見出し画像

ちっぽけなあたしの死を嗤え #04

前回                       第1回はコチラから

「ただの専業主婦でした」

君塚幸恵きみづかさちえ・41歳】 その1


 ―― 『本日の蟹座のラッキーカラーは、紫です』

 土曜日朝の情報番組。アシスタントの女子アナが、軽やかな声でそう告げる。

「やった!」

 キッチンで朝食の後片付けをしながら、カウンターの向こうのテレビを流し見していた君塚幸恵は、思わず手を合わせ喜びの声をあげた。

 とはいえ、幸恵の星座は蟹座ではない。蟹座は彼女の愛息である、幸多郎こうたろうの星座である。

(今日は主将キャプテンとしての初めての練習試合、これは縁起がいいかも)

 占いの結果に、幸恵の気分は弾んだ。14歳、中学二年生の息子・幸多郎は、先月から部活のバスケ部の主将に抜擢された。夏の大会が終わって引退した上級生の跡を引き継いだ時点では副主将だったのだが、主将に選ばれた同級生の喫煙行為が発覚し、同生徒は主将を辞退、部活も退部するというアクシデントを経ての主将就任だった。

 幸多郎から、その報告を受けたとき、幸恵は大いに喜んだ。息子が集団のトップに立つだなんて初めてのことだったし、部活で主将として活躍したという記録が残れば、高校受験の際の内申点にも有利だと考えたからだった。

 その露骨な態度が、友を想う幸多郎の気持ちを傷つけていたとも知らずに……。

 とにかくこの日、幸多郎率いるバスケ部の初の練習試合が、町内の中学校の体育館で行われる事になっていた。

 朝六時起きで好物の鶏そぼろのお弁当を作り、「いってらっしゃい」と笑顔で送り出した。

 幸多郎の生まれ星である蟹座のラッキーカラー・紫は、バスケ部のユニフォームの色だ。きっと勝利をつかんで帰ってくるだろう。

 夕飯は、幸多郎の好物にしてあげよう。さて、何がいいだろうか。牛肉たっぷりの肉じゃがに、スモークサーモンのサラダ、それに卵を落とした湯葉のお味噌汁もつけてあげよう。

 ひとり息子のことを考えている時間こそが、幸恵にとって一番幸福な時間だった。

 三年前から夫の隆太郎は九州に単身赴任をしており、盆暮れと大型連休くらいにしか帰ってこないので、実質この家は幸恵と幸多郎の二人暮らし。本来なら夫にも掛けるはずの気配りや愛情も、全て息子・幸多郎に注いできた。

 そしてその事に、なんの不満も不安も感じずに、幸恵は日々を暮らしていたのだ。

 ―― あの道を通らなければ、変わらずにずっと。

 

 その土曜日は、久しぶりの晴天の週末だった。

 幸多郎の部屋のシーツや布団カバーなどまとめて洗濯したかったが、勝手に部屋に入るのがばれると機嫌が悪くなるのが厄介だった。それでも部屋の主がいない間に、換気だけでもしておきたいとドアを開けた幸恵の目に飛び込んできたのは、勉強机の上に置かれた青い水筒だった。

「いやだ、あの子忘れていってる」

 中にはスポーツドリンクがたっぷりと満たされている。お弁当と水筒を持って二階に上がり、リュックに荷物を詰めた際に入れ忘れたのだろうか。

 十一月というこの季節に、熱中症の心配はいらないだろうが、試合で激しく動けば喉も乾くだろう。

(すぐに、届けてあげなきゃ……)

 幸恵の母親熱のゲージが跳ね上がる。

 大事な息子が、辛い目にあってはならない。喉の乾きのせいで、最良のパフォーマンスが出来なくなってはならない。

 助けてあげられるのは、私だけ。

 水筒を手に取り階段を駆け下りた幸恵は、キッチンの冷蔵庫に貼ってある、バスケ部のスケジュール表を確認すると、スマホと財布だけを上着のポケットに入れて、玄関を飛び出した。

 練習試合が行われているのは、幸恵の自宅からは駅向こうに位置する公立中学の体育館だった。

 週末は駅前通りの混雑が予想されるので、自家用車はやめて自転車で向かう事にした。

 幸恵の自転車は、幸多郎が生まれて歩けるようになった頃、近所の公園や買物に気軽に行けるよう選んだ一台だった。購入したのは既に十二年も前になるのだが、基本この辺りは車中心の生活なので、酷使した訳でもない幸恵の自転車は、まだ充分に乗れる代物だった。

