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ちっぽけなあたしの死を嗤え #11

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【柴垣保・71歳】その2


 瑞希の不貞をどうやって隆に告げるべきか、柴垣は悩んでいた。

 彼女と結婚して二年。息子は常に若い嫁の言いなりだった。柴垣が見聞きしたことを報告したとして、簡単に信じてくれるとは思えなかった。

(……少し、外の空気を吸うか)

 入院中、リハビリに励んだ成果で、ゆっくりではあるが杖をつきながらなら独りで歩く事が出来た。柴垣は、クッキーと歩いた散歩コースを辿り、そのひと時だけは瑞希の不義を忘れるべく、愛犬との思い出を懐かしんだ。

 散歩コースの近隣に、クッキーが世話になった動物病院があった。色々手を尽くして最期を看取ってくれたと、息子夫婦からは聞いていた。ひとこと御礼の言葉を伝えようと受付に出向いた柴垣は、耳を疑うような言葉を聞かされる事になる。

「……え? クッキー君、亡くなったんですか?」

「どういう事でしょう? 私が入院中体調を崩して、家の者がこちらで診てもらっていたかと……」

「いえ、以前健康診断に柴垣さんと来てもらった時以来、クッキー君は一度も……」

 どういう事だ? クッキーを飼い始めて以来、診てもらってきた病院はここだけだ。そして近隣の動物病院もここしかないはずだ。隆や瑞希が、どこか遠くの病院にわざわざ連れて行ったと言うのか? そんな手間暇をクッキーの為に彼等が掛けるとは思えない。と言う事は ――

「正直に言ってくれ。クッキーを病院に連れて行ったというのは本当か?」

 その日、隆が帰宅したのを待ち構えるようにして、柴垣は二階の息子夫婦の所へ乗り込んだ。

「いや、違うんだ親父。病院に連れて行こうとしていたんだけど、間に合わなくて……」

「じゃあ何故『連れて行った』だなんて嘘をついたんだ!」

 耐えきれず、柴垣は声を荒げた。

「そう言わなかったら、お義父さんが哀しむと思ったからでしょう!?」

 柴垣の声を上回る音量で、瑞希が叫ぶ。

「私たちだって暇じゃぁないんです! 二十四時間、犬の様子なんて見れるワケないじゃないですか! 大体、あの犬はお義父さんの飼い犬でしょう? 責任持たなきゃいけなかったのは、お義父さんじゃない!? なのに勝手に倒れて、何カ月も入院して! どうして私たちばかり責められなきゃいけないの!? 燃えるゴミに出さなかっただけでも、感謝してもらいたいもんよっ!」

 そう言って机に突っ伏すと、瑞希は声を上げて泣きじゃくった。

「悪かったよ、親父。でも瑞希は今、色々不安定な時期なんだ。こういうのはホント、勘弁してくれよ」

 部屋の隅に連れていかれた柴垣に、声を落とした隆が告げる。

「……親父もさ、落ち着いたら一度精神科にでも通ってみないか?」

「どういう意味だ?」

「……部屋に山積みになっていた、親父の描いた絵だよ。明らかに病んでるって瑞希が怖がって、部屋に入りたがらなかったんだよ。だからクッキーが弱っていたのにも、気がつくのが遅れたんだ」

「……全部、俺のせいだと言うのか」

「そういうわけじゃ」

「もういい」

 反論する言葉も出ずに、柴垣は絶望を抱えたまま二階を後にした。

 自室に戻ると、柴垣は本棚の隅に詰め込まれていたスケッチブックを見つけ出し、中を開いた。

 ページを占める飛び降り自殺を図った少女のドローイングの数々が、数ヶ月前のあの日をまざまざと思い出させた。少女の顔には、怒りも悲しみも苦しみさえも見えなかった。そこにあるのは、ただ『虚無』と呼ぶにふさわしい表情だった。

