ちっぽけなあたしの死を嗤え #06
「グルメは文化です」
【大久保祥子・30歳】 その1
初めて降り立つ駅への第一歩は、右足からと決めている。
新幹線の扉が開き、自分ルールに則って右足から降車した大久保祥子は、到着駅のホームで大きくひとつ深呼吸をした。
(餃子の匂い……は、しないな)
海外旅行でソウルを訪れた時、空港で飛行機を降りたら瞬時に『キムチ』の香りを大気に嗅ぎ取り感激した事を思い出す。
午前十時の宇都宮駅。餃子の香りに出迎えられるのを少し期待していたが、駅の匂いは東京のそれとあまり変わりはなかった。
(さあて、美味しいもん食べるぞぉ)
愛用のオレンジ色のキャリーケースを転がしながら、改札口を目指す祥子の胸は躍っていた。
神奈川県に住む祥子にとって、同じ関東地方でありながら、ここ栃木県は初めて訪れる土地だった。正直さほど興味はなく、実際、日本地図を出されて栃木と群馬の場所を尋ねられても答えに戸惑うほどに、知識も皆無と言ったところだった。
そんな祥子が、この日栃木を訪れたのには理由があった。熱狂的に応援しているバンド『横須賀ZOMBIES』の全国ツアーライブの遠征の為だ。
ゾンビメイクを顔に施しハードコア・パンクを演奏するスリーピースバンド『横須賀ZOMBIES』を、地元・横浜のライブハウスのイベントで初めて観た衝撃の日から、既に七年もの間、祥子は応援し続けてきている。
それまでは、神奈川や東京近辺のライブハウスを主に活動の場としていたZOMBIESが、三年前に関西で毎年開催されている有名ミュージシャン主催の野外フェスに出場したのをきっかけに人気に火がつき、ついにメジャーデビューに漕ぎつけるまでに至った。
彼らの活動の場は一気に広がり、全国主要都市でのライブツアーも行われるようになった。
もちろん祥子は、可能な限り全国のライブ会場に足を運んだ。
商社で貿易事務の仕事に就く祥子は、三十路を迎えた同世代の友人達の平均年収よりも、若干上の収入を得ていた。おまけに、親が経営するアパートの一室に居住しているため家賃の心配もなく、収入の大部分をZOMBIESの追っかけに注ぎ込む事が出来たので、彼等のツアーに合わせて地方のライブに泊まりがけで出掛け、観光とグルメ巡りもついでに楽しむのが、祥子の日々の生きがいになっていた。
今回のZOMBIESの全国ライブハウスツアーでは、初めて栃木でのライブ開催が決まり、祥子もついにこの北関東の地を訪れる運びとなったのだ。
東京から新幹線を使えば、一時間弱で着いてしまうここ県庁所在地・宇都宮は、東京都心への通勤圏でもあると言う。一泊二日の今回の遠征では、ライブ以外の時間もたっぷり取れそうだった。今夜はライブハウスの近くのホテルに泊まり、明日の日曜日には世界遺産の日光東照宮を訪れてみようかと祥子はあれこれ計画を立てていた。
(取り敢えず、荷物をホテルに預けてから散策するか)
ライブ仲間の友人がひとり、夕方のライブから合流する事になっている。名物の宇都宮餃子はライブが終わってから彼女と食べる約束をしているので、それまでは一人歩きを楽しもうと祥子は考えていた。
予約しているホテルの近くに、フルーツサンドが有名なお店があると、新幹線で下調べをしておいた。季節限定の生クリームたっぷりの「いちごサンド」の販売が始まったらしいその店に、是が非でも寄ってみたい。
コロコロとキャリーケースを転がしながら、まだ見ぬ「いちごサンド」に思いをはせる、祥子の足取りは軽かった。
スマホアプリで地図を立ち上げながら、予約を入れているホテルを目指した。
鬼怒川や那須など、栃木にはよさげな温泉地もあったけれど、ライブ終わりはやっぱり興奮のままに飲んで食べて遅くまで遊びたい。移動は面倒なので、選んだのは近場のビジネスホテルだった。
