ちっぽけなあたしの死を嗤え #10
「できれば余生を穏やかに」
【柴垣保・71歳】その1
―― 柴垣保、71歳。職業? 今は、無職です。住所と電話番号ですか? えぇと、すみません、それ、先ほどもお伝えしませんでしたっけ?
ああ、喉が乾いた。
ちゃんと答えなくてはと焦れば焦るほど、頭の中が真っ白になっていく。イヤな汗も額から噴き出してきた。
飼い主の不安な心情を感じ取ってくれているのだろうか、胸に抱いたクッキーも「キュゥンキュゥン」と鼻を鳴らして自分にすり寄ってくる。
ほんの少し遠出の散歩を楽しむつもりが、とんだ事態に巻き込まれてしまった。
柴垣保は、焦りと不安で次第と早くなる鼓動に、発作でも起きたりしないだろうかと気を病んだ。
まさか自分が、警察から事情聴取される立場になるとは ――。
今朝は久しぶりに、朝から太陽が顔を出していた。
せっかくなのでクッキーの散歩がてら駅前の繁華街まで出掛けようと柴垣は思い立った。
身支度を済ませ、仏壇に飾られている写真に声を掛ける。
「そろそろ、あの店の『いちごサンド』が売り始める時期だな。お前、好きだったよなあ。今日は足を延ばして、ひとつ買いに行ってくるからな」
写真の中の、柴垣の妻・温子は、いつもと変わらぬ笑顔で微笑んでいる。
出掛ける旨を、同居している息子の嫁の瑞希に伝えようと思ったが、彼等が暮らす二階のインターホンを鳴らしても返事がないので、離れに通じる扉を見ると、『施術中』の札が掛けられている。耳をすませば扉の向こうから、瑞希の営業向けの明るい声とそれに応える女性の声がうっすらと聞こえてきた。どうやら接客中らしい。
半年ほど前に、柴垣と息子夫婦が同居する為の二世帯住宅が完成した。今年37歳になった息子の隆より一回り若い嫁の瑞希は、エスティシャンの資格を持っており、「自宅でサロンを開きたい」という彼女の希望を取り入れて、この家は設計されていた。
日当たりの良い離れに造られた瑞希のサロンのせいで、柴垣の一階の居住スパースは随分と狭く日当たりもいまひとつとなってしまったが、なかなか嫁のきてがなかった息子にようやく現れた若い嫁の為ならばと、多少の我慢は気にならなかった。
接客中には声を掛けるなと、以前から強く言われていたので、柴垣はクッキーを連れて黙って出ていくことにした。
十三歳になったクッキーは、自分と同じく歳をとったからなのか、以前より大分ゆっくりと歩くようになったので、70歳を過ぎた柴垣でも辛くないスピードで散歩させる事が出来た。
クッキーは車の往来が激しい大通りが苦手だったので、裏道を使って「いちごサンド」の店へ向かう事にした。
(この辺りも、随分と様変わりしたな)
駅前から裏通りに位置するアーケードを歩きながら、柴垣は昔を懐かしんだ。
柴垣がまだ現役で働いていた頃には、この通りももっと沢山の飲食店や商店で賑わっていた。しかし、現在ではシャッターが下りたままで、営業をしていない店舗があちこちに見られる。郊外に駐車場完備の大型のショッピングモールが次々とオープンされるようになって以来、駐車場のスペースが取りにくいここ駅前周辺は、正直随分と寂れてきているのが現状だった。
柴垣が勤務していた保険会社も、今では地下駐車場を持つ大通りのビルに営業所を移し、かつて会社があった場所には、テレビCMでよく耳にする予備校の看板が掲げられていた。
(『CHPゼミナール』か……)
息子の隆が大学受験の頃に通っていた頃には、どこも『進学塾』という名がついていたはずだ。今ではなんでも片仮名か横文字なんだな、と柴垣は苦笑する。
自分の前をとてとてと歩くクッキーにしても、本当は柴垣は『信長』や『元就』などの戦国大名の名前にしたかったのだが、