 人の死とは、感情や感覚や命、全ての物が失われるという事なのだと、スケッチブックをめくりながら柴垣は改めて感じていた。

 ふと思い立った柴垣は、ペンを手に取ると、真新しいページに線を描き始めた。

 今の柴垣が、隆に瑞希の事を忠告しても、「精神に異常をきたした哀れな父親」と見なされ、聞き入れてはくれないだろう。

 証拠写真を撮るとか、探偵事務所に素行調査を依頼するとか、何か適切な方法があったのかもしれない。

 しかし柴垣は、怒りを込めて絵を描いた。

 少女の遺体を描いた物を元に、それになぞった瑞希の姿をつぶさに描いた。路地裏に倒れ、事切れた瑞希の姿を。その四肢はだらしなく投げ出され、大きく見開かれた両目は何も映さない、『虚無』の表情を浮かべた生々しい瑞希の遺体を、紙面いっぱいに描き続けた。

 そうしていると、得も言われぬ高揚が絵筆を通して身体に流れ込んでくるようで、柴垣は疲れを覚える事もなく筆を動かした。

 それから丁度、三日後の出来事だった。

「親父! 起きてくれ、親父! 大変なんだ!」

 早朝、柴垣の自宅スペースの扉が激しく叩かれた。

「どうした」

 扉を開けると、血相を変えた隆が声を震わせて柴垣に訴えてくる。

「瑞希の様子がおかしいんだ。救急車を呼んだから、到着したら二階まで案内してもらえないか」

 そう言い残して、隆は二階へと駆け上がって行く。

 一体何が起きたのかと、柴垣も片足を引きずりつつ階段を上り、扉が開け放たれた夫婦の寝室を覗くと ――

(……っ!!)

 柴垣は、驚きのあまり息を飲んだ。

 ベッドの上に、瑞希が倒れていた。その姿が、三日前に自分が描いた、彼女の『想像上の遺体』と酷似していたからだ。

 心臓発作と診断されて、瑞希は死んだ。

 健康そのものだったのに。殺されても死なない、図太い悪女だと思っていたのに。

 

 突然、妻とお腹の子供を同時に失った隆の落胆ぶりは、誰が見ても相当な状態だった。

 それでも、柴垣はどうしても隆に『ある事』を告げなくてはと、隆が籠《こも》る二階の部屋を訪れた。

「……隆、瑞希さんが亡くなったのは、俺のせいかもしれない」

 柴垣はこれまでの事を、隆に順を追って話しはじめた。

 目撃した飛び降り自殺の現場。描きためた遺体の絵。意識不明だった際に聞いてしまった、瑞希の電話での会話。我が家を訪れた金髪の男。

 そして、瑞希をモデルに描いた「死」の描画 ――。

「俺が絵に込めた感情が、瑞希さんを殺《あや》めてしまったのかも……」

「ふざけんなよっ!」

 柴垣の話を聞き終えた隆は、激高した。

「親父が絵に描いたから瑞希は死んだって?! そんな漫画みたいな話があるわけないだろ!! なぁ頼むよ、しっかりしてくれよ。親父が見た物も聞いた物も、どうせ全部幻想だろ? 狂ってる。狂ってるよ親父は!!」

 なるほど。自分は狂ってしまったのか。

 柴垣は自分自身に問い掛けてみる。確かに隆の言うとおりだ。自分みたいな凡人ごときが絵に描いたものが、現実になってしまうだなんて神懸かり的な事があるワケはない。だったら逆に、幾ら絵に描いても問題はないはずではないか。

