ソートリーダーシップの実践事例【Vol.9】 「世界第1位の半導体企業NEC」に導いたソートとは?
ビジネスの世界では古今東西、様々な創造的取り組みが為されてきました。後から振り返ると、「ソートリーダーシップ(Thought Leadership)」の教科書的な事例、ケーススタディといえるものも少なくありません。様々な事例をビジネスの潮流や市場の拡大などの実績から俯瞰的に見つめなおし、学ぶべきところを見つけ出していきます。
日本電気を「世界のNEC」に導いた、C&Cというソート
国際社会経済研究所(IISE)の芥川愛子です。今回は「NEC中興の祖」と呼ばれた、日本電気(NEC)の元社長である小林宏治が、日本電気を「世界のNEC」に飛躍させた「C&C(Computers & Communications)」のソートリーダーシップに迫ります。
ソートの種が事業の最高責任者によって10年以上の歳月をかけて研ぎ澄まされ、迅速に経営変革を実行し、NECが知識産業のパイオニア企業に成長。ソートはC&Cとして開花し、実績を伴い圧倒的な説得力をもって歴代の社長と社員に受け継がれていきました。本記事ではその詳細をお伝えします。
「中興の祖」小林宏治、その人
小林宏治(1907年誕~1996年没)は山梨県大月市に生まれ、東京帝国大学工学部電気工学科を卒業。1929年にNECに入社しました。戦前には無装荷ケーブルの開発を担当し、戦後は玉川向製造所長、取締役、副社長などを歴任のち、第7代NEC社長(1964~1976)に就任。技術や生産分野に精通し、かつ海外市場の開拓や外国企業との提携などを通じて広い国際的視野も持ち合わせていました。
社長就任中には「通信、コンピュータ、半導体」を事業の三本柱として位置付け、各事業を業界トップクラスに育てようと尽力しました。「昭和四十年(1965年)不況」「ニクソン・ショック」「第一次石油危機」「狂乱インフレ」など、多くの危機や混乱を乗り越え、1976年には掲げた目標をほぼ達成。田中忠雄に社長の座を譲り、自らは会長に就任します。1988年には名誉会長に就任し、晩年は文明と人間、技術と社会の調和を訴えました。
「NECを世界第一級の会社に」するため、経営を刷新
1964年11月30日、1947年から17年間社長を務めた渡辺斌衡が退任して取締役会長となり、副社長だった小林宏治が新社長に就任。小林は記者会見で次のように抱負を語りました。
渡辺前社長の時代において、自立した日本企業としての力を備えるまでに発展を遂げた。私の社長としての任務と使命は、いまわが国が迎えつつある開放経済体制という環境条件のもとで、積極的に国際場裡に進出し、日本電気を世界第一級の企業に育て上げることにあると確信し、かつ決意している。
そして1965年の年頭挨拶では、「世界第一級の会社に」「世界第一級の製品を」をNECのスローガンとし、経営刷新プログラムを具体的に示しました。それまでは社長に集中していた権限を「常務会」のメンバーに分担。この「点から面へ」の経営トップ構造の改革、加えて技術と製造と営業が三位一体となった事業部制の徹底や、すべての職場で欠点をなくすことと社員の参加意識を高める「ZD(Zero Defects)運動の展開」を進めます。
これらの改革がのちに地方の分身会社やグループ会社に浸透し、品質が高く市場ニーズに合う商品を次々と生み出し、成長を牽引していきました。
C&C宣言の10年前、「知識産業宣言」の1年前
1960年代後半の日本では、高度成長による所得水準の上昇と、農村部から都市部への人口流出に伴う世帯数の増加により消費財の需要が高度化。それまでの「三種の神器(白黒テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機)」から「3C(クーラー、カラーテレビ、カー)」を持つことが庶民の目標と移り変わっていました。
