ジャン=リュック・ゴダール監督 『彼女について私が知っている二、三の事柄』 : 迷い戸惑う決意の声
映画評:ジャン=リュック・ゴダール監督『彼女について私が知っている二、三の事柄』(1967年/フランス映画)
ゴダールの映画に馴れてきたせいだろう。「何だ、これ?」などとは思わず、楽しく見ることが出来た。
現在の私が考える、ゴダール作品を見るコツは、
(1)ストーリー性を期待しない。
(2)作中で語られる「哲学風の語り」を、無理に理解しようとはしない。
といったことだ。
つまり、平たく言えば、頭で理解しようとせず、作品に込められた「ゴダールの気分」を感じろ、ということである。
『燃えよドラゴン』(1973年)のブルース・リーのセリフ「考えるな、感じろ」ではないけれど、考えすぎは混乱のもと。
ゴダールが特別に、哲学的なことを考えているなどとは思わず、当たり前に考えていることを、彼好みの、哲学的あるいは文学的なレトリックを用いて語っているだけだと思えばいい。そうすれば、もっとゴダールが身近に感じられるはずだ。
そんなわけで、本作『彼女について私が知っている二、三の事柄』も、ストーリーは、テーマの「象徴」みたいなもので、ストーリー自体を楽しめるようなものにはなっていない。一一と言うか、ゴダールには、そんなものを作る気など、さらさらない。
彼は、語りたいことを語る「作家」なのである。
それでも、その「象徴」としてのストーリー、紹介しておくと、こうなる。
『概要
本作は、週刊誌『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』に掲載されたカトリーヌ・ヴィムネによるアンケート記事に想を得て、ゴダールが脚本を執筆し製作された。HLM(低賃貸住宅)で起きている主婦売春の話である。』
(Wikipedia「彼女について私が知っている二、三の事柄」)
『ストーリー
1966年8月、パリ郊外では、新首都圏拡張整備計画に従い公団住宅(HLM - 標準賃貸住宅)の建設が進んでいる。ジュリエット・ジャンソン(マリナ・ヴラディ)は、そんな公団住宅に夫のロベール(ロジェ・モンソレ)、息子のクリストフ(クリストフ・ブルセイエ)と娘のソランジュ(マリー・ブルセイエ)とともに住んでいる。子どもたちはまだ幼く、ガソリンスタンドに勤める夫はアマチュア無線家で、友人のロジェ(ジャン・ナルボニ)と朝から交信している。
ジュリエットは夫のいない昼間、売春をしている。ジェラール氏の売春宿に子どもを預け、買い物やカフェでの客の物色をする。その日も、若い男をホテルに連れ込み、仕事をし、その後でワンピースを買って、美容院へ向かった。美容院に勤めるマリアンヌ(アニー・デュプレー)に誘われ、アメリカ人(ラウール・レヴィ)の滞在するホテルへと遊びに行く。アメリカ人たちは、彼女たちに大金を振舞うのだ。
夫ロベールは、用事が終わるまで妻をカフェで待っている。近くの席では、女子学生(ブランディーヌ・ジャンソン)と作家(ジャン=ピエール・ラヴェルヌ)が論争している。やがて妻ジュリエットが現れ、夫婦そろって家に帰る。ベッドでのふたりは、口論を繰り返し、それぞれ読書をするのだった。』(同上)
この「ストーリー」を読めば、本作を見たいと思う人はほとんどいないはずだが、心配は無用である。
なぜなら、これらのストーリーは、「ゴダール自身の語り」を乗せるための「台紙」みたいなものだからだ。
当然、注目すべきは「語り」の方であり、「語り」によって埋め尽くされていく「台紙」の方は、ほとんどどうでも良くなっていくからである。
では、どうして、あることを語るのに「台紙」が必要なのかと言えば、喩えば、コラージュ作品を作るのに「台紙」が必要なのと同じことだと考えればいい。それが無ければ、コラージュ作品は作れない。
同様に、映画もまた、形式的なものではあれ「ストーリー」が必要だと、少なくとも、この当時のゴダールは考えていたのだろう。

だがいずれにしろ、コラージュ作品を作るのに、「台紙」が目立ちすぎるのは良くない。
コラージュした部分の隙間から覗く台紙の部分が、喩えば、コラージュ作品の内容に合わない金色や銀色などだと、そちらが目立って、作品を「台無し」にしてしまう。
だから「台紙」は、作品の内容に沿っていながらも、あまり自己主張をしないものの方が好いのだ。
したがって、本作『彼女について私が知っている二、三の事柄』においても、「(広義の)売春」というテーマを貼り込んでいく「台紙」として、「パリ郊外の新興団地における主婦売春」を「象徴」とするとストーリーを、薄く描いているのである。
では、ゴダールは本作で、いったい何かを描きたかったのか?