 柴垣は描く事を決意した。自分がこの世から消したい存在の『死』の姿を ――。

 彼女の顔を確かめる為に、柴垣はその家を見張った。

 陽も高くなって、ようやく玄関から姿を見せたその女は、両耳にイヤホンをした上にスマホを片手に自転車に乗って出掛けようとしていた。

「……それで運転するのは、いくらなんでも危ないんじゃないのか?」

 黙って立ち去るつもりだった柴垣は、たまらず女に声を掛けた。振り向いて、声の主が誰かに気がついた女は、

「……信じらんない。あたしの事、監視してんの? マジ怖いんですけど」

 みるみるうちに、恐怖と怒りを露わにしていく。

「もうあの事故は、示談になったんじゃない!! アンタだって賠償金山ほど手に入れたんでしょ!? これ以上つきまとうんなら、警察呼ぶからね!」

 そう捨て台詞を残して、女は自転車で走り去った。

(何ひとつ、反省なんてしていないじゃないか……)

 女は五年前、妻を撥ねて殺害した人物だった。

 近所に住んでいた、あの頃免許取りたての大学生だった女は、妻が死んだ際には、両親に連れられしおらしく泣いていたりもしたのに。それが今では、柴垣に会って頭を下げるどころか、狂人扱いするとは。

 情けを掛ける理由はこれでなくなったと、柴垣は女の絵を描く事を決めた。魂を失った、女の骸《むくろ》を。

 絵を描き上げてから、柴垣は地元の新聞の『お悔やみ欄』を毎日つぶさに眺めた。

 そしてある日、女の名前が書かれているのを確認した。死亡した日は、柴垣が絵を描き上げた丁度三日後。死因は瑞希と同様『心臓発作』だった。

 単なる偶然と呼ぶには一致しすぎている状況に、柴垣は人智では計り知れない力の存在を確信した。

 

 柴垣は思い出していた。

 意識不明の状態に陥った時、彼は確かに死の淵に立っていた事を。

 白いもやの向こうに、大きな川が流れていた。川の反対岸には、妻の温子がクッキーを胸に抱えて、柴垣に向かって微笑んでいた。今すぐにでも、温子の元に行きたいのに、目の前の川を渡る手段が分からない。橋もなければ船も筏も見当たらない。いっそ泳いで渡ろうかと、飛び込む決意をした柴垣に、

「大丈夫ですよ」

 そう言って微笑むと、温子は柴垣に背を向けてもやの中に消えていった。クッキーと共に。

 そして柴垣は独り、白の世界に取り残された。遠くから聴こえて来た現世の音を頼りに歩き、そして目覚めた。

 自分が手にした能力は、死にかけた事によって手に入れる事が出来たのではないだろうかと、柴垣は考えた。

 田舎の山村で産まれ育った柴垣は、村の老人たちから崇められていた巫女の老婆を思い出した。幼少の頃に病で死にかけた彼女は、それ以来神の声が聞こえるようになり、祈祷や占いで人々を助けるようになったのだと聞かされていた。

 生死の境目から生還した人物が、死者の声が聞こえるようになったり、未来が予見できるようになったり、死者の姿が視えるようになったりした事例があると、柴垣は『臨死体験』を扱う書物に書かれた体験談を読みふけった。

 柴垣は思案する。

 絵に描いた『死』が、現実のものとなる能力を、ただ怨恨や復讐の為だけに使う事が果たして正しい行為なのだろうか。

 たった一度、それも数秒しか顔を見る事はなかったが、それでも目にしっかりと存在が焼きついた金髪の男『ノリくん』の絵を描き終えた後、柴垣は老いた自分が手にした不思議な力について、改めて思いを巡らすのだった。

 同じ屋根の下で暮らしていながら、柴垣は息子の隆とほとんど顔を合わせる事がなくなった。

 たまに玄関から出ていく後ろ姿を、窓からこっそり見送る朝もあったが、隆の背中が日増しに疲れと孤独でやせ細っていっているような気がしていた。

 あのまま、瑞希の不貞に目をつぶって、腹の子を迎え入れれば良かったのだろうか。例え偽りの家族でも、真実を知らぬまま過ごす事が出来たのなら、隆は幸せでいられたのだろうか。

