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男の娘小説『エリス』ベスト・セレクション⑦:家庭崩壊の第1楽章→第2楽章 空手に先手なし! されど、友を守るためなら別だっ!! エリスたち四人の命懸けの闘いが、今始まる。

 私のオリジナル小説『ELLIS-エリス- 世界最高の生き方』のエピソードのなかで、Noteに載っけても大丈夫そうなものを選りすぐってアップしよう!!のコーナーその⑦!!
 今回のエピソードは、エリスが親友であり”想い人”でもあるダニエルの家庭事情に、ちょっとだけ首を突っ込んだり、ツッコまなかったりするお話!!(何やその『月曜から夜ふかし』みたいな言い草っ!!) その代償は勝利か、それとも……。

第三十八章 - 青春時代② 高校生活 Ep.25:家庭崩壊の第1楽章

エリスの高校生活⑳ 家庭崩壊の第1楽章

 「だ、ダニエル……もしかして今の声って……君のお父さんの?」戦慄するエリス。それは一度耳にしただけで、嫌な感じがひしひしと伝わってくるような声だった。少なくとも、言葉通りの家族への愛など、微塵も感じさせないような声……当のダニエルは、「ごめん、何も聞かないで……今はとにかく、あの人に見つからないように、一刻も早く帰って……」と震えているだけだ。
 「う、うん……」エリスが床に置いてあった鞄を取り上げて、「それじゃ、僕行くね……」と言って部屋のドアを開けようとする――そこで慌てた様子のダニエルが「ま、待って!」と鋭く囁いて、彼の手を制してからこう続ける。「念のため、僕が先導するよ……あと、足音が出ないように、スリッパはここで脱いでいって……」

 そのころちょうど一階では、妻が帰宅した亭主を迎えており、客人の逃走経路を確保すべく、言葉巧みに彼をダイニングかリビングへと導びこうとしている。
 妻「お、おかえりなさい、あなた。今日は随分早かったんですね?」
 亭主「まぁな。たまたま仕事が早く片付いてな。まこういう日もあるさ」
 ※ダニエルの父は近所の金属加工会社で『倉庫作業員』として働いている。普段は9:00~18:00が勤務時間だが、今日に限っては17時前に早退していた。
 妻「少し早いですが夕飯にしますか? ちょうど作り始めてたところなので、あと十分もすれば一品できますよ?」
 亭主(作業着を脱ぎながら)「そんなことより酒をくれ。あと『つまみ』もだ。ナッツがあっただろ確か?」
 妻「もうあなた。先週も随分飲んだじゃありませんか。お医者様にも控えるよう言われていることですし、今日くらい我慢したって――」
 「――いいだろが別に飲んだってよぉ!」亭主が作業着を床に叩きつけて怒鳴る。「何が楽しくて毎日まいにち暑いなか肉体労働してきてると思ってんだ! あぁ!? いいから黙ってビール持ってこいや!」
 妻(作業着を拾いながら)「わ、分かりましたから……あまり大きな声を出さないでください……ビールですねビール……今出しますから――」
 妻がキッチンに消えたところで、ようやく亭主が廊下からいなくなる――バンッ!というお約束の音を立てながら、リビングへと入っていったのだ。それを合図として、二階からダニエルとエリスが静かに階段を下りてくる。ゆっくり一段ずつ、絶対に気配を悟られぬよう慎重に下っていく二人。
 途中、冷えたビール瓶とつまみ(ナッツと例のマフィン)の載ったトレーを持った母親が、廊下を横切ってリビングへと入っていったのだが、その間際、彼女は階段にいる彼らへと目配せしていて、特にエリスに対しては目で、こんな別れの挨拶をしたようだった。『こんなことになって残念だわ。どうか気を付けて帰ってね』