アプリが示す駅前からの道のりは、県庁所在地の街とは思えない程に人通りも少なく、アーケードに並ぶ店舗のいくつかはシャッターが下りたままで、なんとなく寂れた商店街のイメージを受けた。
その道すがら、日中だと言うのに煌々《こうこう》とライトを灯した看板を掲げたビルの前を通過した。
『CHPゼミナール』。テレビCMもよく見かける、全国展開をしている予備校だった。バラエティ番組にも出演する有名講師が所属しているはずだが、そういった人気講師は、恐らく都会でクラスを持つのだろう。こう言った地方都市の講師の質はどの程度なのだろうか。
自分とは無縁だった、受験戦争という闘いに勝ち残ろうとする若者たちが、ここに集っているのか。ご苦労な事だと、祥子は思った。
翻訳家の父親の影響で、祥子は早くから語学に興味を持った。
父の教えが良かったのか元々センスがあったのか、英語の能力をめきめきと伸ばした祥子は、獲得した資格検定で推薦で大学入学の切符を手にする事が出来た。ゆえに塾や予備校にも通った事がないし、受験戦争などと言う物々しいイメージとは縁遠い進学だった。
(せっかくこんな近くで、ZOMBIESのライブがあるっていうのに)
教室の四角い箱の中に閉じ込められ、机にかじりつく少年少女たちに思わず同情した。
同じ四角い箱だったら、ライブハウスに閉じ込められる方が断然いい。あの熱気と興奮。たぎる血潮。「LIVE」の言葉通り「生」が輝く空間。
(若人よ。そんなとこ、飛び出してきちゃいなよ)
見上げたビルの、フロアー三階分を予備校が占めているようだった。せっかくの晴れた週末を、この中で過ごす受験生の彼等を憂いていた祥子は……
(……えっ?)
視界の端に、空から黒い大きな塊がゆっくり降ってくるのを捉えた。
(鳥? コウモリ? それとも……)
ほんの一瞬、黒い塊が大きな羽を広げたかのように見えた。
(悪魔?)
瞬間、『どさり』と、重みを響かせた鈍い音が地面を鳴らした。
(……な、何?)
空から降って来た『何か』の残像をまだ上空に探していた祥子は、視線を地上に戻すと、周囲を見渡して音が発せられた場所を探した。
(……っ!!)
音の原因は、すぐに祥子の目に飛び込んできた。
予備校のビルの手前、左に入る細道があった。両手を広げて、少し足りない程の幅のその道の上に誰かが仰向けに倒れている。紺色の上下の服。スカートから露わになった足から見て、制服を着た女子学生かと思われた。
(もしかして……、飛び降り?)
祥子はつい数秒前に目撃した、空から降って来た黒い塊を思い出し、再び予備校のビルを見上げた。
ざっと見ただけでも五階以上ある建物だった。てっぺんの様子はよく見えなかったが、この少女はあの屋上から身を投げたのだろうか? 黒い大きな鳥の様に、翼を広げた悪魔の羽の様に見えたのは、少女の翻った制服のスカートだったのだろうか?
まじまじと見てはいけないような気がして、祥子は目を細めて、横たわる少女に視線を移した。少女は動かない。駆け付けて、彼女の無事を確かめるべきか。そう頭では考えながらも、祥子の両脚はその場から動かす事が出来なかった。
ビルの高さが、地面を震わせた衝撃音が、アスファルトにめり込んだかのように歪《いびつ》に変形した少女の頭が、もう彼女の心臓は既に停止しているのではと思わざるを得なかった。
目の前の『あれ』は、命を持たない肉体と化しているのだ。
BODY=死体
そんな英単語が、祥子の脳内に大きな活字で浮かぶ。『BODY=身体』は魂を失えば、瞬時に『死体』へと呼び名が変わるのだ。
関わってはいけないモノなのでは ─。
本能がそう脳に訴えかけているのか。動かぬ身体に指令は行き渡らず、祥子はただその場に立ち尽くしていた。
―― お腹が空いた。
こんな状況でも、自分の胃は通常運転なのかとぼんやりとする頭で、祥子今にも鳴りだしそうなお腹をさすった。
自殺死体の第一発見者が、警察からの事情聴取に驚くほど時間を取られたなどと言う話は、聞いたことがあった。でもそれが自分の身に降りかかる出来事だなんて思ってもみなかった。