 軽い運動も兼ねて、天気が良い日や荷物が少なくて済む日は、自転車を利用する事にしていたのだが、さすがに自転車の前部と後部に附属した子供用の座席は、いいかげんそろそろ取り外さなくてはと、ペダルを踏みながら幸恵は思った。

 自転車の前輪部分のシートには、まだ小さかった頃の幸多郎を座らせて走った。風を切りながら走ると、てんとう虫のデザインのヘルメットを被った頭が、嬉しそうに左右に揺れて笑い声を上げていたのが懐かしい。

 幼稚園にあがってからは、自転車の後輪部分に取り付けたシートに座らせていた。妹か弟が出来たら前に乗せてあげようね、なんて話していたのに、二人目を授かる事はなかった。

 この自転車に乗っていると、幸多郎との思い出が溢れるように蘇り、それがどれも懐かしく大切過ぎたので、シートを取り外してしまえば、その思い出も消えていってしまうような気がして、ついつい幸恵はその作業を後回しにしていたのかもしれない。

 駅向こうに出るのには、車や人通りの多い表通りは避け、裏道を使った。この道を使って、高架下をくぐり駅の反対側に出れば、目的地の中学まではあっという間だ。せっかく駅前まで来たのだから、幸多郎に水筒を届けたら、たまには駅ビルの中の高級スーパーで食材を買って行こうか。

 いや、駅前のカフェで人気のシナモンロールをお持ち帰りで買うのはどうだろう。週末はいつも、午後には売り切れてしまう人気商品だけれど、この時間ならきっとまだ買えるに違いない。

 甘い物好きな幸多郎の喜ぶ顔を思い浮かべると、踏みしめるペダルもなんだか軽く感じられる幸恵だった。

 行く先の左手に、茶色い毛玉の様な小犬を連れた白髪の男性が歩く後ろ姿が見て取れた。驚かせてはいけないと距離を取り、横をすり抜けて行く。

 右手方向に建つ、予備校の入ったビルを通り過ぎる。赤地に白抜きで書かれた『CHPゼミナール』の看板の文字が、何とも力強い。 

 全国規模で展開しているこの予備校は、優秀な講師が集められていると聞いている。来年の夏以降、幸多郎が部活を引退したら、本腰を入れて高校受験に臨む為にも、通わせてやるのがいいかもしれない。それには高額な費用が必要になるだろうから、そろそろ自分もちゃんと働きに出なくてはならないだろうか。

 そんな事を考えながら、ペダルを踏み込むと ――

 

 ゴッ

 思わず急ブレーキをかけて自転車を止めてしまった程の、大きく鈍い衝撃音が辺りに響いた。

(な、何?  今の音)

 ペダルから足を下ろし、幸恵は周囲を見回す。

 音は背後から聴こえて来た。

 肩越しに後ろを振り返ってみるが、特に音の原因と思える現象は見当たらない。数名いる他の通行人も、みな一様に何事かと辺りをうかがっていて、その答えを見いだせないでいるようだった。

(……あの子、あんな所で何しているのかしら?)

 視線の片隅に、幸恵はようやく異変を見つけた。

 予備校の入った雑居ビルの手前、細い横道に制服姿の女の子が、仰向けになって寝転んでいる。

(……酔っ払い?  のワケないし、貧血で倒れちゃったとか?)

 関西の大学を卒業していた幸恵は、学生時代、繁華街の明け方などに、酔いつぶれて路上で眠りこける人々をよく見掛けたものだった。

 でもあの少女はどう見ても高校生くらいだろう。酔って道端で寝てしまうたぐいの人種ではないはずだ。

 と、予備校の自動扉が開き、スーツ姿の男女が姿を見せた。彼等も異音を聞いたのだろうか、音の原因を探ろうと辺りを確認している。

 ビルの入口付近には、幸恵以外にも若い女性と、先ほどの犬を連れた老人もいる。幸恵が出しゃばらなくとも、あの少女の手助けはきっと彼らで何とかなるだろう。

(急がなきゃ。幸多郎が待っているもの)