 それから階段を下る二人の耳に、リビングで交わされる夫婦の会話が聞こえてくる。
 妻「ビール、ここに置いておきますわね」
 亭主「待ってました! したらば早速――(何かに気づく)――おい……何だこりゃ?」
 妻「び、ビールですけど……」
 亭主「そりゃな……だがビールはビールでも、こいつは『ライト・ラガー』だろ!? クソったれのライト・ラガー!」
 ※ライト・ラガーとは、下面発酵で製造される『ラガー・ビール』のうち、特に使用するホップ(主要原料となる植物)を少なくすることで、煮沸段階で抽出される独特の苦味と香りを抑えられたビール。甘みをもたらす麦芽などの副原料が多くなることで、相対的にホップの香味が弱められ、よりマイルドで『喉ごし』に優れたビールとなる。
 妻「す、『スピルナー』ですよ? ホップの風味はちゃんと出てると……」
 ※スピルナーとは、通常のライト・ラガーよりも多くのホップを用いて製造されるビール。麦汁の煮沸工程において、終了の15~5分前となる後半にホップを投下(レイト・ホッピング)することで、苦味の抽出を抑えながら香り成分を多く残したビールである。
 亭主「で、アルコール度数は?」
 妻「4%……ですけど……」
 亭主「そんなもん、ほとんど水と炭酸じゃねぇか! いつもの持ってこいよ! 俺様の『インペリアル・スタウト』をよぉ!」
 ※スタウトとは、上面発酵で製造される『エール・ビール』のうち、焙煎された大麦を用いて作られた『真っ黒な色をしたビール(ダーク・エール)』の一つ。たっぷりの麦芽(糖分)と酵母(糖分を食べてアルコールを作る微生物)を使用し、長期発酵させて作るため、一般的なラガー・ビールよりもアルコール分が高い。一方で、ロースト麦芽のチョコレートやコーヒー、ナッツのような風味を活かすため、ホップの量は控えめになっていることが多い。
 ※インペリアル・スタウトとは、19世紀のイギリスでロシア皇帝への献上品として作られたスタウトであり、ホップを含めた種々の材料をさらに多く使用し、もう一段階上の豊かな甘みと苦みを実現しつつ、また寒冷地での凍結防止としてアルコール度数もより高められた『漆黒のビール』だ(ちなみに度数は8~12%)。全てのビールのなかで最も色が濃く、味わい深いものの一つである。