一方、同時期のアメリカではコンピュータとコントロール・システムの結合によって、人間の労働力がオートメーションに置き換えられていく「サイバネーション革命」がアメリカの重要問題の一つとされていました。危機感を抱いた経済学者がジョンソン大統領に賢明な政策の立案を迫ったといいます。
当時の世界にとって、コンピュータはまさに破壊的技術。人間社会のすべての領域で大きな変化をもたらし、従来の常識や習慣をまったく意味のないものにしてしまうとされていました。
このような時代を背景に生まれつつあったのが「知識産業」でした。経済学者のフリッツ・マッハルプ(Fritz Machlup)によれば、知識産業とは「知識を生み出し、育て、流通する一連の分野における経済活動」と定義され、教育、研究開発、出版印刷、通信、情報機械、情報サービス、放送などが含まれていました。この知識産業においてはソフトウェア(利用技術)が最大の売り物となると考えられていました。
これに着目した小林は、1966年4月の電気4学会合同大会において、『日本の知識産業と電子工業の立場』という講演を行いました。通信、コンピュータなどさまざまな製品からなる電子工業を、「知識」または「情報」という切り口から捉えた講演です。のちにC&Cと定式化されたNECの企業イメージの探索が、この時期既に始まっていました。
当時、小林はコンピュータの発展、ソフトウェアの重視、データ通信の登場などにより、新しい事業イメージを簡潔に言い表すことが必要だと感じていたといいます。その時に出会ったマッハルプの著書『アメリカにおける知識の生産と分配』は、「知識、情報のうち経済価値の対象となるものを取り出し、これを産業として見るという考え方は、私が長いこと整理しかねていた種々の問題を、まとまりよく整理する手立てを提供してくれる」ものであったと語っています。
日本の誇るべき資源「ブレイン・パワー」。NECが知識産業のパイオニア
思考を深めた小林は関西経済連合会発行の雑誌『経済人』の1968年1月号に、こう寄せています。
情報革命の推進者は頭脳、ブレイン・パワーである。日本は天然の資源こそ貧困であるが、永年の間に整備されてきた教育体制のたまものとして、高度に開発され、しかも他に類をみない勤勉なブレイン・パワーを豊富に持っている。資本自由化の彼方に障壁のない国際競争が繰り広げられる経済社会にあって(中略)、コンピュータに支援されたブレイン・パワーをフルに生かした生き方以外に日本の生きるすべはないのである。
そして、NECこそ、日本で最初の知識産業であることを宣言しています。とくにソフトウェアが、知識産業時代における最大の商品であることに早くから着眼しました。
現代の技術、産業というものは、形をもつ物的なものから、無形なものへとウエートが移りつつある。その無形なもの、あるいはサービスと呼ばれるものの本質は機能であり、効用であり、しかもその中心は、一般的ないい方をすれば知識そのものなのである。
小林は『未来への挑戦者:知識産業に賭ける5人の男』(片方善治著、ダイヤモンド社、1968年)の中で、著者の片方氏から次のように評価されています。
かれ(小林)は目を輝かせながら、NECは昭和の初期までは「電話機・交換機を作っている会社」であったが、昭和30年代には「エレクトロニクスの総合メーカー」となった。だが昭和40年代は、NECが知識産業という新しい産業ジャンルのパイオニアとして活躍すべき時代であると喝破する。
小林はこの知識産業への挑戦について、数多の「言語化」を行います。1964年秋から1968年春にかけて新聞、雑誌、講演会などで小林が発表した約20本を取りまとめた『知識産業の未来を拓くコンピュータ時代への挑戦』(小林宏治著、実業之日本社、1968年)は、まさにソートの中身が形作られていく過程の記録と言えるでしょう。
また前述の『未来への挑戦者』は、小林へ行われた取材内容をまとめたもの。要点がコンパクトにまとまっています。このほかに、『七〇年代の経営課題:人間・技術・経営』(小林宏治著、ダイヤモンド社、1971年)や『クオリティ指向の経営』(小林宏治著、ダイヤモンド社、1976年)では、知識産業に挑む経営そのものについて記されています。これらの書籍は国立国会図書館でご覧になれます。