空から降って来た少女を目撃してから、既にニ時間近くが過ぎていた。もう時計はお昼を回っている。
少女が飛び下りた際に、あの近辺には数名の通行人がいた。スーツ姿のサラリーマン、子犬を連れていたロマンスグレーの男性、中学生くらいの私服の男子、そしてママチャリに乗っていた主婦らしき女性もいたはずだ。
あの少女は予備校に通う生徒だったのだろうか? すぐさまビルから飛び出してきた予備校の職員の男女二人が救急車を呼び、数分後にはサイレンを鳴らして車両が到着した。
何事かと集まった野次馬が徐々に増えていく中、救急車を呼ぶ手配をした女性が機転を利かせて、少女の身体が見えないように、ブルーのシートをカーテンの様に小路の入口に吊り下げていた。
次にその場に到着したのはパトカーだった。制服警官が二人、シートの向こうに消えていく。
もう一台、続けて到着したのは四ドアのシルバーの国産車。どこででも見かける車だったが、屋根の端に取り付けられた赤いランプが、その車が警察車両であることを伝えていた。その車からも、やはり二人の男性が下りてきた。こちらは両者ともくたびれたスーツ姿。彼等がいわゆる私服刑事なのだろう。
ドラマや映画でしか見たことのなかった光景が、目の前で流れていく様子を祥子は息を飲んで見つめていた。
やがて、一人の私服刑事(と思しき人物)が、その場にいた人だかりを前に、
「目撃者の方、どなたかいらっしゃいますか?」
そう問い掛けた時、手を上げたのは、祥子と犬を連れた男性だけだった。
そこから始まった聴取の時間の長さと精神的苦痛を思い出すと、すぐさまあの場を立ち去ったサラリーマンと主婦と少年たちが正解だったのだなと、感じずにはいられなかった。
祥子が目撃したのは、少女が鳥のように空を舞う瞬間、そして気づいた時には彼女は既に道の上で動いていない姿、それだけだったのに。
ホテルに荷物を預け身軽になってから、祥子は再び街に出た。
下調べしておいた「いちごサンド」の店は、ホテルから徒歩五分足らずで到着した。
蔦の絡まるレンガ造りの壁に囲まれたその店は、入口のガラス戸から覗き見ると、革張りのソファに飴色のテーブル、観葉植物が置かれた昔ながらの喫茶店の印象を受けた。ガラス戸には「『いちごサンド』お持ち帰りできます」と書かれた貼り紙が、お目当ての一品の人気を物語っている。
「押す」のプラスティックのプレートが貼られた扉を指示通り押して、店に入ろうとした祥子は、ふと鼻孔をくすぐる匂いにその手を止めた。
どこからか、脂が加熱された香ばしい薫りが漂ってくる。
(……『肉』の匂いだ)
咥内に唾液が流れ出す。大きく深呼吸をして肉の香りを十分堪能すると、祥子は匂いのする方角を探した。
通りの向こうに「ステーキ・ハンバーグ」の白抜きの文字が躍る赤い布地ののぼりが見える。祥子は吸い寄せられるようにして、その店の前へと向かった。
店の入口の「地元栃木県のブランド牛・とちぎ和牛をご堪能下さい」と印刷された文字の下、鉄板の上で美味しそうに焼かれている分厚いステーキの写真入りの張り紙が目を引いた。ステーキ肉の切り口の赤い肉感の滴りに、祥子は思わず生唾を飲み込む。
(……肉だ。肉が食べたい)
今度は留まる事無く、店の扉のドアを押す。
高らかに響いたドアベルの音が、祥子には祝福を告げる鐘の様に聞こえた。
「お待たせしました。特選とちぎ和牛リブロース300g、レアでお持ちしました」
赤いチェックのエプロンをつけた店員が、じゅうじゅうと音を上げる黒い鉄製の皿を、祥子の目の前に運ぶ。
近くのテーブルに座る家族連れの小さな子どもが、目をまん丸くしてこちらを見ている。まるで漫画に出てくるような分厚い肉の塊に驚いているのか、それとも週末のランチタイムに母親とあまり変わりのない年頃の女が、独りで食事をしているのが珍しいのか。