 ここでやっと玄関まで辿り着いたダニエルとエリス。到着早々、エリスは自分が脱いだはずの靴が見当たらず、戸惑いながら辺りを見回すことになったが、すぐにダニエルが下駄箱から取り出してくれたので、彼は速やかにそれらを足に履かせて紐を結び始める。
 そんななか、夫婦の会話は続いていく。
 妻「あ、あれはたまたま品切れで……今日のところはそれで我慢してください」
 亭主「嘘をつくな! 品切れも何も、まだ家にストックがあっただろう!?」
 妻「先週ので最後でしたわ!」
 亭主「その言葉が本当かどうか、確かめてやる――」ドタドタと大きな足音が、エリスたちの方へと近づいてくる。もう左足の方を結んでいる余裕はないと判断したエリス。急いで立ち上がり、ちょうどダニエルが開けてくれた戸口から離脱しようと試みる。しかし――。
 妻「やめてっ! 本当よ! 本当にないんですよ!」
 亭主(リビングを出ながら)「嘘だったら、後でとっちめてや――」
 み、見つかった――。彼らの健闘も虚しく、ついに亭主の目にダニエルとエリスの姿が映ってしまった。だが驚いたのはお互い様のようで、亭主の方も口をポカーンと開けて立ち尽くしている。そこでやむなく振り返って、そんな亭主に向けて自己紹介を始めることにしたエリス。それが無断で敷居を跨いでいる部外者としての、最低限のマナーだと思ったのだ。
 「あ、あの……初めまして。僕、ダニエルの同級生のエリスといいます……今日はちょっと、遊びに寄らせていただいてました……」まだ亭主は、彼の顔を見ながらポカーンとしている。ちなみにダニエルの父の外観は、中肉中背で黒髪茶眼、髪は――かなり進行した男性型脱毛症だろう――真ん中が薄くなっている。
 「ご迷惑かなとは思ったのですが、ここには昔一度来たきりだったので、どうしてももう一度遊びにきたいと、今朝、僕の方から無理を言ってしまって……」事実確認として、今回のことがダニエルのアイディアではないと、はっきりと主張しておくエリス。こうすれば彼に矛先が向く可能性を、少しでも減らせると思ったのだ。
 そこまで来てようやく、亭主が新しい反応を示す――朗らかに笑った彼は、エリスに対して先ほどとは別人のような態度でこう言うのだ。
 「いっやぁ~、いきなり家に知らない人がいたから驚いたよ~。それも『絶世の美女』と来たもんだ! 何だっけ? 『エリスちゃん』だっけ? まさか君みたいな子がダニエルの同級生にいたなんてなぁ? それどころか、こんな『寂れた田舎町』にいたってことすら、にわかには信じられんよ――」そこで気取った笑い声を上げた亭主は、エリスに向かって握手を求めながらこう続ける。「どうぞこれからも、ウチのダニエルと仲良くしてやってくださいな」
 「は、はいっ……」やむを得ず、その握手に応えるエリス。彼は亭主の豹変ぶりに困惑しつつも、とりあえず大事にはならなそうだと安堵しながら、相手の熱いくらいの右手をしかと握り返した後で、堂々と別れを告げるのだった。「それじゃあ僕、そろそろおいとましようと思います。さようなら、お邪魔しました――」
 亭主(笑顔で左手を掲げながら)「はい、さいなら」

 ガチャンッ。エリスが玄関戸を抜けて外に出ると、その後ですぐ、「カチャッ……」っとドアを施錠する音が背後から聞こえてくる。『あぁ、怖かった……』と思いながら左足の靴紐を結んで、いざ家路に就こうと自転車のところへと戻っていく彼――しかし停めたはずの場所に自転車が見当たらない! 今回は友達の家の敷地内ということもあり、彼は油断して自転車に鍵を掛けていなかったのだ。とすると、盗難された可能性もなきにしもあらずだった。
 焦った彼は、しばらく周囲にキョロキョロと目を走らせた後、『もしかしたら……』と思ってダニエル家の裏手の方へと入っていく。ガレージ側から外壁に沿って歩いていき、やがて西日に照らされた裏庭に出る――すると何と、そこにエリスの自転車が無傷の状態で駐輪されているではないか! 取手のベルが日を受けて煌めいていて、どことなく主人との再会を泣いて喜んでいるようにも見える。
 『エリスゥ~、怖かったよぉ~(涙)』by エリスの拉致された自転車

