ジャン=リュック・ゴダール監督 『メイド・イン・USA』 : アメリカ的な大衆消費文化への愛憎
映画評:ジャン=リュック・ゴダール監督『メイド・イン・USA』(1966年/フランス映画)
映画評論家の山田宏一によると、本作『メイド・イン・USA』は、別の長編作品『彼女について私が知っている二、三の事柄』と掛け持ちで、同時進行で撮られたものだという。スタッフも同じなのだそうだ。
『 一九六六年、ジャン=リュック・ゴダールは二本の長編映画をかけもちで同時に撮ることになる。七月から八月にかけて四週間で(とゴダールは語っているが、実際には二週間足らずで)、まず『メイド・イン・USA』を、次いで、その間に、八月八日、『彼女について私が知っている二、三の事柄』の撮影に入り、さらに四週間かけて、九月八日に撮り上げる。ダブって撮影したのは実質的に十二日間、同じスタッフで二本の映画を午前と午後に分けて撮ったという。「この二本の映画は、まさに同時につくられたのです」(「ゴダール/映画史Ⅱ」、奥村昭夫訳、筑摩書房)。』
(山田宏一『ゴダール、我がアンナ・カリーナ』P342)
いくら「低予算・早撮り」のゴダールだとはいえ、どうしてこんな無茶なことをやったのかというと、次のような事情であったそうだ。
『 そもそもは、『彼女について私が知っている二、三の事柄』を最初に企画していたところへ『勝手にしやがれ」(一九五九)以来親密な付き合いをしていたプロデューサーのジョルジュ・ド・ボールガールから電話があり、ジャック・リヴェット監督、アンナ・カリーナ主演の『修道女』(一九六六)が公序良俗に反するとの理由で公開禁止になり(情報大臣による検閲が入り、公開は一九六七年になる)、「月末の支払いのための金に困って」いるので、「三週間以内に映画の撮影を始めてくれないかな。いや、どんな映画でもいいんだ。そうしてくれれば、その映画のための金を借りることができるし‥‥‥」ということで、ゴダールは「じゃあ、少し時間をください。一日か‥‥‥いや二時間でいい。その間に街角の本屋で探偵小説を一冊見つけてきますから。そしてその小説を脚色し、映画に撮ることにしましょう」ということになった。「この映画はこんなふうにして始められたのです」。
コダールにたのめば、とにかく、なんとか映画を、それも安く速くつくってもらえるという信頼がプロデューサー側にはあったのだろう。ゴダールのほうも、いつだって、思いつきで、どんな映画だってつくれるんだという自信があったのだろう。
まさに「間に合わせ」の名匠、早振りの達人、マキノ正博/雅弘もかくやといったところ。その「早い安い面白い第一主義」はどんなふうに実践されたか。
ゴダールが「街角の本屋」で映画のネタとして見つけた一冊の「探偵小説」は、リチャード・スタークの「悪党パーカー/死者の遺産」であった。いつもながら、ゴダールはこのハードボイルド・ミステリーを、「映画化」するというよりは、ベースにして、出発点にして一一自分の問題一一政治的な関心事ーを映画にすることになる。ゴダールとしては「小説のあらすじにはきわめて忠実なつもり」だったが、プロデューサーは「かなり多くの変更が加えられているのだから、これでは作家も自分の小説を脚色したものとは思わないだろうと考え、原作料を払おうとは」しなかった。』
(前同P342〜343)
山田宏一の同書については以前にレビューを書いており、そこに詳しく書いたとおりで、山田は個人的に、ゴタールに良い感情を持っていない。そのため、自制が働いているとはいえ、その書き方に悪意がこもっている点には、注意が必要だろう。
だが、事情的にはおおむねこの通りであろうし、ゴダールに『いつだって、思いつきで、どんな映画だってつくれるんだという自信があった』というのも、おおむね事実なのではないだろうか。
言い換えれば、問題意識なら「常にあった」ということである。
ゴダールの「低予算・早撮り」という特性を見ていると、「しかたなく、低予算・早撮りをしている」というのではなく、「映画は、予算と時間をかければ良いものが撮れる、というものではない」という信念があって、その上で、自分が本当に撮りたいもの(ネタ=問題意識)では「予算が集まらないから、時間もかけられない」のだという、否定しがたい事実の受け入れがあったように感じられる。
つまり、「予算と時間」を頭から否定するわけではないけれども、それを手に入れるために「撮りたくもない作品を撮る」というようなことはしたくないし、そんな映画は、少なくとも自分自身にとっては「つまらない」と、そういうことだったのではないだろうか。
また、そうした点で、元は『カイエ・デュ・シネマ』誌以来の「ヌーヴェルヴァーグ」盟友であったフランソワ・トリュフォーと、袂を分つことにもなったのである。
例えば、ゴダール作品では例外的に、誰もが「すごい傑作」だと「見た目」にもわかりやすい『気狂いピエロ』や『軽蔑』などは、ゴダールが多少なりとも無理をして、「大衆ウケ」を意識して撮った作品のようである。
言い換えれば、これらの「傑作」をゴダールが「好きで撮った」のであれば、その前後で「難解で一般ウケしない作品」ばかりを撮るなんてことは、しなかったなずなのだ。
美しくてロマンティックな「一般ウケする作品」を、撮ろうと思えば撮れたのに、必要に迫られないかぎり、ゴダールはそうした作品を撮ろうとはしなかった、ということである。
実際、『軽蔑』の中では、「一般ウケ」ばかりを狙って、監督に無理難題を強制するアメリカ人(ハリウッドの)プロデューサーを、いかにも偉ぶって憎たらしい奴として描いており、最後には、愛すべき女優とともに事故死させている。
これなどは「ハリウッド的なるものが、映画をダメにする」という含意もあったのではないだろうか。
ともあれ、このような観点からすれば、本作『メイド・イン・USA』は、その「ハリウッド映画」の(フィルム・ノワールの)パロディ的な作品であるという、わかりやすく際立った特徴において、興味深い作品だと言えるだろう。