 今更、そんな事を考えてももう遅い。瑞希も、そしてお腹の子供も、もうこの世には存在しないのだから。

 今の柴垣には、二世帯住居に建て替えた、我が家の広さが恨めしかった。

 親子で妻に先立たれた男やもめの二人が、この先もここで暮らしていくというのは、あまりにも辛い選択なのではと、柴垣は考えた。

 この家を手放そう。

 瑞希の思い出が詰まったこの家ではなく、どこか新しい場所で息子には一から新しい生活を始めて欲しかった。一軒家は何かと手が掛かる。どこか交通の便のいい場所で分譲マンションを探すのはどうだろうか。そして自分は、ケアサービスのある高齢者施設を探して、そこで老後を静かに暮らそう。温子とクッキーを祀った仏壇だけが傍にあれば、他に多くは望まない。

 画材も、一切処分しよう。もう二度と絵を描く事はしない。 

 あの少女の事も、忘れてしまおう ――

 そう柴垣が心に決めた翌日、事件は起きた。隆を巻き込んだ、最悪の事件が。

 息子が中学教師になると言いだした当初、柴垣は決して手放しでは喜べなかった。

 柴垣が学生だった頃には、『教師』と言う立場は絶対的な物であり、尊敬されるべき職業であった。それが現在では、『受験戦争』や『いじめ』、『モンスターペアレンツ』等々の様々な難題を抱える上に、特別に高給取りでもないのに労働条件が過酷すぎるイメージがあった。おまけに新任早々、サッカー部の顧問を押しつけられたような形で引き受けた隆は、放課後も土日も学校の為に時間と身を捧げていた。

 新聞やテレビをにぎわす、学校に関する悪いニュースの数々を見聞きする度に、「もし、隆がこのような事件・事故に巻き込まれてしまったら」等と不安になっていた柴垣を、生前の温子は「大丈夫ですよ」と、いつもの気楽さで笑い飛ばしてくれていたのだが。

 その妻はもういない。

 つい先日、隣町の中学校で恐ろしい事件が起きた。錯乱した母親が、姑を殺害した上、我が子の通う中学に車で乗り込み、多数の生徒を撥ねて多くの死傷者を出した。その子供の部活の顧問だった教師も、襲われて重傷を負ったと知った時には、柴垣はどうしても隆と重ねて考えざるを得なかった。

 隆と腹を割って会話する事もなくなってしまった今、柴垣は仕事に出かける隆の無事を、ただ仏壇に手を合わせて祈る事日々だった。

 その不安が、現実となってしまったのだ。

 先の事件よりも、もっと最悪の形で。

 隆の勤務する中学の男子生徒が、校内で計画的な大量殺傷事件を企て、それを実行した。

 わずか十四歳という年齢の少年が、同級生をナイフで刺し、バットで撲殺し、農薬を飲ませて毒殺し、挙句の果てに同級生に火を放つと言う暴力的行為によって殺害を重ねるという恐るべき犯罪だった。

 その少年が女子トイレに仕掛けた、二種類の洗剤を使って有なガスを発生させる装置が作動して、三人の女子生徒が命を落とした。異変に気がついた隆は、それ以上の被害を出させない為に生徒を避難させ、ガスの発生を停めようと現場に残った。

 結果、搬送先の病院で柴垣が対面できたのは、意識不明の重体でベッドに横たわる隆の姿だった。

「なぁ、聞こえているんだろう? 隆」

 ガスによる呼吸器の障害から、低酸素脳症を引き起こした隆の「意識が回復する見込み」を、尋ねた時の医師のあの憐れみに満ちた表情を、柴垣は忘れない。

「聞こえているよなぁ。俺もそうだったから……」

 二度と目覚める事はなくとも、きっとこの声は届いているはずだと、柴垣は毎日病院を訪れては隆に語りかけた。

 隆は自分に似て、決して自己主張の強いタイプの人間ではなかったが、強い正義感を持ち合わせた子供だった。大声でそれを振りかざすわけではなく、人の見ていないところで、密かに誰かに手を差し伸べられるような、そんな優しい人間だった。なのに……