 見知らぬ少女よりも、何万倍、何億倍、いや数値で表せない程に大切な息子の方が気がかりで、幸恵は片足で道路を蹴ると、駅方面に向かって自転車を再びスタートさせた。

 ゴッ

 耳に残るあの音が、飛び降りた人間が地面に叩きつけられた音だったなどとは、想像だにせずに ――

 体育館に響く、バスケットシューズの床面を鳴らす音が、郷愁を誘う。

 まるで過去に二十年ほどタイムスリップしたかのように、幸恵は自分の中学生の頃を思い出していた。

 中高と陸上部だった幸恵自身は、体育館で部活動をしていたわけではなかったが、中学の頃好きだった安田という男子がバレーボール部で、よく部活の合間を縫っては体育館に彼の姿を覗き見しにいったものだった。

 幸多郎が練習試合をしに来訪しているこの中学校は、幸多郎の通う学区の中学より歴史が古く、体育館も年季が入っていたので、それが幸恵の思い出を呼び起こすのを更に手助けしてくれた。

 キュッキュと床を鳴らしてウォーミングアップをしているのは、緑色のユニフォームを着ているところから、この学校の選手のようだった。

 幸多郎の学校の、紫色のユニフォームを探すと、丁度体育館の入口から死角になっているすみで円陣を組んで、指導者と思われる真っ黒なジャージを着た中年男性の話を、真剣な顔つきで聞いている生徒たちを見つけることができた。

(いた。幸多郎だ)

 輪の中に、息子の姿を発見した。

 驚くほどに背の高い子もいれば、まだ幸恵の方が大きそうな背丈の子もいる中で、幸多郎は円陣の中では真ん中ぐらいの身長だった。

 それでも、この一年で十五cm近く身長が伸びて、ついに最近幸恵を越したところで、

(大きくなったなぁ)

 こうやって、他の子達と一緒に並んでいる姿を見ると、息子の成長を改めて深く感じることができた。

 幸恵がそんな思いにふけっていた所に、

 ダン ダン ダン ダン

 規則的なボールのドリブル音が、あちこちから聞こえてきた。敵チームの、ボールを使ってのウォーミングアップが始まったようだった。

 ダン ダン ダン

 幸恵が立つ体育館の床が、重くて低いドリブル音に合わせて振動をする。足元から身体に伝わってくるその振動に、幸恵は何故だかここへ来る途中に聞いた、あの音を思い出した。

 ゴッ

 鈍くて重い音だった。

 今まで耳にしてきた音の種類では、例える事ができないような音だった。

(……あれは一体、なんの音だったんだろう)

 明確な答えが得られない歯がゆさが、幸恵の気持ちに不安の影を落としていく。

「なんでここにいんだよ」

 後ろから掛けられた声に振り向いた幸恵は、目の前の人物と今耳にした声との違和感に、しばしまばたきが止まった。

(……この子、こんなに声、低かったっけ?)

 そこには息子・幸多郎が、全身から不機嫌オーラを発しながら仁王立ちしている。

「……あ、ほら、幸ちゃん、水筒を部屋に置き忘れてたから、届けに」

「勝手に人の部屋に入るなって言ってんだろ」

 幸恵が差し出した水筒を奪い取り、睨みつけてくる。『ありがとう』のひとこともなしに。

「用がすんだら早く帰れよ」

 せっかく来たのだから、少し試合の様子を観たいと思っていた幸恵だったが、息子の冷やかな言葉と態度に諦めて帰ることにした。

(公式戦が始まれば、きっと応援に来れるものね)

 なんてったって幸多郎は新キャプテンなんだから、多いに活躍してくれるだろうと。そう自分に言い聞かせて。

「ちんたら走るな!  気合い入れて脚を動かせっ!」

 今どき『気合い』だなんて、時代錯誤はなはだしい指導者だなと去り際にもう一度体育館を振り返ると、黒ジャージの男性が幸多郎たちに向かって『気合いだ! 気合いだ!!』と声を上げているのが見て取れた。

 昨年の父母を対象にした部活紹介の挨拶で、確かあの男が外部顧問だと名乗っていた記憶があった。名前は『大蔵』だか『大川』だか言ったはずだったが。

 いずれにせよ、幸恵には彼が随分と古いタイプの指導者に思えた。

(行き過ぎた指導で暴言や体罰があったりしないか、幸多郎によく聞いておかなくちゃ)