それは「魂を売ることの罪悪感」である。「売春」とは、その象徴なのだ。

本作の冒頭で、パリ郊外での新首都圏拡張整備計画によって公団住宅の建設が進んでいる様子が描かれるのは、パリが資本主義的欲望によって肥大し、醜くなっていく様子を描いると考えていい。
この冒頭の描写を見て、ゴダールが「パリの発展」を歓迎していると感じる人は、まずいないはずだ。

こうした経済的な発展の陰で、贅沢を求めるが故の貧しさから、売春をする主婦が増えているという「社会問題」を持ち出してくるのだから、ゴダールがこうした資本主義的な発展を、ほとんど憎悪しているというのは、明らかなことであろう。
だが、そんなゴダールにこそ憎悪を向けているらしい、フランソワ・トリュフォー派の日本人映画批評家・山田宏一は、本作について、次のように書いている。
『 『男性・女性』(一九六六)に描かれる現代の青春を「マルクスとコカ・コーラの子供たち」とずばり名づけたように、ジャン=リュック・ゴダールは『彼女について私が知っている二、三の事柄』(一九六六)の主題あるいはテーマも見事にこんな惹句/キャッチフレーズに要約してみせるー一「パリという名の都会のスカートをめくればセックスが見える」。
映画のタイトルの「彼女」とは「〔パリ〕首都圏」のことをさすという字幕が冒頭に出てくる。一九六四年に制定された地域都市開発警備計画にもとづいて建設進行中のパリ郊外の道路や公団住宅とその一帯一一首都圏一一が映画の主要な舞台であり、Region parisienne(パリ地域圏)は女性名詞なので「彼女」つまりヒロインになる。団地に住む主婦一一マリナ・ヴラディ扮するジュリエット・ジャンソン一一とその生活ぶり(一九五五年のゴダールの16ミリによる自主映画『コケティッシュな女』以来の強迫観念と言ってもいい売春である)も描かれるが、ゴダールによれば(「ラヴァンセーヌ・デュ・シネマ」誌一九六七年五月第70号)、それは社会的・政治的な全体構造としての「大きな集合体」の部分のひとつであり、したがって主役ではないので、その売春行為も個人的な冒険のようには描かれない。したがって、もちろん、ロマンチックでもメロドラマ的でもなく、何でもない。それは社会的現実のひとつの事象、現代という「大きな集合体」の構成要素のひとつにしかすぎないというわけである。
個人としての「人間」ではなく、「人間という基本的単位が、それを凌駕するいくつかの集団的法則によって支配されているような全体的構造」を描くことが映画の「真のテーマ」であり、その意味では最も「野心的な映画だ」とゴダールは語る(「ゴダール全評論/全発言I」、奥村昭夫訳、筑摩書房)。「現代の文明」論でもあり、「パリ地域圏の都市開発という問題をあつかっている意味ではドキュメンタリー」でもあり、「映画のなかで、たえず、自分はなにをつくりつつあるのかを自分に問いかけているという意味では純粋な探求の映画」でもあるというのだ。単なる映画ファンとしてはもう取り付く島がないという不安に駆られる。』
(山田宏一『ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代』P358〜359)
ここで山田宏一が何を言っているのかというと、要は、
「ゴダールは、この作品が文明論的な批評映画だと言いたいのだろうが、結局のところ、強迫観念である「売春」という観念にとらわれているだけで、それを過大に自己解釈してるだけなんじゃないのか」
と、そういうことである。

だが、それは、ハリウッドに迎合したトリュフォーの側に寝返った、資本主義的な映画評論家の「僻目」でしかないと、私は斯様に評価する。
ゴダールという人は、基本的に「潔癖症」なのだ。だからこそ彼は、世間に迎合せず、一般映画ファンには理解不能な映画を好んで撮る。
彼にとっての映画とは、資本主義的なエンタメ商品などではなく、文学や美術絵画などと同じ「芸術」であり、哲学的な自己表現の手段なのだ。
だが、映画を撮るには「金がいる」。
だから、多くの映画作家は、やむなく「資本」と妥協し、「ハリウッド(アメリカ)」とも仲良くしようとする。
もともと仲の良かったゴダールとトリュフォーが揉めて決別したのも、それが理由だった。
けれども、そうした資本への迎合とは、本作の冒頭で描かれた「パリの資本主義的な肥大」と同じ運命を辿るしかないということをいみしており、そうした妥協精神の象徴が「売春」なのだ。
他者の犠牲の上に成立した資本主義的な「豊かさ」を求めて、自分の「貞操」を売る。