 とは言え大方、ダニエルの母親が夫に客人の存在を悟られまいとして、自転車をこちら側へ移動させただけのことなのだろう。貧血で倒れかけていた彼女がそうまでせねばならないほど、この家の主人は厳しく家族を束縛していたのだ。『ダニエルとお母さん、大丈夫かな……』そう思いながら自転車を押していき、彼が裏庭を立ち去ろうとしたそのとき――。
 ガシャーン! キッチンの方から激しい物音がして、思わずエリスがそちらの窓を覗き込む――するとそこには、夫に胸ぐらを掴まれて折檻せっかんされている妻の姿と、それを止めようと藻掻いているダニエルの姿があった。えっ……何これ――。
 亭主「客が来てると、なぜ教えなかった!? おかげで俺が恥をかいたじゃねぇか!」
 パシンッ! 夫の平手が妻の顔を殴打する。
 妻「ごめんなさい……でもあの子が来たのは本当に久しぶりだったのよ……だからせめて帰るまでの短い時間くらい、二人をそっとしておいてほしかったのよ……」
 亭主「俺の対応を見ただろ!? 俺は『外では善良な市民』で通してるんだ! お前は俺の顔に泥を塗るのか!?」
 ダニエル(父親を引っ張りながら)「パパやめてっ! エリスは絶対に『他人を悪く思ったり、それを言いふらしたりなんてしない』よ!」
 亭主「うるさい! 元はと言えばお前が――」
 彼の怒りの対象が息子へと移ったところで、これ以上じっとしていられるエリスではなかった――芝生の上に自転車をほっぽり出した彼は、大急ぎで『キッチンと裏庭とを繋ぐ勝手口』の方へと駆けていく! は、早く……二人を助けないと――。勝手口に到達した彼が勢いよくハンドルを捻ると、幸いそこは施錠されていなかったようで、扉はすんなり道を開いてくれる。そして――。
 「やめてっ!」キッチンに突入したエリスがそう叫ぶと、ちょうど亭主は息子の首を絞めながら、『二度と他人を家に入れるな』と脅迫している最中だった。招かれざる客の登場に一瞬不意を突かれた亭主だったが、すぐに相手が誰かを確認したところで、薄気味悪い笑みを浮かべる。
 かくして、長く険しい月曜日が真に幕を開けた。彼ら四人の生死を懸けた闘いが、今始まる――。

エリスの高校生活㉑ 家庭崩壊の第2楽章

 「おやおや。誰かと思えば……『絶世の美女エリスちゃん』じゃないか! どうしたんだい、こんなところで? 迷子にでもなったんかい?」血走った目でエリスの全身を舐めるように見る亭主。彼はもう完全に開き直ったようで、その言葉とは裏腹に態度では、もはや取り繕う気などさらさらなさそうだった。それを察したダニエルが、必死に乱入者へと訴えかける。「エリス……逃げて……」
 「僕は迷子じゃありません! 自分の意思でここにいます! だから――」エリスが鞄を後ろに投げ捨てて、ファインティング・ポーズになる。「絶対に逃げない! 帰らない! あなたがダニエルとお母さんを解放して、今したことを二人に謝るまでは!」彼も覚悟を決めたようだ。もうこの事態を黙認したりはしないと……そのための私闘に『空手』を使うことも辞さない、と……。マルク先生、ついに『その時』が来ました……今こそ僕は大切な人を守るために、『旭信流きょくしんりゅう道場』で培った力を使います――。
 しかしそんな華奢なヒーローの姿に対し、返されるのは一つの嘲笑だった。
 「うぅ~、怖いこわい!」亭主が怯えた演技をしてから、狂ったように笑い出す。そしてひと頻り笑い終えた後で彼は、獲物を前にしたオオカミのような目でこう続けるのだった。「けどなぁ、お嬢ちゃん……やっぱあんたは迷子だわ……それも言うなれば、旨そうに丸まる肥えた『迷える子羊』!」彼の怒号がエリスの勇気を威嚇する。「なぜって? そりゃ~あんたが――人様の家庭の事情をよく知りもしないで、ほんの些細な一部始終を目撃しただけのあんたが……身の程もわきまえずヒーロー気取りで、『こんな危険な森』に迷い込んできたからだぁ――」
 息子を突き飛ばすと同時に、エリスに向かって猛進し始める亭主! それに対し同様に突進していき、真っ向から迎え撃つエリス! 二人が衝突する寸前、床を蹴って高くジャンプしたエリスは、渾身の力を籠めた<左跳び横蹴り>を相手の胸に叩き込むのだ。『くらえっ! これはお母さんの分!』
 助走の勢いと彼の体重分の威力が加算された強烈な蹴り(しかも土足)が、相手の気管支に確かなダメージを与える。「ふっぐっ――」その反発を利用して空中で身体を反転させたエリスが、そのまま連撃の<右横蹴り>を同じ胸部へと放つ!『そしてこれが、ダニエルの分だっ!』
 「ぐはっ……」こちらもクリーンヒットし、堪らず相手は後ろへ吹き飛ばされ、そのままキッチンを出た先の廊下の中間へと倒れ込む! 一時的な呼吸困難というオマケ付きで……。「きっ……さ、ま……」
 ※この技は<跳び横蹴り>のコンビネーション、言うなれば<空中二段スイッチ横蹴り>である(アクション映画でよく見るアレ)。普段の組手ではまず使うことがない大技だが、今回は場所フィールドが狭いキッチンということもあり、横方向への回避を無視した『前後方向への大技』として、彼はこれを選択したのだ。