ゴダール作品の中では、作品の「質」としては必ずしも高くはない(荒い)とはいえ、それでもその「狙い・意図」には非常に興味深いものがあって、単に「なにがなんだかよくわからない作品。ただし、色づかいは素晴らしいんだがなあ」で済ませて良い作品ではないと、そう考えるべきなのだ。
そもそも、そんな評価で済ませられるのなら、ゴダールの映画を見る意味が無い。なぜなら、ゴダールのたいがいの作品は、そういう「なにがなんだか、よくわからない作品」だからである。
しかしながら、では、ゴダールが本作において「ハリウッド映画のパロディー」を撮ることで「アメリカ的な大衆文化を批判した」のかと言えば、そうした理解はいささか早計であろう。
なぜならば、ゴダールが本作で「パロディ化」あるいは「引用」、山田宏一風にいえば「目くばせ」している、数多くの「ハリウッド映画」だの「アメリカのミステリー小説」だのといったものを、ゴダールは決して、嫌ってはいないからである。
いや、むしろそれが好きで、その影響を強く受けた人であるというのは、周知の事実なのだ。


映画の歴史を変えたとまで評される、ゴダールのデビュー作『勝手にしやがれ』だって、アメリカン・ハードボイルド、あるいは、アメリカの「フィルムノワール」の影響を受けた作品なのだし、その主人公にしてからが、ハードボイルドのタフな私立探偵役を好演した俳優ハンフリー・ボガード影響を受けた若者であり、そんな彼の自滅を描いたのが『勝手にしやがれ』なのだ。
つまり、ゴダールには、最初から少なからず「アメリカ大衆消費文化」に対する「アンビヴァレンツ(二律背反)」な「好悪」両面の感情があったと見て、まず間違いない。
それらが「好き」だというのは間違いないのだが、しかし、それらが「もたらすもの」については、あまり良い感情を持っていないというか、むしろ憎悪していると、そう言い換えてもいい。
だから、ゴダールの作品は、「ハリウッド映画」の影響を受け、またゴダールはそれへの「愛」を語りつつも、しかし、これまではその影響を、本作ほど露骨に、そのまま全面展開することはなかったと、そういうことなのではないか。
まして、すでに作った「私立探偵もののSF」作品である『アルファヴィル』の後に「またもや」である。
だとすれば、本作『メイド・イン・USA』で、あえて「アメリカ的な大衆消費文化=ハリウッド的なもの(あるいは、ディズニー的なもの)」を「全面展開」させた上で、その作品のタイトルを『メイド・イン・USA』とした「皮肉」に、ゴダールが本作に込めた「感情」を読み取れるのではないだろうか。