「こんな可愛いパピヨンちゃんが、武将の名前だなんてダメダメ。ダメよぉ」
と、妻の温子に押し切られて、このような可愛らしすぎる片仮名名前になったのだ。そんな出来事も、今では全て哀しいほどに懐かしいが。
クッキーは、自分の前方を歩く女性が引いている、鮮やかなオレンジ色のスーツケースが気になるらしく、その後をついていくように進んでいく。
当の女性は、地図でも見ているのだろうか? 手にしたスマホに視線を落としながら歩く様子に、柴垣は眉を潜めた。
(危ないなぁ……)
先ほども自転車に乗った主婦らしき女性とすれ違ったが、この道は歩行者だけではなく自転車もよく通る。『ながら歩き』などをしていてぶつかりでもしたら、自分まで巻きこまれてしまうではないか。
―― と、苦々しく見つめていた前方の女性の背中が、突然止まった。
(……っ)
柴垣も前のめりになり足を止めると、身体の左側から「ドンッ」という大きな衝撃音がいきなり襲ってきた。
音に驚いたのか、キャンキャンと吠えたてるクッキーが、怯えて走り出してしまわないように、
「よしよし、大丈夫だから落ち着いて」
努めて落ち着いた声で語り掛け、胸元に抱きあげたが、柴垣の胸中は穏やかではなかった。一体、今の音は何だったのか? 不安が押し寄せてくる。
周囲を見回すと、スーツケースの女性が一点を凝視しているのに気がついた。彼女の視線を柴垣も追う。そこには ――
スカートを履いた若い女性が、服の乱れを気にせずに身を投げ出して横たわっている。
(何故、あの娘はあんな所に倒れているんだ? いつから倒れていたんだ? ふざけているのか? 親御さんはどうした? なんでだ? なんでなんだ?)
色んな『?』が柴垣の脳内を駆け巡る。しかしながら、彼の老いた脳細胞では理解がなかなか追いつかない。
どのくらい、そこに立ち尽くしていただろう。
辺りにぽつぽつと野次馬が集まり始め、予備校のビルから飛び出してきた人たちが、何やら騒ぎ出した頃になって、背後から聴こえて来た
「飛び降り? 飛び降りでしょ? アレ。ねぇ、全然動いてないよ。ヤバいよね」
という誰かの言葉に、疑問符ばかり浮かんでいた柴垣の思考回路も、ようやく結びついた。
―― あの少女は、飛び降り自殺を図ったのか ――
衝撃の事実に、今更になって柴垣の身体は震え始めた。
「だから、何度も私がお答えしているじゃないですか。誰かと争う声も、叫び声も何も聞こえなかったって」
刑事だと名乗った男に、スーツケースの女性が声を荒げているのは自分の為だ。
柴垣は、歩きスマホで非常識だと感じた先ほどの女性が、自分を庇おうとしてくれている事に恐縮していた。
目の前で発生した飛び降り自殺。あれよあれよと言う間に救急車や警察車両が到着し、目撃者だと言う事で柴垣とスーツケースの女性は、予備校の事務室で警察から聴取を取られる事になった。
矢継ぎ早に繰り出される質問に、気ばかりが焦る。流れる脂汗に震える指先。こんな挙動不審な状態では、自分があの少女の死に何らかの関わりがあると疑われてしまうのではないかと、要らぬ心配が更に柴垣の不安に拍車をかける。
「大丈夫ですか? 顔色が随分お悪いようですけれど」
そんな状態の柴垣を気遣ってくれたのが、オレンジ色のスーツケースの女性だった。
「息が詰まっちゃいますよね。まるで尋問みたいに、何回も同じことを聞かれたら」
「……あ、いえ、何か力になればと思ったんですが、どうも記憶がおぼろげで……。ダメですね、すっかり耄碌してしまって」
「そんな……、無理もないですよ。ほんの一瞬の事でしたもん」
その通り。ほんの一瞬の出来事だった。
飛び降りた少女は、救急車が到着する頃には、既に絶命していたと聞かされた。人の命と言うのは、あんなにも瞬時に奪われてしまうのかと愕然とした。
