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自我とは?実は2種類ある|観察者の自我も消えると悟り・ワンネス

3分で読めて、「自我とは?」完全理解できます~


実は、自我には、2種類あるんですね。

で、2種類の自我、その両方を観察できるようになること。

それが、伝統的に「悟り・ワンネス」と表現されてきた領域です。

こんにちは。名無き仙人です。

1.自我とは何か?わかりやすく

実は、自我には、2種類あります。

①「本能的な自我」としての私

②「観察者」としての私

<①「本能的な自我」としての私とは?>

そもそも、自我とは、外界や他者と自分とを区別して意識する「自分」のことです。

あなたにも「私」という感覚、ありますよね?

「私」が迷った。「私」が決めた。「私」がやった。

ずっと、「私」という感覚がある。

そう、その「私」という感覚自我

でね、じゃあなぜ、「私」という感覚が、あなたの中にあるのか?

あなたの中に、永続的な魂としての、意識主体が存在しているのか?

これ、実は、科学的には、そう考えられてはいません。

現在の認知科学や進化心理学では、「私」という感覚は、進化の過程で脳が作り出した認知モデルだと考えられています。

じゃあ、なぜ、私達ホモサピエンスは「私」という自我を、脳内に作る方向で進化したのか?

理由は、生き残るためです。

例えば──

「あれは敵だ」「あれは食べ物だ」「あれは仲間だ」

そうやって外界を認識するだけでは、不十分でした。

「これは私の身体だ」「私が逃げる」「私が食べる」

そうやって、「自分」と「それ以外」を区別できる個体の方が、生存率が高かった。

だから脳は、「私」という自我を作り出した。

つまり、「」は、魂の証拠というよりも、生存のために脳が作った便利な機能だと考えられているんですね。

こう聞いてみて、どうでしょうか?

これ、衝撃的ですよね。

そう、あなたの中で、あなたが常に感じている「私」という感覚。

それ実は、脳が、高度な認知を行うために、脳が、脳内に作り出している感覚にすぎない・・

「え?そうなの?」

驚きですよね。

まるで、永続的な魂としての『私』がいるように、私達には、感じられる。そう認知されやすい。

だけど、科学的には、その【私】という感覚、実は・・

高度な認知を行うために、脳が作り出している認知の中心点にすぎないのかもしれないんです。

さて、ここで重要なのが、自我にはレベルがあることです。

<②「観察者」としての私>

ほとんどの人が「私」だと思っているのは・・

「怒った私」「悲しい私」「悔しい私」「勝ちたい私」

こうした、本能や感情と一体化した本能的な自我です。

しかし、人間には、もう一つ「私」という感覚が伴う脳機能があります。

それが──

「あ、今、自分は怒っているな」と、自分自身を眺めることができる脳機能。

心理学でいうメタ認知。

スピリチャルでいう、観察者としての私です。

そう、実は・・

2.「私」という自我は、脳内に2人いた

「私」という感覚を伴う脳機能には、実は、2種類あったんですね。

①「本能的な自我」としての私

②「観察者」としての私

あなたは、どちらの脳機能にて、『私』という感覚を、感じていますか?

メタ認知能力が高まるにつれ、人は、【②「観察者」としての私】でも、強く『私』という感覚を感じ始めるんですよね。

さて、本能的な自我が映画の主人公だとしたら・・

観察者は、その映画を客席から見ている観客のような存在です。

もう少し、具体的に話すと・・

心理学【メタ認知】とは、思考や感情を、観察・モニタリングする脳機能ですが・・

このメタ認知能力には、個人差が大きいことが、科学的にわかっていて。

人間の【メタ認知の進化段階】は、ざっくり、次の五つの層で進化していきます。

第1層、メタ認知なし。

第2層、感情メタ認知。感情には気づける。

第3層、思い込みメタ認知。思い込みにも気づける。

第4層、本能的な自我のメタ認知。本能的な自我にすら気づける。

第5層、観察者すらメタ認知される状態。主体の正体を見破る。

でね、メタ認知階層3【思い込みメタ認知】の段階までは、こうなるんですよね。

が、考えている」

が、怒っている」

は、成功したい」

これ、感情や思考と、『私』が、同一の状態ですよね。

つまり、階層3までは、『私』の位置が、本能的な自我側にあるんですね。

一方で、これは、どうでしょう?

「思考が浮かんでいるのを、は、見ている」

「怒りの感情を、は、見ている」

「成功したい本能衝動を、は、見ている」

この場合、思考や感情と、『私』が、別ですよね。

私は別に、考えていないし、怒っていないし「成功したい」とも思っていない。

思考してるのも、怒ってるのも、成功したいのも、それらは全部、本能的な自我によるもの。

私は、ただ、それらを観察しているだけ。

そう、これが、観察者意識であり、メタ認知階層4『本能的な自我メタ認知』の段階です。

思考や感情との脱同一化。本能との脱同一化が、起きる段階。

だから、自動思考にも、感情にも、本能衝動にも、振り回されにくい。

「私は、思考でも感情でもない。私は、ただ、それらを見ている観察者だ。」

こういう話、スピリチュアルでは、たまに見聞きしますが・・

これ、メタ認知階層4まで進み、『私』の位置が、メタ認知側、観察者側に、移行した状態なんですよね。

さて、ここまで聞いてみて、どうでしょうか?