 神と言う物が存在するのならば、地上に住む人間たちにこのような悲劇をもたらす選択を、一体どのように決めていると言うのだろうか。

 生涯幸せに暮らして、一生を終える人もいると言うのに、彼等と隆や温子や自分と何が違うと言うのだろうか。

 『神は、乗り越えられない苦労は与えない』等と言う常套句に、騙されはしない。

 その苦難を与えられた人々が、どれだけ声を枯らして叫んで、どれだけ心が血を流して、耐え忍んで生きて乗り越えて来ているのか、神は本当に分かっているのか。

 突きつけられた命題に、柴垣は言いようのない怒りを滾らせていくのだった。

 そんな柴垣に、更なる悲劇が舞い込んだ。

 隆が被害にあった中学を舞台にした少年犯罪は、マスコミも大きく取り上げ、あらゆる角度から掘り下げられた挙句、隆が事故当時女子トイレ付近にいたのは、日頃から女子トイレを盗撮していたからだというとんでもない記事が、週刊誌に掲載されたのだ。

 隆の携帯電話の画像からも、パソコンからも何ひとつ物証は出ては来なかったのに、噂は独り歩きをし、病院でも看護師たちの態度に柴垣は若干の蔑みの視線を感じるようになった。

 何故、息子にここまでの仕打ちを与えるのか。彼がいったい何をしたと言うのか。

 きっと持ち前の正義感で、生徒たちを助けようと飛び込んでいったのだろうに、どうしてその彼をこんな風に揶揄する事が出来るのか。

 ―― この世界は、間違っている。

 柴垣は、決意した。

 再び、筆を取ろうと。こんな世界を終わらせる為に。

 隆の絵を描き終え、予定通り彼を看取った後、柴垣は自宅を処分する手はずを進めていった。

 街を離れ、山里に近い介護ホームに入居を決めた柴垣は、最後にもう一度あの場所を訪れる事にした。

 少女の死から既に、二年の月日が経とうとしていた。

 『CHPゼミナール』があった場所には、既にカルチャースクールの看板が大きく掲げられていた。生徒が自殺をしたビルで、受験勉強に励みましょうと言うわけにはいかなかったのだろう。現在予備校は、大通りに面したビルで何事もなかったように運営されていた。

 柴垣が、飛び降りた少女の身体を目撃した現場には、花束やお菓子が供えられている。晩秋の候、丁度彼女の命日が近いからなのだろうか。

 あの日、彼女の死を目にしなかったならば、自分はこんな数奇な運命に踊らされる事はなかったのではないか。 

 だとしたら、ここが全ての始まりの場所だ。

 あの時の柴垣は、若くして自らの人生を終わらせた少女に「何故そんな簡単に命を無駄にするのか」と憤りを覚えたが、今となってはそうとは思えなかった。

 人生とは、実に理不尽で、不可解で、不公平だ。

 自分自身の手で終止符を打ちたくなる気持ちが、今の柴垣には痛いほど分かった。

 我が子を見送った後に、柴垣はこれが最後の作品になると信じて、自身の自画像を描き始めた。しかし、完成間近になって筆を止めた。

 果たして、このままでいいのか。

 自分一人が死んだからと言って、この世界の仕組みが簡単に変わるワケでもない。

 家族に先立たれ、それでも自分独りが生かされている理由があるとしたら ――

 始まりの地を訪れ、柴垣は思いを馳せた。

 飛び降りた少女が絶望した社会は、年月を経た今でも大きく変わることはない。相変わらず、眉を潜めるような哀しいニュース、腸が煮えくりかえるような腹立たしい報道が、毎日湧き続けている。こんな世の中に、自分は今まで何を期待して、何を夢見て生きてきたというのだろう。

(……ありがとう)