 シュタッと着地したエリスが、残心ざんしんしながら次の相手の出方をうかがう。願わくばこれで決着してほしかったが、体格差もあるので、なかなかそうもいかなそうだ――苦しそうに胸を押さえた亭主が、咳混じりの掠れた笑い声を上げながら立ち上がる。「いやぁ~、たまげたぁ……見かけによらず、強いんだねぇ~? エリスちゃ~ん?」
 「もう観念してください! こんなことして、いったい何になるんですか!?」エリスが懸命に訴えかける。「ダニエルも奥さんも、二人とも……あなたの大切な家族じゃないんですか!? どうしてあんな酷いことを!」
 「家族は、俺の『所有物』だからだ……したらば所有者が自由に扱って、何が悪いぃ!?」亭主が呼吸を整えながら、絞り出した声でそう叫ぶ。その悪魔のような邪悪な声が、キッチンの隅で身を寄せ合う母子を、いっそう萎縮させるのだ。
 「しょ、所有物……? 本気で言ってるんですか……?」そのあまりにも歪んだ価値観を前に、言葉を失ってしまうエリス。彼は今しかと理解した。ずっとダニエルが抱えていた恐怖と、苦しみと、絶望を――。

 なぜダニエルはときどき、あんなにも辛そうな顔をしていたのか? なぜダニエルは先週、ずっと学校を休んでいたのか? なぜダニエルは今朝、左目に青痣を作っていたのか? なぜダニエルはいつも、遊びの誘いを断るのか? 自信なさげなのだろうか? 憂いを秘めた目をしているのか? それらの疑問とこれまでの経緯がようやく、エリスなかで繋がったのだ。これには温厚なエリスと言えども、目に怒りが宿るのを止められない。
 「何だその物言いたげな顔は!? 違うってのか? だったら聞くが――」ダンッ! 亭主が<右横鉄槌>で自身の右隣の壁を叩く。それは何か言おうとしての行動だったらしいが、これが別の事態を招いてしまう――ちょうど、殴られたそこは『階段下の物置の扉』だったので、反動で跳ね返った扉が、期せずして開いてしまったのだ。
 そして普段ならせいぜい、そこには掃除用具などが収められているだけだったのだが、このときばかりは違う物が隠されていた。「おやっ、こんなところに……ほらな、やっぱたばかってやがった――」亭主が物置から拾い上げたそれは、先ほど彼が欲していた『インペリアル・スタウト』というスタイルのビール、それが入った酒瓶だった。
 「ったく油断も隙もありゃしねぇ――」バンッ! 乱暴に足で扉を閉めた亭主は、そのままビール瓶の栓を「プシュッ!」と開けては瓶口を咥えて、渇望の液体をグビグビとその身に流し込んでいく。彼の喉が一度鳴るごとに、その心を苛立たせていた『アルコール分と水分への渇き』が、一緒くたに満たされていくのだ。
 「っはぁ……生き返ったぁ~」そうして長いひと口目を堪能した彼は、それから幾ばくかの冷静さを取り戻したようにボーッとして、しばらく眼前のエリスを見つめていたのだが、やがて一発の大きなゲップをしたのを皮切りに、酒瓶を持ったままキッチンへと前進してくるのだ――エリスは相手の動きを注視しながらも、ひとまずダニエルたちを背にするように後退する。
 「だったら聞くがな……この家は誰の物だ……? この壁や、床や、天井や家具は、いったい誰の物だ?」亭主がキッチンに入りながら、先ほどは言いそびれたそのセリフを、身振り手振りを使いながら静かに唱えていく。「誰がこいつらの生活費を出してやってる……? こいつらの『くだらん趣味』の金は……? なぁ分かるか? あいつ(ダニエルを指差して)はいったいぜんたい誰のおかげで、あんたと同じ『高額な私立校』に通えてるんだ? えぇ?」
 徐々に激しくなる語気。エリスはこの誘導尋問のような質問には答えないまま、ただ『相手が次にどんなパワープレイを挑んできて、そのときに自分がどう動くべきなのか』ということだけに、思考を巡らせていた。そう、この人のペースに飲まれちゃダメだ……また必ずどこかで、僕を攻撃してくるはずだから――。
 「俺だ……俺なんだ……」自分でした問い掛けに自ら答える亭主。なぜだか彼の両目には、今や涙が滲んでいた。そして悲しみから逃避するように再び酒瓶を口へ運んだ彼は、しばらくゴクゴクと喉を潤してから、より感傷的な態度を強めてこう続ける。「全部ぜんぶ、俺が『したくもない仕事』をして、汗水垂らして稼いできた金で買ったんだ……だから全部、俺の物なんだ……それのどこが間違ってるってんだ……」亭主の目から涙が零れる。