旅先で、こんな視線に晒される事は慣れていた。女の一人旅が昔ほどは珍しくなくなった昨今でも、憐れみや同情や嘲笑、そんなものが混じり合ったような視線を地方を旅している時に時折り感じる事はあったが、独り身の気軽さを知ってしまった祥子にとっては、そんな視線は気に掛けるだけ時間の無駄だった。
好きな時に好きな場所で好きな物を食べる。誰にも気兼ねすることなく、自分が稼いだお金で。これこそが大人の醍醐味だと、祥子は痛感していた。
銀色に磨かれたナイフを、まだ音を立てている肉に差し入れる。驚くほどに抵抗なくナイフは進み、その柔らかさに高級和牛の品質の高さが分かった。
溢れ出る肉汁が鉄板に広がり更なる音色を奏でる。香ばしく焼き上げられた肉塊は、表面は褐色の薄いヴェールを纏い、ナイフを入れた内側は肉そのものの赤色を生々しく視力に訴えてくる。
少々大き目かと思われるくらいにカットした肉片をフォークに刺し、滴る汁ごと受け止めるように大きく口を開けて食す。
想像以上の軟らかな歯ごたえと肉の旨味を堪能しながら噛んでいくと、肉片があっという間に口の中でとろけてゆく。
(あぁ、肉だ……。とてつもなくイイお肉だ)
赤身と脂質のバランスが絶妙で、肉の中心が冷たかったりする事もなく、レアでありながらも火の通し具合が抜群だった。塩と胡椒でシンプルに焼かれた味付けも、肉の旨みを最大限に生かしている。お好みで、と供されたわさび醤油やおろしポン酢もテーブルには並べられていたが、今日の祥子はとにかく肉そのものの味を愉しみたかった。
噛むごとに、鼻孔を抜けていく血肉の香りに、自分は「肉食動物」なのだと実感する。
友人知人の幾人かには、ベジタリアンやヴィーガンの菜食主義者がいるが、祥子にとっては肉抜きの食生活など考えられなかった。肉を食べれば元気になれる。健康でいられる。肉こそパワーの源《みなもと》だった。
また一片、肉片をカットして口に入れる。
ジュワリと咥内に溢れる肉汁の味わいの中に、染み出た血の味を舌が探し当てる。
(……あ、この匂いは)
口から拡がる血の匂いが、祥子の記憶を呼び覚ます。
飛び降りた少女。
歪んだ少女の頭。
そこから流れ出ていた液体。
拡がったアスファルトの染み。
(あの場所の匂いだ。少女が倒れていた、あの場所の……)
凄惨な現場を目撃したにもかかわらず、自分はどうしてこんな血の滴るステーキ肉を欲したのだろう。そんな疑問が祥子の脳裏をかすめた。普通なら、食欲なんかなくなるんじゃないだろうか、と。
なのに自分は自分の意思で『肉』を選んだ。
もしかするとこれは、自ら死を選んだあの少女への抗議の気持ちの表れなのかもしれない。
牛は死んでもこんなに美味しく食べてあげられるのに、人間は死んだらただの肉の塊だ。誰の舌を満足させる事無く、焼かれてあとは灰になるだけ。
(可哀想な人間)
祥子は死んでいった少女を、そして人間を、憐れみながら無心にナイフとフォークを動かし、極上の肉を頬張り続けた。
「ヤバーい!サイコーっ!! あー、こんなに楽しいんだったら、もっと早く遠征デビューすれば良かったぁー」
豪快に飲み干した空のジョッキを、二ノ宮遥《にのみやはるか》が高らかに掲げる。
ZOMBIESのライブがはねた後、初めての遠征でいつになくハイテンションの友人・遥と、祥子は餃子とビールで打ち上げをしていた。
「祥子さんの言う通り、地方はマジ穴場ですね。整理番号も神すぎたし、何より旅先の解放感がたまんない!」
「でしょ」
地元・横浜のライブで、貧血で倒れかけた遥を祥子が助けたのをきっかけに二人は知り合った。全国ツアーのライブも単独で遠征しているという祥子の話を聞いて、遥も今回初めて地方のライブに参戦を決めた。関東圏内だったら旅費も安く済むし、移動時間もさほどかからない。遠征デビューとしては最適の開催地だったと言えた。
「祥子さん、お代わり同じものでイイですか?」
