ろし、荒い呼吸で幸恵は呟く。

「……お義母さん、大丈夫ですよぉ。この音じゃ死なない。この音じゃ死なないから」

 ゴッ ゴッ ゴッ

 耳鳴りのように、幸恵の鼓膜を響かせるのは、飛び降りた少女の『あの音』だった。

 『義母のせい』で、息子を『犯罪者の親族』にしてしまった。

 義母を自分の手にかけた事よりも、その方が幸恵にとっては重大だった。

 幸多郎を連れてどこか遠くに逃げなくてはと、返り血を浴びた顔も拭わず服も替えぬままに、幸恵は幸多郎の中学へと車で向かった。

 校庭に車で乗り込んだ幸恵は、金槌を手にしてまずは体育館へ向かった。既に部活の時間は終わっており、幸恵は息子ではなく、体育館のキャットウォークで窓閉めをしている、コーチの大河田の姿を見つけた。

 幸多郎の幸福の妨げになるものは、全て憎悪すべきものだった。独裁者の様な指導で幸多郎を追い詰めた、この男も敵だ。

 幸恵は音もなく静かに忍び寄り、大河田の頭上目がけて金槌を振り下ろそうとするが、

「ひぃぃっ! な、な、なんなんだ、あんたっ! 」

 間一髪で幸恵の殺気に気がついて振り向いた大河田は、それを避けた。

「あああぁぁぁぁぁぁっっ!!」

「うわぁぁぁぁぁぁっっ!!」

 血塗られた形相で再度襲ってきた幸恵から逃げる為、大河田はキャットウォークの柵を乗り越え飛び降りる。

 ドッ

 体育館の床を、大河田の身体が震わせる。

「……うっ、う、うぅ」

「大丈夫よぉ。その音じゃ死なない。その音じゃ死なないから」

 背中を丸め着地の際に痛めた足を抱えながら、笑うように唱える幸恵の声を、大河田は遠くに聞いていた。

「幸多郎ーっ! 幸多郎ーっ!!」

 いくら名前を叫んでも息子は姿を見せない。

 血だらけの不審者の姿に気付き始めた生徒たちが、あちこちでざわめきだす。

 数人の女子生徒の姿を見とめた幸恵は、

(あの中に『莉奈』がいるのかも)

 と、再び殺意に火を灯した。

 『莉奈』は息子をたぶらかす悪い女だ。敵だ。幸多郎を惑わす小娘はみんな敵だ。淫らな女が男を堕落させるのだ。夫を誘惑した女達のように。

 見渡せば、女生徒は校庭のあちこちにいる。

 幸恵は自分の車に戻りハンドルを握ると、アクセルを全開に踏み込んで校庭内を暴走し、目についた女生徒を次々と跳ね飛ばしていく。

 ドゴッ ドゴッ ドゴッ

 少女たちの身体が宙を舞う。いくつもの悲鳴とともに、鈍い衝撃音を上げながら。

 「……この音じゃ死なない。この音じゃ死なないのよ」

 呪文のように繰り返しながら、幸恵はハンドルを切る。

 ゴッ ゴッ ゴッ

 幸恵の耳の奥では、『あの音』が鳴り響き続けている。

 逃げなくては。この音が届かないどこか遠い場所まで。幸多郎と一緒に。

「ママ―! ぶーぶー、ゴ―!!」

 後部座席から、まだ愛らしく舌足らずだった頃の幸多郎の声がする。

 バックミラーに、チャイルドシートに座った幼い幸多郎の姿が映る。

「そこにいたのね、幸多郎」

 聖母の微笑みを浮かべた幸恵は、

「行きましょう。どこまでも」

 再びアクセルを踏み込み、車を飛ばした。

 幸多郎の幻影を乗せたまま ――

 数時間後、東北道を時速120km超えで爆走していた軽自動車が、中央分離帯に激突し、更に後続の大型トラックに追突され大破、炎上する事故が起きた。

 軽自動車を運転していたのは君塚幸恵(41)。

 自宅で義母・澄子(72)を殴打、殺害した後、子供の通う中学で、部活コーチの大河田大和を襲撃、同校の生徒を車で故意に撥ね、死者二名、重軽傷者九名を出した後での出来事だった。

 君塚幸恵の死亡は、事故のあったその場で確認された。

 黒焦げになった焼死体は、何故か両耳を手できつく抑えている状態だったという。

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 あの日、「自分が死んでも世界は変わらない」と叫んだあの少女は、知る由《よし》もなかった。

 「幸せな家庭を築きたい」の、ささやかな願いを抱いた君塚幸恵というどこにでも居る母親が、ひとりの女子高生の死をきっかけに、その願いを狂った方向へと暴走させ全てを壊してしまう未来を ―― 。

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#創作大賞2024 #ホラー小説部門


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