 それが『主将の母』としての自分の責務だと、幸恵は胸に刻み込んだ。大切な我が子を護るのだ。

 駐輪場に向かって歩き始めた幸恵は、体育館の生徒たちの声とリズミカルなドリブルの音が、遠ざかって行くのを感じていた。

 けれども何故かそれに反して、幸恵の脳内には『あの音』が、ドリブルのように繰り返し反芻されていくのだった。

 ゴッ ゴッ ゴッ

 その異音を頭から追い出すように首を大きく振ると、幸恵は、お目当てのシナモンロールを買う為に、駅前へ向かって自転車で走り出した。

 十五分ほど並んで、シナモンロールを無事購入する事ができた。

 東京と違って、餃子の銘店意外に食べ物の店にあまり行列ができる事などないこの地方都市で、たかだかスイーツでこれだけの待ち時間があるという事が、美味しさを物語っているのだろう。おひとり様につき五つまでとなっている、限定販売個数最大の五個を買って、幸恵はうきうきとした気分でカフェを出た。

 ほんの少し、紅茶が自慢のこの店でゆっくりお茶でも飲んでいきたい気持ちもあったが、久しぶりの晴れ間、やはり幸多郎のベッド回りの寝具を洗濯してあげたかったので、素直に自宅に戻ることにした。

「勝手に人の部屋に入るなって言ってんだろ」

 幸多郎の冷たい声が蘇ったが、今日は練習試合の後、自分達の中学に戻って自主練をすると聞いていた。帰りは夕方になるだろう。急いで帰って洗濯機を回せば、幸多郎が帰宅するまでには部屋を元通りにしておけるはずだ。急がなくては ――

 急いでいたはずなのに、目の端に飛び込んできた黄色と黒の色彩の帯に、幸恵はペダルを止めて目を凝らしてその先を見た。

(……あの場所は)

 一時間ほど前にも、この辺りで立ち止まった事を思い出す。

 予備校のビルの横道が、ドラマや映画で目にする、事件現場の部外者侵入を禁止する為の二色のテープで封じられている。その向こうにはブルーの養生シートが、道をふさぐように吊るされ、奥が見えないようになっており、その前には警察官が立ち、物々しい雰囲気を醸し出している。

 そして、シートの隙間からほんの少し見える道の向こうには、紺色の制服を着た警察関係者かと思われる人物が数人、行き来しているのが分かった。

 あの場所を覚えている。ビルとビルの間、暗がりの道の上に横たわっていた制服姿の少女がいた場所。

 今現在のこの状況から考えると、あの少女は何か犯罪に巻き込まれてしまったのだろうか? 果たして彼女は、無事でいるのか?

 息子とほぼ変わらないくらいであろう少女の身に起きた不幸を想像して、不安に襲われた幸恵の心臓は激しく脈打ち始めた。

 ―― と、そこに

「飛び降りですってよ」

「あらやだそうなの。まぁ怖い」

 いつの間にそこにいたのだろうか、幸恵の背後の道端で立ち止まり会話する、二人の老婦人の声が耳に入った。

「予備校の屋上から飛び降りるだなんて、やっぱりアレかしらね、受験勉強に行き詰まってとかかしら?」

「でも死んだのは女の子なんでしょ? 無理してイイ大学なんかに入らなくたって良かったんじゃないの? ねぇ」

「ほんと、これもご時世かしらねぇ」

 ご婦人方のあまりにも不躾な物言いに、普段ならそれを義母の言動と重ねて眉を潜めたであろう幸恵だったが、今の彼女の脳内は『飛び降り』『屋上』『死』の単語で占められ、その単語が導く何かを見出そうとする事だけに集中していた。

 ゴッ

 あの時聞いた、低くて鈍い衝撃音が、記憶の底から再生される。三つの単語とその音の関連性を辿って行くうちに、幸恵はひとつの揺るぎない結論を導き出した。

 ―― あの音は、ビルから飛び降りた人間が、道路に叩きつけられた音だったのか。

 思わず目眩がした。

 自分はなんて愚かだったのだろう。飛び降り自殺した少女を目撃したにもかかわらず、『貧血で倒れたのかも』などと思ってしまった自分。こんな大事件なのに、すぐにその場を立ち去ってしまった自分。

(……そういえば)