「あ、うん」
祥子のビールジョッキも、既に空になっていた。ライブで叫び、歌い、踊り狂った後の身体に、気持ちいいほどの吸水力でアルコールが染み込んでいく。
「餃子も追加していいですか? 名物だけあってめちゃ旨いですね。ペロッといけちゃう」
「うん。あと私、なんかお肉が食べたいなぁ。メニュー見せてもらっていい?」
『餃子居酒屋』の看板を掲げたこの店では、餃子の他にもアルコールが進みそうなメニューが取り揃えられていた。
「あ、コレがいい」
黒のマニキュアが施された爪先で祥子が指し示したのは、短冊にカットされた赤い肉に黄色の卵黄がのった彩りも鮮やかな「馬刺しタルタル」の画像だった。
「おぉー、祥子さん生肉いっちゃいますぅ? ZOMBIENAっぽーい」
ZOMBIESのファンには、ZOMBIENAの呼び名=ファンネームがある。ZOMBIENAの間ではライブ後の打ち上げで、死肉を食らうゾンビにあやかり、肉を食べている画像をSNSにあげる者も多くいた。遥は祥子が、それにあやかろうとしているのだと思っているのだろう。
「ふふ、そうそう。ZOMBIENAっぽく、血の滴る肉で乾杯しようよ」
何も知らない遥に、告げるつもりはなかった。
通りすがりに目撃してしまった、飛び降り自殺を図った少女の死体の事を。その現場に満ちていた血の匂いに、どうしようもなく興奮してしまっている自分の精神状態を。ZOMBIENAにかこつければ、生肉を欲する事に理由付けが出来るなと、祥子が密かに考えている事も。
「だったらこれも頼みましょうよ」
祥子の思惑もよそに、遥がメニューを指差したのは「白子ポン酢」の一皿だった。
「コレ一見、『脳味噌』っぽく見えません? ZOMBIENAらしいっしょ?」
薄皮に包まれた白いチューブの塊のような鱈の精巣が、つやつやと光を受け小鉢に鎮座している様を、無知な人間に見せて小動物の脳味噌だと伝えたら、そう信じてしまうかもしれない。そんな画像だった。
「あ、もしかして祥子さん、白子苦手ですか?」
「え? 平気だよ。どうして?」
「いや、やけに真剣な目でメニュー見てるから」
確かに、祥子の思考は一瞬過去に飛んでいた。あの血なまぐさい、路上へと。
「いいじゃん白子。頼もうよ」
あんな光景を目撃しながら、食欲が減退するどころか、祥子はがむしゃらに食べ物を、いや血肉を身体に取り入れたかった。
目の前で起きた「生」の喪失の瞬間を、食べることによって忘れようとしているのかもしれない。
生きること=食べること。少女は逝ってしまったけれど、私は違う。祥子はそう己の心に言い聞かせると、
「すいませーん、オーダーお願いしまーす」
迷いを振り切るような朗らかな声で、店員を呼んだ。
都会と違って、週末にもかかわらず、店は日付が変わる頃には閉店だと告げられた。
まだ飲み足りないと意見が一致した祥子と遥は、ホテルに隣接していたコンビニで、ビールとおつまみを購入して部屋飲みする事にした。
「あたしってぇ、酔うと甘いモン食べたくなっちゃうんですよねぇ。デブ活MAXでやばいんですけど」
「分かる。私も『締め』はラーメンやお茶漬けより、スイーツ派だよ」
デザートコーナーで目を輝かせる遥に、祥子も同意する。
「あ、でも遥ちゃん。デザートなら、部屋の冷蔵庫にいいもんがあるよ」
「うわー、何ですかコレ? めっちゃ美味しそう」
「昼間ひとりでこの辺りを散策していた時にね、買っておいた『いちごサンド』。近くにフルーツサンドで人気のお店があるって、ネットで見かけてね」
「あー、なんか有名みたいですね。栃木のいちごって」
「食べよ食べよ。これには絶対白が合うと思って、さっき買ったんだ」
コンビニの袋から取り出したワインのミニボトルを開け、ホテルの部屋に据え置かれたグラスに注ぐ。
「さっすが祥子さん。コレ、見た目も最高に映えますね」
