【成瀬 日本語・英語・翻訳講座】日本語編(34)日本語の語彙構造(2)和語は翻訳がほとんど不可能
(↑のつづき)
このように日本人の心情表現に優れた和語の世界を、他の言語に翻訳することは容易ではない。
多くの優れた翻訳者が苦労して翻訳をしているがなかなかに難しい。
アメリカ人で日本文学者であるリービ秀雄は、万葉集について次のような試みを行っている。
あをによし 奈良のみやこは 咲く花の
にほふがごとく いまさかりなり
(小野老/万葉集)
The capital at Nara
beautiful in green earth
flourishes now
like the luster
of the flowers in bloom.
☆☆☆
ただ、これは厳密な意味での「翻訳」とは言い難い。
日本語と英語とでは世界認識そのものが違う。
どちらかの世界観を変えてしまえば別だが、内容をたんに移し変えることは原理的に無理である。
リービの試みは翻訳ではなく限りなく創作に近いものだ。
創作だから悪いといっているのではない。
創作であろうとなかろうと優れたものであればそれでよい。
リービの作品はその意味で優れたものである。
☆☆☆
「和語は翻訳がほとんど不可能」ということについて、リービと同じくアメリカ人で日本文学者であるマーク・ピーターセンは、次のように述べている。
私は、特別に俵万智のファンではないが、『サラダ記念日』から、もう一つの簡単な例として、
「おまえオレに言いたいことがあるだろう」
決めつけられてそんな気がする
という一首を考えたい。
その「おまえ」と「オレ」をyouとmeにしてしまい、その上、英語で真似できない「決めつけられて」という表現の簡潔さもなくしてしまったら、その歌の魅力の何が残るだろう。
はたして、これが俵万智の歌だと、人に紹介する意味があるのだろうか。
私は、日本語を英訳するのが大変に苦手である。仕事としても、翻訳ほど精神的に疲れる仕事はあまりしたことがない。原文が好きなものであればあるほど、まず絶望する。もっとも通じてほしいものが、英語になっただけで消えてしまうのである。
日本語の小説は、言葉そのものだけではなく、それ以外にストーリーというものも当然あるから、それを訳して人に紹介する価値は十分にあるが、その場合でも、言葉自体の魅力はある程度諦めるしかない。
小説に比べたら、歌は、さらにはるか上に浮かんでいて、手が届かない。
こんな私には、言葉そのものが魅力という歌を「訳」そうという気にはとてもなれない。
ためしに、先に挙げた歌を英訳してみても、でき上がったものは無残なものである。
それは、ちょうど日本の子供の可愛らしさを外国人に解ってもらおうと、可愛い女の子のマネキンを作って展示したような無残さである。
「ちょうど日本の子供の可愛らしさを外国人に解ってもらおうと、可愛い女の子のマネキンを作って展示したような無残さ」という比喩の巧みさには感服する。
(つづきは↓)
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