 「一家の大黒柱として、一人で家族を養っているのは、すごく立派だと思います」エリスが最大限の警戒をしながら、この隙に言葉で相手を説得しようと試みる。闘わずに済むこと、それこそが何よりも重要な『武道の心得』だからである。「ですが……だからと言ってそれは! 『家族を自分の持ち物のように扱っていい理由』にはなりません! 『家族に対して狼藉ろうぜきを働いていい理由』にもならないんです!」
 つい説教がましくなってしまう口調。それもそのはず、実際エリスは今、旭信流の教えに反してでも先制攻撃してしまいたいほど、この男に怒っていた。だがその気持ちをグッと堪えてまで彼は、和解する道を模索しようとしていたのだ。結局、暴力だけでは何も解決できないと分かっていたからだ。
 「さぁ謝ってください! そしてもう一度やり直すんです!」再度、説得に打って出るエリス。「反省して、家族への愛を取り戻して、家族からの愛も取り戻すんです! そうしてまた、温かい家庭を作っていくんです!」
 「無理だ……もう遅いんだ……」亭主が三度みたびビール瓶に口を付け、最後の一滴まで飲み干して続ける。「家族は俺を愛してない……尊敬していない……ただのATMくらいにしか思ってないんだ……」左手の指を使って両目の涙を拭う彼。「そんなやつらを、どうやって愛せってんだ……2年前に至ってはあいつ(妻を睨みつけて)、俺が渡した生活費からコッソリ金を抜いて、ヘソクリまで貯めてやがったんだぞ……離婚費用に充てるために、何年も前から大金を盗んでたんだ!」
 「あれはダニエルの大学資金の足しにしようと、少し貯金していただけよ! お金は返したし、何度も謝ったわ!」思わず妻が反論して立ち上がる。夫の勝手な被害妄想を前に、さすがの彼女もこれ以上は我慢の限界だったようだ。泣き崩れてしまいそうな恐怖と闘いながら、これまで抑え込んできた言葉を吐き出していく。「もうたくさんよ……ダニエルが生まれてから、あなたは家のことを全部私に押し付けて……息子のことは構おうともしない……ただ、ときどき頭ごなしに叱りつけるだけ……息子のことも、私のことも!」床に座って、耳を塞ぎながうずくまるダニエルの目にも、涙が零れ落ちる。
 「そのうえ生活費まで出したくないって言うのなら、なぜ私を働かせてくれないの! 私が介護の仕事に戻ろうとしたときも、カフェでパートタイムの仕事を始めたときも、無理やり辞めさせたのはあなたじゃない!」飛び散る涙。漏れ出る不満。「けれど今、その訳がよぉく分かったわ! あなたは私たちを経済的に困窮させることで、否応なくあなたに依存するように仕向けて、そして何もかも支配しようとしてたのよ! あなたは身体的・精神的のみならず、経済的にも私たちを虐待してたんだわ!」
 「よくもそんな……それが養ってもらっているやつの態度か!」夫が憤慨する。「お前こそ、あのカフェの男とデキてたんだろ!」
 妻「あれはただの同僚よ! どこまで目が曇ってるのあなたぁ!」
 亭主「ええい、黙れっ! まだ仕置きが足りないようだなぁ――」彼が右手のビール瓶を振りかざし、それを妻に向かって投げようとしたそのとき、前方のエリスが壁となって立ち塞がり、震えながらこう呟くのだ。
 「ラスト……チャンスです……二人に……謝ってください……」今にも爆発しそうな怒りを堪えて、最終警告をするエリス。それに対し亭主が選んだ行動とは――。
 「エッリスちゃ~ん……分っかんねぇかぁ……」同じように震える亭主が、一度俯いた後にまた顔を上げる。するとそこにあったのは、辛そうに歪んだ笑顔だった。「もう俺の心もこの家庭も、修復不可能なとこまで来てんだよっ――」エリスの頭部に向かって、容赦なく振り下ろされるビール瓶!「もうおっせーんだよぉぉぉぉ!」
 徹底抗戦に出た亭主の暴挙により、あわや彼が撲殺されるかと思われた寸前――彼の<十字受け>がそれを阻む!「パリィーンッ!」瓶が割れて、亭主の手にはナイフと化した破片だけが残る。亭主は迷いなくそれを両手で前に突き出して、今度はエリスのはらわたを引き裂こうとする! 死ねぇぇぇぇぇ迷える子羊ぃぃぃぃぃぃ――。
 しかし本気になったエリスが、こんな見え透いた攻撃でみすみす刺殺されるわけがない! 彼の<諸手下段払い>が亭主の両手から破片を弾き落とす!「バシンッ!」途端に開かれる相手の正中線! その瞬間エリスの脳裏に、以前マルク師匠から言われた『あの言葉』が蘇る。