つまり、普通に「何を撮っても良い」という状態であったなら、ゴダールは本作のような作品を撮ることはなかったのではないか。『アルファヴィル』で満足していたのではないか、ということである。
しかし、本作の場合は「安くて、早くて、そこそこ一般ウケする作品」を、恩義あるプロデューサーのために、無理をしてでも撮らなければならなかった。
そこでどうしたかと言えば、開き直ったような「ハリウッド映画のパロディー」を撮ったのである。
つまり、ゴダール本人としても、それなりに楽しみながら撮れる趣味的な作品であり、かつ一般性もある。基本的に「私立探偵もの」だから、予算が少なくてもそれなりに撮れる。
一一しかしながら、それだけではやはり我慢ならないから、物語の中には、この当時ゴダールが強く意識していた「左翼革命と政治」の問題をしれっと盛り込んだ、ということなのではないだろうか。
本作の「ストーリー」は、次のとおりである。
『物語の舞台は現在から2年後、「アトランチック・シティ」にポーラ・ネルソン(アンナ・カリーナ)が到着する。昔の愛人リシャール・ポリツェール(声・ジャン=リュック・ゴダール)からの電報で呼ばれたからだが、リシャールはすでに心臓麻痺で死んでいた。
リシャールの死をめぐって、有象無象がポーラに接近し、リチャード・ウィドマーク(ラズロ・サボ)とドナルド・シーゲル(ジャン=ピエール・レオ)がポーラを監視する。接近してきた有象無象のうち、エドガール・ティフュス(エルネスト・メンツェル)、ドリス・ミゾグチ(小坂恭子)が殺される。
リシャールは、週刊誌の論説主幹であったが、(※ 共産)党の指導者でもあったことから暗殺されたのだ。アトランティック・シティの前市長も同様に暗殺されている。やがてリシャールを暗殺した犯人は、リチャード・ウィドマークとドナルド・シーゲルだとわかる。ポーラは、デイヴィッド・グーディスとともに事件を解決する。』
(Wikipedia「メイド・イン・USA」)






つまり本作は、「ハリウッド的な大衆文化」の外套を纏ってはいるが、その中身は、やはりゴダールの「問題意識」だったということである。
しかしまた、「ハリウッド的な大衆文化」を外套として利用しただけで、それに対する「批判」が皆無だったのかといえば、私はそうだとは思わない。
マルクス主義的な社会変革思想を持つ映画監督ギー・ドゥボールの「『メイド・イン・USA』での、ゴダールの消費社会批判は甘い」とする批判にうけて、行田洋斗という人が『ゴダールの消費社会 『メイド・イン・USA』における大衆文化の使用方法について』という論文で「同作を単純に、アメリカの消費社会文化批判の作品だと見るのは、間違いだ」という趣旨の反論して、次のように結論している。
『 以上のような(※ ジル)ドゥルーズの分析は当然、『メイド・イン・USA』にも当てはまるだろう。つまり、ゴダールが本作で行なっているのは、消費社会のカテゴリーの映画化であり、それは商品のような「厳密なもの」、あるいは隠蔽のような「厳密な観念」である。ゴダールは、ドゥボールのように、映画を使用して観客を特定の思想(消費社会批判)に導くことよりも、カテゴリーの映画化を目指し、そこで反映するイメージを観客に提示することを重視していると言えるのではないだろうか。』
http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN21/PDF/yukita_article.pdf
ギー・ドゥボールに言わせれば、ゴダールの『メイド・イン・USA』における「アメリカ的な大衆消費文化」に対する「パロディ化による批判」は、「生ぬるい」あるいは「不徹底」だということだったのだが、行田洋斗は、ドゥボールの『メイド・イン・USA』理解は、自分のやり方(直接批判)に引きつけすぎたゴダール理解であり、それは間違っている、ということなのだ。
つまり、ゴダールが『メイド・イン・USA』でやったのは、「アメリカ的な消費文化」という『カテゴリーの映画化』であって、ドゥボールとは違って、『映画を使用して観客を特定の思想(消費社会批判)に導くこと』が、主たる目的ではなかったから、あのような作品になったのだ、ということである。
ゴダールは、単純に「批判して事足れり」と考えて『メイド・イン・USA』を撮ったのではない、というのが、行田の見解なのだ。