事故で即死だった妻の温子の命も、あんな風に一瞬で終わってしまったのだろうか。
冷たくなる指先に触れるクッキーの身体の温もりだけが、柴垣にとっての救いだった。
ようやく解放された際に先に音を上げたのは、クッキーではなく柴垣の方だった。元々高血圧の気があったのも原因だろうが、激しい頭痛と目眩で立ちあがる事が出来なくなってしまった。
「救急車、呼びましょうか?」
今度は予備校の事務員だという女性が、声を掛けてくれた。飛び降りたのは予備校の生徒だったと言う。彼女の方が色々と大変だろうに、心配《こころくば》りがありがたかった。
「だ、大丈夫です。少し休めば……」
「じゃあせめて、誰かおうちの方に迎えに来てもらっては? どなたかに連絡しますか?」
「……そうですね。すみませんが、電話をお借りできますでしょうか? 携帯電話を持っていないもので」
「もちろんです。どうぞお使い下さい」
女性が差し出したのは、スマホだった。もちろん柴垣にその使い方が分かるはずもなく戸惑っていると、
「良かったら、私がお伝えしましょうか?」
更にその女性が、助け船を出してくれた。
手渡した財布の中に入れておいたメモ書きには、柴垣の自宅と息子・隆と嫁の瑞希の携帯番号が記されている。
「どれも繋がらなかったんですけど、メッセージを残しておきましたから」
女性の声に、『憐れみ』の感情が含まれているような気がした。彼女の目に自分は「家族に見捨てられた孤独な老人」として映っているのだろうか。
(事実だから、仕方ない……)
今日はもう、温子に『いちごサンド』を買って供えてやる事ができないかもしれない。肩を落とした柴垣の耳元に、
(大丈夫ですよ)
温子の口癖だったひと言が、聞こえた気がした。
「お義父さんのせいで、午後のお客さんひとり断らなきゃいけなかったんだから! 私の仕事はね、評判が第一なの。どうしてくれるのよ、コレでお客さん減っちゃったら」
車の後部座席でウトウトしかけていると、運転しているはずの瑞希が誰かと話す声が、柴垣の耳に聞こえてきた。まさか『ながら運転』かと目を見張るが、彼女の両手はしっかりとハンドルを握っている。
『だからゴメンって。俺の所からだと、二時間近くかかってたし。ホント助かったよ』
「んもう、たぁくんからもお義父さんにちゃんと言ってよ! ひとりで遠くまで散歩に出たりしないでって! 何かあった時に大変なのは、いっつも私なんだから!!」
スピーカーから、隆らしき相手の声が聞こえ漏れた。以前隆が説明してくれた『ハンズフリー』という機能で、電話をしているようだった。
中学教師の息子の隆は、サッカー部の顧問をしており、週末は練習試合や大会の引率で出掛ける事が多かった。この週末も同様に、どこかへ遠征に出ていたらしい。
「……すまなかったね、瑞希さん」
予備校の事務員が留守電を残してから一時間以上経って、ようやく嫁の瑞希から連絡があった。
タクシーで帰って来いと言われたが、クッキーがいる為それは難しいと伝えると、盛大なため息とともに電話は切られたが、瑞希は車で予備校まで柴垣を迎えに来てくれた。
柴垣が詫びの言葉を告げると、
「やだ、起きてたんですか?」
ルームミラー越しに、瑞希が露骨に眉を潜めた。
「盗み聞きとか最悪」
そんなつもりではなかったのに……と、言葉を返そうと思ったけれど、更に機嫌が悪くなられても困ると、柴垣は大人しく口をつぐむことにした。
―― ウォンッ!! 柴垣の気持ちを代弁するかのように、クッキーがひと声、瑞希に向かって高く吠えた。
瑞希の眉間には、更に深く皺が刻まれるのを、柴垣は見て見ぬ振りをした。
今日もまた、眠りの途中で目が覚めた。