それは、「フランス映画」も「フランスの映画作家」も、そしてゴダール自身も同じことなのだ。
ゴダール自身、映画を撮るために金が欲しかった。たとえ、汚れた金でも欲しかったし、それに迎合することもあった。そんな作品も撮ったのだが、一一ゴダールは、それが「売春」行為であり、それが恥ずかしいという気持ちを、拭いされない人だった。
つまりゴダールは、早くから「映画作りは、貞操の放棄を求める」ということに気づいており、自分がそうなるのを、現にそうなっているのを怖れ、嫌悪していた。
ゴダールが初期から抱えている強迫観念としての「売春」とは、そういうことなのである。
だから、そんなゴダールを、普通の売春映画ファン(評論家)である山田宏一が憎むのは、当然のことなのである。
要は「自分だけ、いい子ぶりやがって」ということなのだ。
だが、こうしたゴダールへの「悪口」によってこそ、ゴダールがやりたかったことの真相も、逆照射されよう。
ゴダールは、自分が大好きな、パリが、映画が、資本に呑み込まれていくことに我慢がならず、また自分自身が薄汚れていくのが我慢ならず、「ならば敵の道具である映画によって、敵を撃つ」ということをしようとしたのであろう。
その意味で、本作『彼女について私が知っている二、三の事柄』の狙いとは、決して難しいものではない。要は、「資本主義批判」なのだ。
『 『恋人のいる時間』では不倫だったものが『彼女について私が知っている二、三の事柄』では、たぶん個人的な次元から社会的次元に拡大されて、売春になる。週刊紙「ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」に載ったパリ郊外の団地の主婦の売春についてのアンケートにもとづく映画化だが、「今日のパリの社会で生きていくためには、どんな生活水準にいる人であれ、またどんな社会的地位にいる人であれ、何らかのやり方で売春をせざるをえない」とゴダールは言うのである(「ゴダール全評論・全発言I」、前出)。』
(前同 P360)
ここでの、ゴダールの、
「今日のパリの社会で生きていくためには、どんな生活水準にいる人であれ、またどんな社会的地位にいる人であれ、何らかのやり方で売春をせざるをえない」
という言葉は、そのまま、
「今日の映画界で生きていくためには、どんな水準にいる人であれ、またどんな立場にいる人であれ、何らかのやり方で売春をせざるをえない」
と言い換えることが出来よう。
つまり、ゴダールにとっては、「不倫」も「売春」も同じことなのだ。
要は、守るべき「操=大切なもの」を捨てることなのである。
『 「どこからはじめればいいのか‥‥‥どこから何をはじめればいいのか」と口ごもるゴダールのモノロークがつづく。といっても、迷いのようなものがあるのではなく、新しい方向への決意を述べているだけのように思える。プロダクション「パルク・フィルム」が作成した映画のプレス・ブックには、ゴダールのこんな一一新しいマニフェストとも言うべき一一 一文が掲げられている。
すべては新しい無垢な眼で再発見されなければならない。映画は生まれ変わるべきときなのである。そのためには、ただひとつの解決法しかない一一それはアメリカ映画との決別である。わたしたちはこれまで映画というあまりにも狭少な世界のなかで生きてきたと思う。映画は映画によってのみ育ってきた。映画は自ら映画を模倣して成長してきただけなのである。これはわたし自身の初期の作品に対する自己批評でもある。たとえば、わたしの映画のなかで刑事がポケットから拳銃をだして射つところを描いたのは、わたし自身が描こうとしている状況の論理から必然的に生まれてきたアイデアではなくて、要するに、それまで見てきたほかの映画一一アメリカ映画一一のなかで同じような状況でやはり刑事が拳銃をそんなふうにして射ったシーンの記憶があったからにほかならないのだ。
絵画においても同じことが起こった。模倣の時代があり、次いで決別の時代があった。いま、映画は決別の時代に来ているのである。澄みきった新しい眼で現代社会のなかへ、実人生のなかへ、突入してゆくべきときである。』
(前同 P363〜364)
ここで、山田宏一は言う。
『(※ 『彼女について私が知っている二、三の事柄』の作中ナレーションとして)口ごもるゴダールのモノロークがつづく。といっても、迷いのようなものがあるのではなく、新しい方向への決意を述べているだけのように思える。』
『新しい方向への決意を述べているだけ』で、何が悪いというのか?