では、なぜゴダールは、「アメリカ的な大衆消費文化」を「批判」するのではなく、その「カテゴリーの映画化」などという、回りくどいことをしたのだろうか?
それはたぶん、ゴダールという人が、「主張する人」ではなく、自身が興味を持っている対象を、肯定的であれ否定的であれ「映画化する人」だった、ということなのではないだろうか。
つまり、ゴダールは「イデオロギー的な批判する」ことになど、興味がなかった。
ただ、自らも「惹かれつつ、かつ憎悪の対象」でもある「アメリカ的な大衆消費文化」と、その「美」とは何なのか、ということを本作で描いた(映画化した)、ということなのではないか。
もともとイデオロギー的に「アメリカ的な消費文化」が嫌い、全否定しているドゥボールならば、それを積極的に「批判否定」すれば、それで事足りるだろう。
だが、ゴダールは、その「魅力」を否定しないし、決して否定できないものだと考えているからこそ、それを「批判否定」すれば、それで事足りるとは考えないのだ。
その前に「それは何なのか」と、その正体を見極める必要が、彼にはある。
だからゴダールは本作において、行田洋斗の言うとおり、「アメリカ的な消費文化」というカテゴリーの「映画化」を試みたのではないだろうか。
つまり、本作においては、「アメリカ的な消費文化」とは何なのかという設問に対する、ゴダール自身の「解答」は、まだ出されていないのだ。
本作でなされているのは、いまだ「探究」であり、そのための努力なのだ。言い換えれば、本作に語られているのは「途中経過報告」なのである。

だから、通常であれば、こんな映画は撮らなかった。なにしろ「自分なりの解答」さえ出ていない問題なのだから、普通は「もっとよく考えてから」ということにもなる。
だが、ゴダールの場合は「映画を撮りながら考える」「考えることとは映画を撮ることである」といったところがあるから、結論など出ていなくても本作を撮ったのだろうし、そういう撮り方をする人の作品だからこそ、ゴダールの作品は「難解=わかりにくい」ということにもなるのではないだろうか。
したがって、ゴダールとしては、恩義あるプロデューサーのために「低予算の早撮りで、しかもそれなりに一般ウケする作品」を撮らなければならなくなった時に、「そうだ、それならこの機会に、アメリカの大衆消費文化を考えるための映画を撮ってみようか」と、そう考えたのではないだろうか。
それなら「一挙両得」だと考えたのだろうし、「ハリウッド映画」や「ディズニー」文化を含む「アメリカの大衆消費文化」に対する、本作でのいかにも「軽い扱い」に、ゴダールの「アメリカの大衆消費文化」に対する「愛憎」を見ることも可能であろう。

本作『メイド・イン・USA』が、基本的には「わかりやすい探偵もの映画」でありながら、なんとも捉えどころがなく「わかりにくい」のは、単に描写が、ゴダール的に「断片的」だからというだけではなく、そもそもゴダールの中で、「アメリカの大衆消費文化」に対する評価が定まっておらず、「愛憎」相半ばする感情が、未整理な葛藤として渦巻いていたから、なのではなかったろうか。

http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN21/PDF/yukita_article.pdf
(2025年5月27日)
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