 柴垣は、少女を想い胸の中で呟いた。

(君のお陰で、私は『絶望』という物を学べた)

 今度こそ、この手で最後の大作を描き遺そう。

 モチーフは決まった。

 窓の外に、連なる山々の景色が臨める部屋が、柴垣に与えられた新しい住処だった。人里離れた山間に建つこの老人向けの介護ホームは、多くの老人たちから終の棲家として選ばれた場所である。白を基調とした建物は清潔感に溢れ、そこで暮らす仲間たちも、それぞれに音楽や映画鑑賞、足腰がまだ丈夫な者はゴルフなどまで、様々な趣味を楽しみながら、イキイキとした日々を送っていた。

 正直、若者たちに見捨てられた『姥捨て山』の様なイメージを、ホームに抱いていた柴垣には、入居当初その光景は衝撃的に映った。

 だが、しばらく暮らしていくうちに、その楽しげな暮らしの裏側の光の当たらない部分が垣間見えてくるようになった。

 高額なホームの利用料の支払いに関して家族と口論になり罵り合う者、生きているうちに自分に有利なように遺言書を書けと親族から脅される者、老いらくの恋に溺れ血を見るような三角関係に発展してしまった者、痴呆が進み職員から人間以下の扱いを受けて虐待を受ける者。

 外の社会と変わらない醜い縮図が、ここにも存在していた事に、柴垣はむしろ安堵していた。

(これで、心おきなく最後の製作にかかれる)と ――。

「わぁ、柴垣さん、お上手ですね。それ、水彩画ですか?」

 風の心地いいある日の昼下がり。個室の窓を開け、絵を描いていた柴垣に、外で作業をしていた若い女性職員が声をかけた。

「そうですよ。絵はお好きですか?」

「はい」

 柴垣の部屋のベランダから覗きこむようにして、彼女は柴垣の作品に目を凝らした。

「……抽象的で不思議な作品だけれど、なんだかとても気持ちが落ち着く気がします」

「そう言ってもらえると、嬉しいですね」

「その真ん中に描かれているのは、地球ですか?」

 混沌した流れが幾重にも描かれた画面の中心に、その波に飲まれるように、ダリの絵のごとく歪んで形を変えた『地球』が描かれていた。

「はい。地球です」

 取り寄せた最新の世界地図を見ながら、細部まで丁寧に描いた地球だった。いつまでも紛争の絶えない国々、銃犯罪が無くならない大国、核兵器を手放そうとしない某国、そしてこの日本国。柴垣がその存在を憂いた国々が、そこにはしっかりと精密に描写されていた。

 この大作を描き終えた数年後、柴垣は肺炎で命を落とした。

 柴垣が絵に込めた能力は、彼の生前には確認する事が出来なかったが、死の間際に朦朧とする意識の中、妻の温子が柴垣を迎えに現れ「大丈夫ですよ」と微笑んだ時に、柴垣は確信した。何年後、何十年後になるかは分からないが、自分が描いたあの絵は必ず力を発揮すると。

 柴垣は知らなかった。

 彼が絵を完成させた三日後に、米国の大学の天文研究所の学生達が、地球に接近する可能性のある小惑星を発見した事を。彼等の計算上では、数十年後にそれが地球と衝突する確率は非常に少ない数字であった為、大ごとにはされなかったが……。

 全ての計算の歯車が狂い、次に人類がその小惑星の存在を知る時には、もう既に何もかもが手遅れになる事を――

 

 地球滅亡の瞬間は、刻々と近づいて来ているのだ。

※ ※ ※ ※ ※

 あの日、「自分が死んでも世界は変わらない」と叫んだあの少女は、知るよしもなかった。

 一人の女子高生の死を目撃した、人生の最終章をそのまま静かに終えようとしていた老人が、図らずも手に入れた力で、この世界その物を終わりにしようとする絶望の未来を ――

 

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#創作大賞2024 #ホラー小説部門


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