「世界一の半導体企業NEC」に導いた、1977年のC&C宣言と戦略実行
1977年10月10日、NECの会長に就任していた小林は米アトランタで開催されたインテルコム77で、日本電気を「世界のNEC」に飛躍させた画期的コンセプト、C&Cの先駆となる基調講演を行いました。当時、ほとんどの先進国では電話や放送が日常生活の一部で、既に情報化時代に突入していました。
小林は「通信技術とコンピュータ技術は融合し始めており、コンピュータ通信という新しい用語が普及しつつある」と述べました。一方で発展途上国では近代的な電気通信の恩恵を享受できていないことを指摘し、「地球の限られた資源を共有し、世界平和を維持するためには、あらゆる通信手段が不可欠である」と言及します。
そして通信に対する社会的ニーズについて、「私のイメージは、21世紀の初めには、地球上のいつでもどこでも、誰とでも話したり会ったりできていること」とし、この実現のためにはすべての技術、通信、コンピュータ、テレビを統合されるべきと、技術実装の方向感を示しました。
この講演では明示的にNECの事業ドメインがC&Cになると言ったわけではありません。一般論として、通信とコンピュータの融合について述べたのみです。しかしこの基調講演を契機にNECは、C&Cを新たな事業ドメインとして捉えることになります。
小林が1986年11月より日本経済新聞に連載した『私の履歴書』によると、意外にも「当初の世間の反応ははかばかしくなかった。当時、通信とコンピュータは異なる業種と考えられていた」とあります。それでも、続けて「しかし私には自信があった。概念の体系化と社内体制づくりを急ぐことにした」と振り返っています。
アトランタから帰国後の1977年11月1日、小林は社内の経営会議ではじめてC&C社会の到来と、NECの戦略について構想を述べます。1965年に社業の発展方向として「4C」すなわち「Communication、Computer、Control、Component」、またはこれにConsumerを加えた「5C」の分野が示されていましたが、これら4Cあるいは5Cといった幅広い戦略が、この時期に「C&C」という概念に統合されはじめたのです。主要役員や事業部長との懇談会を繰り返しながら、C&C構想が形作られていきました。
翌1978年にはC&C戦略をチャートで示し、C&C委員会を発足させてC&C戦略と体制を強化していきます。下図の「C&Cの発展」チャートはC&Cの概念をコンピュータ、通信、半導体の三本線にして示したもの。分かりやすいと好評で、米国下院歳入委員会貿易小委員会の議会報告書にも引用されました。このC&C戦略の実行は田中忠雄社長から1980年6月30日に関本忠弘社長に引き継がれ、組織改正によってC&C体制がさらに強化されます。

(出所:『日本電気株式会社百年史』日本電気社史編纂室、筆者撮影)
一方の小林は、会長として集中的にC&C戦略の広報を推進します。インテルコム77ののち、1978年にアメリカ、1979年にスイス、シンガポール、1980年代も日本と世界各地を回り、NECの新しい事業ドメインを世界に訴える「C&C行脚」を行います。「日本電気といえばC&C」「C&Cといえば日本電気」という強烈なイメージを浸透させたのは、強いリーダーシップと、このC&C行脚によるものです。
そして1982年には、ハーバードビジネススクールのマイケル・E・ポーター教授によってNECのC&C戦略がケーススタディの教材として取り上げられました。「通信機、コンピュータなど相互に関連がある事業を上手に組み合わせて、相乗効果を引き出した」。これを機に、NECの経営戦略と実績が世界の注目を浴びるようになりました。