あなたは、たまに・・

怒っているのに、なぜか冷静な自分も同時にいる』とか・・

「あ、今、明日の仕事について考えているな」と、自動思考に気づいた』とか・・

そういう経験、ありませんか?

ここまで離脱せずに読んでくださっているなら、あるハズですが、どうでしょうか?

そう、つまり・・

あなたも、メタ認知能力の高まりによって、『私』の位置が、観察者側に、ズレ始めている・・

そして、さらに明確に、ズレていく段階が、メタ認知階層4の段階なわけですね。

では、実は、ここからが本題。

東洋哲学や非二元の教えでは、ここからさらに、もう一歩進むんですね。

3.観察者の自我を消すと悟りワンネス?

さて、こう聞くと、まるで悟りを開いた人かのように感じられますよね。

「私は、思考でも感情でもない。私は、ただ、それらを見ている観察者だ。」

でも、前述のとおり・・

観察者の『私』も、その個体の脳内で生成されている自我の1種なんですよね。

ただ、本能的な自我ではない。

その意味では、メタ認知が高度に発達しているわけですが・・

でも、やっぱり、1個体の脳内に存在している『私』という、外界との区別をする自我意識。

だからこそ、こう問うてみると・・

「あれ?ちょっと待て。観察者の『私』って、なに?」

観察者すら、観察され始める。

これが、メタ認知を、メタ認知する【メタメタ認知】。

メタ認知5階層のレベル5。伝統的に「悟り」と表現されてきた領域です。

というのも、観察者の『私』すら、観察され始めると・・

「観察している私」の実態が、どこにも見つからなくなるんですね。

思考はある。感情もある。

映像は見えるし、音も聞こえる。

そして、それらを認識している働きも、確かにある。

だけど──

「認識している主体」が、どこにも見当たらない。

「私が見ている」と思っていたけれど・・

よく探してみると、「私」という実体は見つからない。

固定された、永続的な意識主体としての「私」が、見つからない。

あるのは、ただ、認識という現象だけ。

だから東洋哲学では、「観察者ですら幻想だった」と言われるわけですね。

科学的にいえば「観察者すら、脳が作り出している認知機能だった」と言えるでしょうか。

ここが非常に誤解されやすいのですが・・

悟ると、思考や感情が消えるわけでもありません。

もちろん、身体が消えるわけでもないし・・

生活が変わるわけでもありません。

消えるのは・・

「私が考えている」

「私が怒っている」

「私が観察している」

そう『私』という、主体感なんですね。

『私』という主体だけが、消える。

だから、誰が見ているのか?曖昧なまま、映像だけが流れ始めたりする。

音も、めちゃくちゃクリアに聞こえる。

でも、そこに『私』という、主体感がない。

「私が見ている。聞いている」と通常は感じられますが・・

誰が見ているのか?聞いているのか?曖昧な状態で、脳内で認知され始めるんですよね。

いや、これ、めちゃくちゃ不思議で、最初は私も、衝撃を受けたのですが・・

まあ、脳内での認知の仕方が、変わるわけですよね。

すると、「私が世界を見ている」という構図そのものが崩れます。

世界と私。

主体と客体。

見る者と見られるもの。

この二つに分かれていた世界が、一つだったと気づく。

そう、思い出してください。

自我とは、外界と自分を区別する意識。

じゃあ、自我が消えたら?

外界と自分の区別がなくなる。

だから、この状態は、非二元(ノンデュアリティ)

あるいは、ワンネス

そう表現されてきました。

もちろん、これは宗教的な教義ではありません。

認知のあり方を説明する、一つの表現です。

そもそも、悟りって、神秘ではなく、単なる、脳内の認知変容にすぎないですから。

科学的に「ワンネスが証明された」という話ではありませんが・・

少なくとも認知科学でも、「自己とは脳が構成するモデルである」という考え方は広く研究されています。

その意味では、メタ認知能力を高めていくことで・・

本能的な自我を客観視する。

さらに、観察者という自我まで客観視する。

そうやって「私」という認知モデルが二重、三重に見破られていくプロセスは、心理学・認知科学・東洋哲学が、それぞれ異なる言葉で触れている非常に興味深いテーマなんですね。

まとめ

最後に、この記事の結論です。

自我には、2種類ある。

① 本能的な自我

② 観察者としての自我

そして、多くの心理学は②までを目指します。

だから、心理学では、「感情を観察する」これメタ認知階層2ですが・・

踏み込んでも「思い込みに気づく」これメタ認知階層3ですが・・

基本的には、踏み込んでも、メタ認知階層3【思い込みメタ認知】までしか、扱われない。

ごく稀に、メタ認知階層4【本能的な自我メタ認知】まで、言及されることもありますが・・

メタメタ認知までは、心理学では、扱われない。

一方、東洋哲学や非二元では、②の観察者という自我すら観察され、主体そのものが消えていく領域を「悟り」「ワンネス」と表現してきました。

さて、まずは、メタ認知にて、本能的な自我に振り回されていることに気づくこと。

そして、その自我を見ている観察者に気づくこと。

さらに、その観察者とは何者なのかを問い続けること。

このプロセスそのものが、「私とは何か?」という、人類が何千年も探究してきたテーマにつながっているのかもしれません。

なお、メタ認知や、メタ認知5階層については、以下の記事が詳しいです。

また、関連記事として、以下もあります。

さて、この記事は、名無き仙人(ななきせんにん)のnoteの記事でした。

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