枕元の時計は午前五時を示している。十二時と二時にも起きてしまったから、今夜は三度も目が覚めてしまった事になる。
元々年齢が上がるに従って、柴垣の毎晩の眠りは浅くなってきていた。とはいえここ最近、ひと晩に何度も目覚めてしまうようになったのは、あの日以来の事だった。
自分の目の前で、飛び降りて命を失った少女 ――
そのショックが、柴垣の精神状態になんらかの影響を与えていたのは明らかだった。
後頭部を打って、出血したのだろうか。少女の頭部があった路面は、濡れて黒く見えていた。見開かれたままの両目に、吸い込まれるようだった。
あれが『魂』を失った人の身体だと考えると、柴垣はどうしても少女に妻の姿を重ねて思い出してしまうのだ。
柴垣の妻・温子は、五年前、交通事故で突然この世を去った。
携帯電話で『ながら運転』をしていた若い女性がハンドル操作を誤って、歩いていた妻を撥ねた。転倒した妻は縁石のブロックで頭部を強打。連絡を受けた柴垣が、運び込まれた病院に駆けつけた時には、既に妻の息はなかった。脳挫傷によるほぼ即死で、痛みも殆ど感じる事無く逝けたのが不幸中の幸いだったろうと、医者は告げた。
柴垣が妻の事故現場を、この目で見る事はなかったが、あの飛び降りた少女のように、撥ねられた妻も多くの野次馬の視線に晒されたのだろうか。
道に横たわる少女の姿を、集まった人たちが無遠慮に携帯のカメラに収めていた光景を思い出す。妻が同じような仕打ちにあっていたのかと考えると、どうしようもない怒りや哀しみが新たに湧いてくるのだった。
そして柴垣のその怒りは、死んだ少女にも向けられた。なんで若い命を自ら簡単に捨てたのか。親から貰った大切な命を。あの子はそんなにも、耐え切れない程の悩みを抱えていたと言うのか。
生きたくても生きれなくて、死んで行く人もいるというのに。突然誰かに命を奪われて、無念のままこの世を去る人もいるというのに。
鬱々と考えていると、激しい頭痛と動悸が柴垣を襲ってきた。これも、あの日以来悩まされている現象だった。
乾ききった喉を湿らす為に、柴垣は台所で少量の水を口にした。キッチンと風呂場の水周りは共用でいいのではないかと言う、柴垣と隆の意見は瑞希から猛反対を受けた為、柴垣の居住スペースにも狭小ながらも台所があったので、こうやって息子夫婦に気を使わずに早朝でも使う事ができた。
ただ、この場所があるせいかどうか、息子夫婦は、と言うより瑞希は、柴垣の食事に関しては一切無関心であった。なので柴垣は基本的に毎日自炊をして、独りで食事を取っていた。二世帯住居での暮らしは、離れて暮らすよりも、柴垣を孤独にした。クッキーだけが心の支えだった。
―― それなのに
「クッキーを、どこか里子に出せないかな?」
「なんだって」
耳を疑うような台詞を我が子から聞かされる事になるとは、柴垣は想像だにしていなかった。
その日、夜も更けてから、息子の隆が「話がある」と、珍しく一階の柴垣の居住スペースを訪れた。
「実は、瑞希に赤ちゃんが出来たんだ」
口元を緩めて隆が告げた最初の報告には、柴垣も心から喜んだ。ここ最近暗く淀んでいた心に、真昼の太陽が差し込んだかのように、「ついに自分にも孫が出来るのか」と胸が躍った。しかし、それに続いた隆の言葉に、一気に奈落の底へと突き落とされた。
「クッキーを里子に出して欲しいんだ。新生児にとってアレルギーの原因になる物は、なるべく排除した方がいいらしいし、何よりもし赤ちゃんを噛んだりでもしたら」
柴垣には理解不能だった。クッキーが我が家に来てから十五年。一度だって誰かを傷つけた事があったか? あの嫁よりも、クッキーの方が長くここで一緒に暮らしているんだ。家族同様の彼を排除しようだなんて、一体どうしてそんな事が言える?