こうした大胆な戦略と実行によって、1985年にはNECの半導体事業は生産高約20億ドル、シェア8.2%を記録して世界第1位となり、1991年(平成3年)までその地位を維持しました。『私の履歴書』では、「社長就任当時1964年の日本電気の売上高は700億円、1986年は2兆1000億円、この22年間で30倍に成長しています。世界売上高ランキングでは、通信機でも世界第4位、コンピュータは第5位。高度情報社会の根幹と言える三つの事業をバランスよく持っている企業は、世界広しといえども日本電気以外にないと思う」と記しています。
小林はC&Cのソートリーダーとして、次世代の社会に浸透するように書籍の執筆を重ねます。『C&Cは日本の知恵:21世紀への道を拓く』(小林宏治著、サイマル出版会、1980年)、『C&Cとソフトウェア:人間を軸にした発展』(小林宏治著、サイマル出版会、1982年)、『C&Cモダン・コミュニケーション:情報メディアの世界的発展』(小林宏治著、サイマル出版会、1985年)、『構想と決断:NECとともに』(小林宏治著、ダイヤモンド社、1989年)、『C&Cは人間性を目指す:21世紀グランド・コンセプトの創造と展開』(小林宏治著、ダイヤモンド社、1992年)など、これらの書籍も国立国会図書館でご覧になれます。
ソートリーダーシップ成功の背景……ソートに説得力をもたらした、小林の働きかけと人脈づくり
このような小林の類まれなる構想力と実行力の源泉を探っていきましょう。
小林は『私の履歴書』で、「体当たりで人脈をつくり、日本電気の知名度を上げていく。それが私の流儀である」と語っています。「体当たりで」という表現を追っていくと、自らの信じる道を突き進むために勇猛果敢に「働きかけて」挑戦し、成功体験を積み重ねてソートを実現してきたことと読み解けます。
小林は青年のころから体当たりで人脈を広げてきたようです。旧制松本高校では学費を調達するために大阪へ野村徳七(野村證券の創業者)に会いに行き、返還免除の奨学金を受け取ります。
NECに入社後は、逓信省で無装荷ケーブル搬送通信装置を研究していた松前重義(のちに科学技術庁設立に貢献、東海大学を設立)と、篠原登(のちに初代科学技術庁初代事務次官に就任)に協力し、1939年には東京と奉天(現在の中華人民共和国瀋陽市)を結ぶ総延長3000キロの電話回線を開通させました。松前重義は恩師内村鑑三に学んだ人生の尊い生き方を継承したい、デンマークの自由に発言できる高等教育制度を日本に持ち込みたいと考え、私塾「望星学塾」を開いていました。そこに篠原と、その大学同期であった小林を含めて十数名が集まり、厳しい指導を受けながら学びます。「松前さんには随分鍛えられた」と小林は当時を振り返っています。
小林が常務取締役だった1956年頃は、マイクロ波通信技術で世界に進出します。台湾と韓国では現地資本との合弁会社を設立。インドの国立物理学研究所に研究用のマイクロ波装置を寄贈したことがきっかけで、1959年にインドの郵政省から同軸搬送装置を大量受注します。インドから中波放送装置の技術供与を切望された際、「NECも海外から技術導入して成長した。後発の国々が発展してわれわれと競争するようになることは、むしろ歓迎すべきである」と考え、当時の渡辺社長に技術供与に踏み切ることを進言します。以降インドとNECは良好な関係を維持しながら事業を発展していきます。
国内では1963年、NECは国際電信電話会社(KDD)に高感度受信装置を納入し、11月23日に実施された日米間初のテレビ中継実験の成功に寄与します。副社長だった小林は1年後に東京オリンピック開催を控え、静止衛星を利用してオリンピックを全世界に放送中継できないかと考え、関係方面に当たりました。しかし当初、反応は芳しくなかったといいます。小林は渡辺社長に「NECが独力でやるので許可してほしいと関係方面にお願いしてください」と頼み、郵政電波研究所の鹿島支所にアンテナと送信機を納入。1964年10月に東京オリンピックの国際テレビ中継を実現させました。

(出所:「NECの歩み」)