真珠色の食パンの間に、こぼれ落ちそうなほどにたっぷりと挟まれた真っ白な生クリーム、そしてその中に半分にカットされて並んだ真っ赤な苺。美しい色彩は、「食」にとっての大切なひとつの要因だと実感する。
「それじゃ、いただきまーす」
趣味の世界で歳の話をするのは野暮だと、祥子も遥もはっきりとした年齢を教え合ってはいなかったが、明らかに遥より祥子の方が人生経験が豊富であろうという事はお互い感じていた。なので遥は祥子には敬語を使うが、遠慮なくいちごサンドに先に手を伸ばす大らかさは、彼女の性質なのか酔いの力なのか、それとも友人として打ち解けてくれているからなのか。いずれにしても不快に感じることはなく、むしろ普通に接してくれる事が祥子には嬉しかった。
「やばーい。コレ美味ーい。生クリームの甘さと苺の酸味がお互いを高め合ってるって感じ? 神的コラボ!」
「ホント? 買っといて良かったぁ。じゃあ私もひとつ」
プラスチックのパックから、祥子も一切れつまむ。挟まれた大量の生クリームのせいか、力を込めすぎると崩れてしまいそうなくらい柔らかだった。子どもの頃に飼っていた、強く握ったら潰れてしまいそうなハムスターの感触を思い出す。
改めていちごサンドの切り口を眺め、絶妙な間隔で並んでいる大粒の三つの苺の断面の、赤と白のシンメトリカルな美しさに目を見張る。真っ赤な苺の中には、こんなにも芸術的な白が内包されているのかと。
「やっだぁ。祥子さん、またフリーズしてる」
「え?」
遥の声で、祥子は我に返る。
「さっきの店でも、メニューの白子見て固まってたじゃないですかぁ」
「そうだったっけ?」
とぼけた素振りでいちごサンドを口に運ぶ。ねっとりとした生クリームが、濃厚な白子の食感を思い起こさせた。続いて拡がる苺の甘酸っぱい果汁を味わいながら、祥子は自分の脳裏に焼き付いている「赤と白」を思い出していた。
アスファルトの道路に流れ出た血の、黒味を帯びた深い赤色。その流れの源の、倒れた少女の割れた頭から覗いていた黒髪の中の白色。
あの白は、何だったのか? 頭の中身を守る頭蓋骨か、それとも……。
その夜、祥子は夢を見た。
白いドレスで着飾った祥子は、古い洋館の廊下を歩いている。道案内をするのは、背中に黒い羽を携えた黒衣の男。その両方のこめかみからは、二本の角が生えているのが見える。悪魔だ。悪魔にエスコートされて、祥子はどこかに向かおうとしていた。
重々しい扉が開かれ、広々としたダイニングに出た。
深紅のテーブルクロスが掛けられた円卓の中央には、乳色のスープがたっぷり入った白い皿がスプーンとともに置かれている。祥子は、とてつもない空腹感を覚えていた。悪魔がひいてくれた椅子に腰かけると、皿から立ち昇る芳香を大きく吸い込む。
「なんて美味しそうな匂い。これは何のスープなの?」
祥子の問いかけに、身目麗しい悪魔は微笑みだけを返すと、まるで隠し芸のようにテーブルクロスを一瞬で引き抜いたそこには ――
頭頂部を丸くくり抜かれた、あの少女の生首が、長い黒髪をテーブルにうねらせて鎮座していた。
そこで祥子は目を覚ました。
イヤな夢を見たとか、悪夢だったとか思うよりも、憧れにも似た『懐かしさ』を今見た夢に祥子は感じていた。
子どもの頃、テレビで見た映画のワンシーンだった。ハリウッド映画の冒険アドベンチャー。主人公の考古学者が招待された異国の宮殿での夕食会で運ばれてきたのは、蛇や甲虫などのグロテスクな料理の数々で、その最後を締めたのが「猿の脳味噌」のデザートだった。
一緒に見ていた妹は「可哀想」と言って大泣きしたのを覚えている。でも自分は……
家族の手前、言葉にも態度にも出さなかったが「どんな味なんだろう」という興味を持ったのだ。
そう、正にあの時と同じ興奮を、祥子は夢に覚えていた。
夢の中で嗅いだはずの美味なる薫りを、記憶から探る。
何故か蘇るのは、あの目撃現場で嗅いだ、血に満ちた匂いだった。