どうせ、あの若い嫁に言いくるめられているのだろう。息子の優しさは美点だとも言えるが、そこに付け込んであの嫁は無理難題をいつも隆に押し付けてくる。柴垣は深くため息をついた。
「……それは出来ないよ。クッキーは大切な家族だ」
ひとり息子の隆が就職で家を出た際に、温子が「また子どもを育てたい」と知り合いから保護犬を紹介してもらって出会ったのが、まだ子犬だったクッキーだった。柴垣と温子にとっては、二人目の子供にも等しい存在なのだ。新しい家族が誕生するからと言って、誰かに譲れるワケがない。
「こっちの居住スペースからは、一切出さないようにするから。瑞希さんにも、そう伝えてくれ。あと、『おめでとう』とも」
「……わかった」
息子と一緒に、もっと初めての子供の誕生を祝いたかった。隆を授かった頃の思い出話のあれこれに、話を咲かせたかった。なんなら瑞希にも聞かせたかった。けれど、願いが受け入れられないと判断した隆は、すぐに二階へと上がって行ってしまった。
もやもやとした気持ちを少しでも晴らしたくて、柴垣は仏壇の温子の写真に語りかけた。
「ついに、孫が出来るよ」
温子が生きていたら、どんなに孫の誕生を喜んだだろうか。嬉しいニュースを伝えた筈なのに、柴垣は心から喜ぶ事が出来なかった。
「寂しいよ、温子……」
思わず漏れた弱音が伝わったのだろうか。温子の「大丈夫ですよの声が、今度は写真から聞こえてきたような気がした。
自殺の現場に遭遇して以来、柴垣はクッキーの散歩コースを家の周辺のみとするようにしていた。
隆から「あんまり遠出して、また具合が悪くなりでもしたら」と心配されての配慮だったが、瑞希が「犬連れでどこかで倒れられたら、また私が迎えに行く事になるじゃない。私は今大切な身体なの。 もっと気遣ってよ! お義父さんにはたぁくんがきつく言ってくれなきゃ!」と、ヒステリックに叫んでいたのが、二階から聞こえてしまったからでもある。
そして何より、日増しに体調が悪くなり、長い時間歩くのが辛くなってきていたのだ。
特に、高さのある建物の近くや、車通りの多い道を歩いていると、症状が顕著に現れた。激しい頭痛と目眩、そして動悸で歩く事さえ困難になってしまうのだ。その高い建物の上から誰かが落ちてくるような、スピードを上げて走る車が誰かを撥ね飛ばして行くような、そんな錯覚を覚えてしまうのだ。
柴垣は以前より外出する時間も極端に減り、自室に籠ることが多くなった。有り余る時間を何に使うかと考えた結果、柴垣は温子と生前通っていた「絵手紙」教室を思い出し、数年ぶりに絵筆を手にしてみる事にした。
何を描こうかと思案した柴垣は、昔のようにバナナやリンゴ等の果物を目の前に並べてみるが、今ひとつピンとこない。こういった日常の素材ではなく、自分の中で混沌としている感情を描き表したい。そう考えた柴垣が、スケッチブックに描き始めたのは、『あの』少女の姿だった。
まずは現場で見た通りの様子を、思い出しながら紙に描き出してみる。デッサンを真剣に学んだわけではないから、人体の構造的にはおかしな絵に仕上がったかもしれないが、絵で表現する事によって、あの日直面した『死』の衝撃によるどうしようもない不安が、少しではあるが緩和されていくような気がするのだった。
柴垣は取り憑かれたように、少女の絵を描き続けた。
顔のアップ、手足のアップ、様々な角度から見た現場を想像した物などのあらゆる状況を、食事に費やす時間も寝る間も惜しんで、延々と描き出していった。
柴垣が自室で倒れているのが発見されたのは、彼の飼い犬であるクッキーがいつまでも吠え続けているのを、不審に思った息子の隆が様子を見に訪ねたからだった。スケッチブックと画材が散らばった部屋で意識不明に陥っていた柴垣は、救急車で搬送され緊急手術を受け、何とか一命を取り留めたが、それから約二ヶ月の間意識は戻らぬままだった。
「脳梗塞だって、ホントびっくりだよぉ」
あぁこれは、瑞希の声だ。
動かない身体、開かない瞼、声を発する事の出来ない口腔。それでも柴垣の耳だけは、周囲の物音を捉えていた。
どうやら自分は脳梗塞で倒れて、手術を受けたらしい。術後も未だに意識は回復していないと判断されているようだったが、柴垣には周りの声が届いていた。それを伝える術はなかったが ――。
「そう。まだ意識戻んないの。このままポックリ逝っちゃってくれたら、楽なんだけどねぇ」
瑞希もまさか、意識不明で寝たきりの柴垣に会話の全てが聞こえているとは思わないのだろう。病院の個室の本人が寝ている横で、悪びれることなく誰かと携帯で通話をしている。
「だって妊婦って、お葬式とか出なくっていいんでしょ? かったるいもん、あんなの。ばあさんの事故で保険金とか賠償金とか、たんまり溜め込んでると思うんだよねぇ。遺産とかマジ期待」
特に慕われているとは思っていなかったが、まさかここまで疎まれていたのかと柴垣は愕然とするが、瑞希の衝撃的な発言はこのままでは終わらなかった。
「うん。今はもう、つわりはほとんどないよ。大丈夫、バレテないって。旦那は自分の子供だって信じ込んでる」
何を言っているのだ? この嫁は。待望の孫だと思っていたお腹の子が、隆との子ではないと言うのか?