 『人間にはどうしたって鍛えられない急所があるっつったろ? 眼球、こめかみ、鼻、喉、首の側面、水月、そして金的……ようはそこに痛烈な一撃を加えれば勝てるのさ』

 師匠……これまでたくさんのことを教えてくれて……僕を強くしてくれて……ありがとうございました――。彼の全身全霊を懸けた<右正拳顔面突き>が、亭主の鼻をへし折る!「ベキッ!」吹き出る鼻血、よろめく亭主。
 きっと僕は……今日このときのために、空手を始めたんだと思います……稽古してきたんだと思います――。間髪入れず繰り出される<右前蹴上げ>! それは亭主の股間を直撃し、その全身に痺れるような激痛をもたらす!「ふぐぁっ!」
 最後に左肘を折り畳んだエリスは、肘の先端の骨(尺骨しゃっこつ肘頭ちゅうとう部分)を相手の腹部へと向け、そのまま思いっきり右掌底で押し込むようにして、相手の水月めがけて突き立てていく! その身に刻め! これが旭信流! 夜明けを信じる不屈の空手だ――。
 「ドゥンッ!」必殺の<肘突き>が炸裂し、相手の身にさらなる激痛が襲い掛かる!「かっ……はっ……」とうとう亭主がダウンする。そして張り詰めた空気のなか、拳を握りしめたまま相手を見下ろすエリスが、怒りに震えた声でこう呟くのだ。
 「奇遇ですね……僕ももう、謝ったって許せないところまで……来てました」
 長い長い悪夢の月曜日は、まだ終わらない。

次回『家庭崩壊の最終楽章』……お楽しみに……。

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