1972年9月、当時の田中角栄首相は日中国交正常化の共同声明を北京で発表しました。この2か月前の7月、小林は郵政省に北京での日中復交の公式行事を衛星中継することを提案します。郵政省は準備期間の少なさから消極的で、小林はNECの独力で完遂することを決意します。
社内の関係者や中国側との調整を経て、9月25日、北京空港で空港に降り立つ田中角栄首相、握手で迎える周恩来首相、友好条約の調印、晩餐会と、歴史に残る一コマを日本中のお茶の間にテレビ中継しました。この成功で衛星通信の事業活動に一段と弾みがつき、国際衛星通信市場においてNECの地球局が世界シェアの50%を獲得し第1位になりました。
こうした数々の体当たりの挑戦を通じて得た信頼が、小林の人脈を深めていったのは言うまでもありません。1937年に初めて海外出張してから1986年までの間に200回近く海を渡り、毎年書くクリスマスカードの枚数は2000通を超えるほどたったそうです。「懐かしい顔、声を想い浮かべて書くのは楽しいことだ」と語っています。
まとめ
いかがでしたでしょうか。NECを世界第1位の半導体企業に導いたのは、NECを世界第一級の企業に育て上げるという社長の「思い」でした。その思いを実現する経営革新の実行力とエンパワーメントをもって、NECを「知識産業のパイオニア」に導くことを決意するとともに、日本国の強みは充実した教育と勤勉さゆえの「ブレイン・パワー」であると、断言します。そして自社が蓄積してきた経験と実績を直視し、10年かけて構想と戦略実行の両輪で研ぎ澄まし、経営を「C&C」に方向付けます。組織体制、コーポレートアイデンティティも「C&C」に統一し、大規模な広報戦略と合わせて10年、20年と次世代に受け継がれる仕組みをつくりました。
ここからは私の推察になりますが、この小林の、極めて粘り強く、そして勇猛果敢な行動の原動力となった要素のひとつは、かつての恩人に対する「感謝」の気持ちだったのではないでしょうか。1968年8月、小林は先述の著書『知識産業の未来を拓くコンピュータ時代への挑戦』の序章で、次の2つのエピソードを紹介しています。
技術革新は、ひとたび刺激を受けて動き出すと、これを都合によって止めるというようなことは難しい。三十数年前、(中略)、無装荷ケーブル方式の提唱当時、企業として有利な装荷線輪の需要の激減の危険をおかしてまで、その研究開発に積極的に協力を申し出た当時の日本電気専務取締役、故志田文雄氏の卓見には、今から考えても頭の下がる思いがする。
われわれはまず、このマイクロ波を民間の私設通信用にすすめることを考えた。(中略)わが社の費用で1ルートのマイクロ波回線を設備させてもらったのである。昭和二十七年のことであり、会社は財政困難な状態からまだ立ち直っていなかった時であるが、今から考えても、当時の社長、故渡辺斌衡氏は、よく思い切って金を出してくれたものである。
先代への感謝を、次世代につなげる。これもソートリーダーシップ成功の秘訣ではないでしょうか。

文:IISEソートリーダーシップHub 芥川愛子
芥川 愛子
大手通信事業者等を経てNECに入社後、IoT、量子コンピュータ等のマーケットインテリジェンスに従事し戦略立案に貢献。内閣府において、第6期科学技術・イノベーション基本計画の取りまとめに参画。現在はIISEでスマートシティと行政デジタル化のソートリーダーシップ活動を牽引。
引用・参考文献
『日本電気最近十年史』(日本電気 日本電気社史編纂室、1980年)
『日本電気株式会社百年史』(日本電気株式会社、日本電気社史編纂室、2001年)
『NECの100年』(日本電気株式会社、日本経営史研究所、2000年)
『知識産業の未来を拓くコンピュータ時代への挑戦』(小林宏治著、実業之日本社、1968年)
『未来への挑戦者:知識産業に賭ける5人の男』(片方善治著、ダイヤモンド社、1968年)
『小林宏治私の履歴書 : 山の中から世界の広場へ』(小林宏治著、日本経済新聞社、1988年)
『松前重義 わが人生』(松前重義著、東海大学出版会、1980年)
『科学技術庁十年史』(科学技術庁、科学技術庁創立十周年記念行事協賛会、1966年)