「うん、いつでも会いに来てね。平日の昼間なら大丈夫だから。だって、本当のパパはノリ君なんだから」
(ふざけるな!)
そう叫んで跳ね起きたいのに、身体は小指一本何ひとつ言う事を聞かない。
「もう何年かしたらさ、適当に上手いこと理由つけて、慰謝料たっぷりもらって別れちゃうつもりだからさ。そしたら今度こそ一緒になろ?」
甘い声で見知らぬ男に囁くこの売女が、息子の嫁だとは ─。
このままではいけない。このままこの嫁を放っておいたら、隆の人生が食い物にされてしまう。何とかして目を覚まさなくては。自分が手を打たなくては。
(頼む。手を貸してくれ)
柴垣は祈った。亡き妻に。そして名も知らぬ、彼にとって「死の象徴」であるあの少女に。
祈りが通じたのか、奇跡的に柴垣の意識は回復し、左足に少しの後遺症が残ったものの、退院して自宅に戻る事が出来た。隆と瑞希が無事退院を祝ってくれたが、何もかもが上辺だけのものに感じられて、柴垣の顔に笑みは一度も浮かばなかった。
病院で目覚めた柴垣に、暫らくした後、隆が言いにくそうに告げたのは『クッキーの死』だった。柴垣が倒れた後、クッキーも体調を崩し、何度も動物病院で診てもらったのだが手の尽くしようがなく、あっけなく死んでしまったのだと。
クッキーは既に、ペット用の骨壷だと言う卵型の陶器の中で灰と化していた。温子同様に、さよならも言えずにクッキーは逝ってしまった。
いっそあのまま自分も、温子やクッキーの元へと旅立てていたら……。こんな苦しい思いをしなくても済んだのに。
柴垣は、息子夫婦に気付かれぬよう下唇を噛み締める。しかし、朗らかに談笑する瑞希の膨らみ始めた腹を見て、
(……まだ、逝くわけにはいかない)
そう、自分自身に誓うのだった。
まずは証拠を掴まなくてはと、柴垣は退院の翌日から、瑞希のサロンを訪れる客を監視し始めた。
盗聴器や監視カメラなどの文明の機器に明るくない柴垣は、ガラスのコップを壁にあててサロンの会話を盗み聞くという古典的方法を使った。『ノリ君』と呼んでいた間男が現れるのを信じて。いや出来得るならば、病室で耳にしてしまったあの会話は、夢であったと思いたかったが……。
しかし、それは現実だった。間男は存在したのだ。
「じゃあ、三十分後に迎えに来て」
その日柴垣は、壁の向こうで瑞希が誰かと電話で約束を交わしているのを聞きつけた。そして会話の最後に瑞希が、
「待ってるね、ノリ君」
と猫なで声で、例の名前を口にしたのも。
三十分後、玄関の前に深紅の派手なスポーツカーが停められたのを、柴垣は部屋の中から覗いていた。運転席の金髪頭のニヤついた中年男を。そしてその車にいそいそと乗り込んでいく瑞希の姿を。柴垣は、己の目に焼き付けるように見つめ続けた。