 振り返った時、幸恵は倒れていた少女の顔を目撃していた事を思い出した。半開きの口で、一瞬目が合ったのではと錯覚したほどに両目を大きく開き、顔をこちらに向けていた。

 息子が気がかりで、あの場では深く考えもしなかったけれど、あの時点でもう、少女は事切れていたのか。

 死体と目が合ってしまった。 

 この事実に幸恵は、いきなり内臓を誰かに鷲掴みにされたように、突然の吐き気に襲われた。

 思わず両手で口元を押さえると、支えを失った自転車は、大きな音を立てて路上に横倒しになる。

「まぁ何かしら?」

「いやぁねぇ、道の真ん中で危ないじゃないの。迷惑だわ」

 手を貸してくれるワケでもなく、聞こえよがしに言ってくる見た目だけはお上品そうな老婦人たちの視線を浴びつつ、幸恵はのろのろと自転車を立て直すと、そのまま押しながら絶望にも似た心持ちでその場を立ち去った。

 自転車を使えば十分もかからないで済む道のりを、幸恵は三十分近くかけて自宅についた。

 自殺死体を目撃してしまったという衝撃で、辛く苦しい胸の内に、更に追い打ちをかける物が幸恵の目に入った。

 二台ある自宅の駐車スペースの幸恵の車の横に、クリーム色の軽自動車が停められている。

(また、連絡もしないで押し掛けて来てる)

 頭上に鉛玉を落とされたような、重い気分になった。自分の車の端に自転車を停めると、その音を聞きつけたのか、ずっとドアの外の様子を窺っていたのか、

「おはよう。土曜の朝からどこ行ってたの?」

 玄関ドアを開けて、近所に響き渡るような声で出迎えたのは、夫の母親である澄子すみこだった。

「おはようございます、お義母さん。いらしてたんですね? ちょっと幸多郎の忘れ物を届けに」

「あらそうだったの? 母親に届けさせるなんて、幸ちゃんはいつまでたっても甘えん坊ね。隆太郎が小さい時は、そんなことしなかったけどねぇ」

 また始まった。

 幸恵はこの姑が苦手だった。彼女にとって幸枝の夫・隆太郎は、三十を過ぎてようやく授かった大切なひとり息子であり、その溺愛ぶりは幸恵が幸多郎に向けるそれ以上の過剰な物だった。とにかく何かにつけて、息子の自慢話をしたがる。四十過ぎの中年男と前途洋々の少年を比べてどうなるというのだろうかと、常々幸恵は不満だった。

 結婚して数年でこの家を建てた時に、「同居しないつもりなのね」と義母が大荒れに荒れたせいで、夫が「セカンドハウスだと思って使ってくれ」と合鍵を渡したことでようやく機嫌が収まった。

 以来、この突撃訪問はこちらの都合などお構いなしに続けられている。義母の愛する息子は、単身赴任で不在だと言うのに。

「週末のこの辺は、渋滞が酷くってイヤになっちゃうわねぇ」

 だったら自宅で大人しくしていればいいのにと思いながら、幸恵は夫の駐車スペースに当然の様に停めてある姑の車を見やった。

「最近、高齢者の自動車事故が問題になってますよね? お義母さんも、そろそろ免許返上を考えた方が……」

「何言ってるのよ。私が運転しなくなったら、足が無くなっちゃうでしょ足が。それとも、貴方達がすぐにでも同居してくれるって言うのなら別だけど?」

 幸恵は義母に気づかれないよう、小さくため息をついた。全くこの姑はすぐ大事な話をすり替えて、なんでも「同居」に結びつけようとしてくる。

 義両親が居住する街は、ここから車で四十分ほどの小さな田舎町ではあるが、高齢者の為の無料循環バスの整備が行き届いており、義母より五歳上の養父は、既に免許を返上し、循環バスのサービスを利用してあちこち出掛けていると聞く。

 七十を超えている義母は、視力も判断力も衰えてきている事だろう。テレビや新聞で連日のように報道されている、高齢者による自動車事故で加害者となってしまったら大変な事になる。可愛い我が子・幸多郎を「殺人犯の親族」にさせる訳には、断じてならない。

 もちろん、義母の車が崖から落ちたり壁に激突したり、単独事故で本人が亡くなるのは一向に構わないが。

(隆太郎さんからも、キツく言ってもらわなきゃ)