まさにこの時、ゴダールは商業映画との決別を意識していたのだから、その「決意」が並々ならぬものであったのは間違いなく、決して、それ『だけ』のことだと言って済ませられるような、軽い決意ではなかった。
ゴダールが「口ごもる」ように語るのも、それは、決意こそ固まってはいるものの、しかし、この先の具体的な方向性が、自分でもハッキリとは見えていない状況でもあれば、「どのように語れば、この選択の正しさが伝わるのか」という迷いや躊躇は、あって当然だろう。
資本主義の現状にどっぷり浸かって、自身の「売春」の正当化しか考えていないような山田宏一ように、流暢に自己正当化を語るような立場には、ゴダールはなかったのである。
この先、ゴダールが、「反資本主義=反アメリカ」的な左翼活動にコミットして、商業映画界を去るというのは周知の事実であり、その後、また商業映画界に舞い戻って来るということも、私たちは知っている。
だが、その事実をして、ゴダールの「若気の至り」だ「腰砕けの挫折」だと冷笑する者は、そもそも捨てるべき「操」など、初めから持ってはいなかっただけなのだ。
ゴダールがなぜ、いったんは去った商業映画界に戻ってきたのか、その理由を今の私は知らない。
たしかに、一定の妥協をしてでも、彼には「映画が捨てられなかった」というのは、たぶん間違いないところなのだろうが、それでも、彼はその後も「変な映画」を撮り続けたのだから、資本主義の軍門に下ったとは、言い切れないのではないだろうか。
資本主義の外へ出られなかったのだとすれば、残された方法は、資本主義の中でのゲリラ戦しかないし、もしそういう選択だったのだとしたら、ゴダールの商業映画への復帰は、敗北ではなく、彼がコミットしたベトナム戦争のごとき、老獪なゲリラ戦への方針転換だったと、そう考えた方が正しいのではないか。

だが、若いゴダールが、本作『彼女について私が知っている二、三の事柄』において、資本主義の泥に塗れることを良しとせず、その外部を目指そうとした潔癖さは、称賛されこそすれ、嘲笑の対象などではないはずだ。
ゴダールは、本作 『彼女について私が知っている二、三の事柄』によって、いったんは「資本主義の泥沼」からの決別を決意し、しかし、その後の、泥まみれの苦闘を経験することで、今度は、泥まみれのゲリラ戦も辞さないような、大人のゲリラ兵へと成長したのだと、そう考えていけない理由は、どこにもなかろう。
だから、本作 『彼女について私が知っている二、三の事柄』から私たちが、聞き取るべきなのは、難解で高尚な哲学などではなく、当時のゴダールの、苛立ちや怖れや自己鼓舞や躊躇なのではないだろうか。
「もうこれ以上の売春は御免だ。けれども、それで食っていけるだろうか? 俺に、最後まで闘い抜くことができるだろうか? いや、やれるかやらないかではない。やるしかないのだ」
そんな揺れ動く感情をこそ、私たちは本作から感じ取るべきなのではないだろうか。
(2025年9月24日)
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