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『カラマーゾフの兄弟』はなぜこんなに面白いのか!そのすごさはどこにある?


ロシアの文豪ドストエフスキーの最高傑作『カラマーゾフの兄弟』あらすじと感想~神とは?人生とは?自由とは?

フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)Wikipediaより

『カラマーゾフの兄弟』は1879年から1880年に連載されたドストエフスキー最後の長編小説です。

私が読んだのは新潮社出版の原卓也訳の『カラマーゾフの兄弟』です。この作品も様々な版が出ていますが、読みやすさなど様々な面から私は新潮社版を強くおすすめします。

早速この本について見ていきましょう。

冒頭「作者の言葉」で「続けて現代編を描く」と宣言していた著者の、
すなわち未完にして最後の作品。
言うまでもなく、時代を越えて各界絶賛の累計170万部。
最近では「東大教師が新入生にすすめる本、第1位!」にも。


物欲の権化のような父フョードル・カラマーゾフの血を、それぞれ相異なりながらも色濃く引いた三人の兄弟。放蕩無頼な情熱漢ドミートリイ、冷徹な知性人イワン、敬虔な修道者で物語の主人公であるアリョーシャ。そして、フョードルの私生児と噂されるスメルジャコフ。これらの人物の交錯が作り出す愛憎の地獄図絵の中に、神と人間という根本問題を据え置いた世界文学屈指の名作。

Amazon商品紹介ページより

上のあらすじにもありますように、ドストエフスキーは生涯変わらず抱き続けてきた「神と人間」という根本問題をこの作品で描いています。そしてこの作品はそんな彼の世界観を集大成したものとなっています。

この作品の最大の山場は上巻の終盤に現れる「大審問官」の章です。一度読んだら絶対に忘れることができないほどの衝撃があります。

(「大審問官」の章については以前に「『カラマーゾフの兄弟』大審問官の衝撃!宗教とは一体何なのか!私とドストエフスキーの出会い⑵」の記事で紹介しましたのでこちらをご参照ください)

『カラマーゾフの兄弟』の最大の山場はたしかに「大審問官」の章です。

ですが、『カラマーゾフの兄弟』はそれだけでは終わりません。

その後も怒涛のように展開は動き、息もつかせぬほどの圧倒的な迫力で読む者を惹き付けます。基本線は強烈な個性を持つカラマーゾフ一家の事件にありますが、この事件をベースに個々の人間の内面に深く切り込むドストエフスキーの心理洞察は驚異的です。

特に、主人公の見習い修道僧アリョーシャが尊敬するゾシマ長老の生涯や、その死をめぐるエピソードは「大審問官」の章と並ぶ名場面であると私は感じています。

尊敬すべきゾシマ長老を妬む人間たちの非道な行動。そして民衆のあまりに恩知らずで醜い振る舞いは、ゾシマ長老を愛する人間としては手が震えるほどです。

もちろん、主人公のアリョーシャもその全てを目の当たりにし、絶望の底に叩き落とされます。それは善良で敬虔なアリョーシャでさえ、道を捨てそうになるほどのショックでした。

しかし苦しみの末、アリョーシャはそこから立ち上がります。ゾシマ長老が彼に新たな道を示すのです。このシーンはこの作品で最も感動的で心が震えるシーンのひとつです。

ドストエフスキーの作品は暗くて重いというイメージが強いかもしれませんが、『カラマーゾフの兄弟』にはこうした救いがいくつもあります。

たしかに「大審問官」の章やゾシマ長老の死のように重いシーンもありますが、この作品にはそれを凌駕する光も描かれています。

『カラマーゾフの兄弟』はただただ暗くて重い物語ではありません。こうした光があるからこそ、よりこの作品に引き込まれていくことになるのです。

また、この作品には子を愛する父親としてのドストエフスキーの姿が垣間見えます。

なぜこのことをあえてお話しするかと言いますと、ドストエフスキーはこの作品の執筆中、最愛の息子アリョーシャを亡くしています。てんかんの発作による急死でした。

この突然の死がドストエフスキーに与えた影響は甚大でした。

皆さんもお気づきかと思いますがこの作品の主人公の名前もアリョーシャです。

ドストエフスキーはこの愛する子を想いながらもこの作品を執筆していたのでした。このことについて以下の記事でより詳しくお話ししていますのでぜひご参照頂けましたら幸いです。

『カラマーゾフ』は本当に読みにくいのか?

『カラマーゾフの兄弟』は文庫で上中下の三巻構成で、およそ1900ページという大作です。

「しかもドストエフスキーということなら難しくて読みにくいんでしょ?」

そう思ってしまう方も多いかもしれません。

難しくて重くてさらに1900ページ以上の大作・・・

正直これでは手が伸びないのも仕方がないですよね。よほどの覚悟がないと読む気にはなりません。仕事で疲れている時ならなおさらです。

ですが、先にも述べましたようにこの作品はただ暗くて重いわけではありません。しかも実際に読んでみると実はそこまで難しい表現は出てきません。言葉自体は読みやすいとすら言えるでしょう。