 嫁の言うことには聞く耳持たない姑だが、愛息子である夫の言葉には、きっと逆らえないはずだ。夫が澄子ではなく、幸恵の味方をしてくれるかどうかは、微妙なところではあったが……。

「お義母さん、駅前で有名なお店のシナモンロールを買ってきたんです。 紅茶でも入れますから、一緒にいかがですか?」

 五つ買えた限定商品。幸多郎と食べて、残りは冷凍してまた後日楽しもうと思っていたけれど仕方あるまい。少しでもご機嫌をとっておかないと、嫌味の時間が長くなるだけだと、幸恵は笑顔を作った。

「あらイイわねぇ。でも私、紅茶より珈琲がいいわ。幸ちゃんはいつ帰ってくるの? 一緒に食べたいわ」

「今日は部活が夕方まであるんですよ。多分六時近くになるんじゃないかと」

「まぁ、そうなの? せっかく顔を見に来たのにぃ」

 だから来る前に電話をくれとあれほど口を酸っぱくして言っているだろう。そんな言葉を飲み込んで、幸恵は曖昧な笑顔を返す。

「私、夕方から婦人会の集まりがあるのよ。遅くまではいれないわぁ」

「すみません」

 悪くは無いのに謝罪の言葉が口に出る。この場が丸く収まるのならば、簡単なことだった。

「あら? なんだか幸恵さん、顔色悪くない?」

 キッチンで珈琲の準備をしていた幸恵の、いつもとは違う様子に気づいた澄子が声を掛けた。

「ええ、ちょっと朝から軽く目眩が……」

「あらやだ、風邪? 困るわー、移ったら。私、週明けに婦人会の温泉旅行があるんだから」

 露骨に眉をひそめた澄子は、ずかずかとキッチンに入ってくると、

「シナモンロール、お持ち帰りにさせて。お父さんの分と二個。あ、タッパー借りるわよ」

 勝手知ったるなんとやらとばかりに、戸棚を開け、幸恵のお気に入りのタッパーウェア社の正規品を見つけ出すと、嬉々としてシナモンロールを詰め始める。

「じゃあ、今日はこれで失礼するわ。あ、そうだ、本来の目的を忘れてた。お米、持ってきたのよ、お米」

「ありがとうございます。いつもすいません」

 稲作業が盛んな義両親宅の周辺では、精米したての上質なお米を手に入れる事が出来るため、幸恵の家にも定期的に届けに来てくれていた。義母の訪問は鬱陶しいものではあったが、この米の差し入れは食べ盛りの男子がいるこの家ではありがたかった。

「車のトランクに載せたままなのよ。運んでくるわね」

 手伝います、の言葉も出せないまま、義母の背中を見送った。目眩とともに、締め付けられるような頭痛もするが、それらを振り切るように大きく深呼吸をしてから、幸恵は玄関に向かった。

「はーい、どうぞ」

 その小さい身体の何処にそんな力があるのか、10kgの米袋を軽々と肩に担いだ澄子が玄関を開け、上がりかまちに米袋を勢いよく投げ置いた。

 ドッ

 10kgの米の重みが、鈍い音を玄関に響かせた。と、同時に

「ひぃっ」

 幸恵は息を飲み、両手で耳を塞ぐ。

「何? どうかした?」

「い、いえ、なんでもありません」

「そーお? いやだ、あなた顔まっ青よ。温かくして寝てなさいな。幸ちゃんに移しちゃダメだからね。じゃあまたね」

 そそくさと、澄子は玄関を出ていく。

 言えるはずがなかった。

 ─ ゴッ

 米袋が投げ出された音に、『あの音』を思い出してしまっただなんて。

 ビルから少女が飛び降りて、道に叩きつけられて死んだ音を重ねてしまっただなんて。

 人は、あんな簡単な音であっさり死んでしまうだなんて……。 

 玄関先で座り込み、幸恵は自殺現場を目撃してしまった衝撃と恐怖に、流れる涙を抑える事が出来なかった。

 澄子の車のエンジン音が、あの音の記憶を少しでもかき消してくれるような気がしたが、それは無情にも遠ざかっていった。

         前回  /  次回       第1回はコチラから

#創作大賞2024 #ホラー小説部門

 

いいなと思ったら応援しよう!