たしかに、上巻の前半は忍耐が必要になります。正直に申しまして、前半はプロローグといいますか、中盤からの盛り上がりのための前準備のような内容です。

もしかしたら、ここで挫折してしまう人が大半なのかもしれません。

ですがここを辛抱すると上巻の後半から一気にエンジンがかかってきます。

ここまで辛抱強く読んできた方なら、これまで溜めていたエネルギーが爆発するがごとく一気にドストエフスキーの筆の勢いに呑み込まれていくことになるでしょう。

中巻下巻に入ってもその勢いは止まることはありません。きっと抜け出せなくなるほど没頭すること請け合いです。それほどすごいです。この作品は。

上巻の前半部分さえ突破すれば後はもう怒涛のごとしです。

決してこの作品は難しいのではありません。難しいのではなく、深いのです。

『カラマーゾフの兄弟』が発表されてから140年以上の月日が経ってもなお変わらずに多くの人から愛され続けているのはそれなりの理由があるのです。

この物語が持つ魅力があるからこそ、読者に訴えかける何かがあるからこそ、こうして読み継がれているのだと思います。

読めばわかります。言葉が難しいとか、言っている意味がわからないような文章は出てきません。

たしかに「大審問官」の章のあたりではキリスト教の知識がなければわかりにくいところもありますが、全体としてはそこまでの専門知識は必要とされていません。

物語自体が抜群に面白いので、すらすら読んでいくことができます。

そして読んでいく中で興味を持ったり、もっと知りたいなと思うところがあれば参考書を読めばよいのではないかなと思います。

ドストエフスキー作品そのものにおいては、読みにくいとか難しいということは実はそれほど大きな問題ではありません。

問題はその文章から考えさせられることにあるのです。

『カラマーゾフの兄弟』は私たちに問いを投げかけます。

私の場合は「大審問官」の章から受けた「宗教とは何か」という問いでした。

ドストエフスキーからどんな問いを投げかけられるかはそれこそ人それぞれだと思います。その問いはそう簡単に解けるようなものではありません。一生考え続けなければならない問題です。

そういう問題を投げかけてくるという意味で、この作品は「難しいのではなく、深い」のです。

昨今は何でもタイパタイパと、すぐに答えがわかるものが流行りとなっていますが、そういう面ではこの作品はまさに真逆をいくものがあります。一生かけて答えを追い求めなければならないのならば、タイパとしては最悪でしょう。

ですが、まさにそこにこそ価値があるのです。私はそれを信じてやみません。

『カラマーゾフの兄弟』はドストエフスキー作品の中でも私が最も好きな、そして思い入れのある作品です。

長編小説ということでなかなか手に取りにくい作品ではありますが、心の底からおすすめしたい作品です。

なぜ難しく感じられるのか、もう少し考えてみた

とはいえ、やはり『カラマーゾフ』が難しく感じられるというのもよくわかります。

まず、そもそもの大前提ですが、これは19世紀後半のロシアの小説です。つまり、読者は当時のロシアのインテリ層でした。

なので日本人たる私たちとはまず文化的な背景が異なります。

名前の呼び方やら貨幣価値、ものの考え方や当時の流行なども私たち現代日本人とはまるで異なります。なのでこの小説が難しく感じられるのはそもそも当たり前なのです。全く違う世界でのお話なのですから。

その中でも特に混乱するのが名前の呼び方でしょう。ロシア式の名前やニックネームの使い方は私たちには馴染みがなく、「これは一体誰のことだ?」と混乱してしまうことでしょう。なのであらかじめ名前や相関図などを用意しておくと便利です。

そして一番の難関はやはりドストエフスキーが語る神学論争でしょう。これは正直、宗教の勉強をした人でないとかなり厳しいと思います。上で紹介した「大審問官」の章もまさにそうです。

ただ、ドストエフスキーのさすがなところは、専門的な議論をしてはいるものの、やはり人類普遍の問題をしっかりと捉えている点です。ロシア正教の神学理論がわからなくとも、人間普遍の問題ならば時代や国を越えて人間に伝わります。それを絶妙なバランスでやってのけたのが「大審問官」の章であり、ゾシマとアリョーシャの師弟関係でもあります。

もちろん、ロシア正教のことを知っていればもっともっと楽しめること間違いなしです。私自身、初めて読んだ時はロシア正教のことをほとんどわかっていませんでしたが、研究をしてから読み直すとこれが面白いのなんの!まさに衝撃でした。

『カラマーゾフ』は何も前知識がなくとも読めないことはないのですが、知れば知るほど味が出る作品なのは間違いありません。

現に私は10回以上この作品を読んでいますが、読む度に「く~!」と痺れています。さすが世界最高の小説です。

ドストエフスキーのこうした奥深さを知るのにおすすめの参考書を以下の記事でまとめていますのでぜひこちらを参考にした上で読んで頂けますと幸いです。

また、この記事ではドストエフスキーその人のすごさについても私の思う所を述べていますのでぜひご参照ください。

数年ぶりに読んだ『カラマーゾフ』

最近、数年ぶりに『カラマーゾフ』を読みました。

2019年から2023年にかけて私はドストエフスキーの研究に打ち込んでいたのですが、それが一段落してからは仏教の研究に勤しむ毎日でした。

そしてその集大成のひとつでもある『親鸞伝(仮)』の草稿を書き終え、次の執筆に移ろうかというタイミングで、たまたまブログの読者様から問い合わせが入ったのです。

その内容は「三島由紀夫の『仮面の告白』のエピグラフに『カラマーゾフの兄弟』が引用されているとのことですが、私の手元の本にはそれがありません。どういうことなのでしょうか。」というものでした。

長くなるのでこれ以上の経緯はお話しできませんが、とにもかくにも私は久々に『カラマーゾフ』を手に取り、ぱらぱらとページをめくることになったのです。

するとどうでしょう。仕事も一段落していた私に『カラマーゾフ』を読みたい熱がメラメラ湧き上がってくるではないですか!

ちょうど『親鸞伝』の執筆で精魂尽き果てていたところです。これ幸いとリハビリのために私は久々に『カラマーゾフ』を読むことにしたのでありました。

そしてそれは効果てきめん!

まさに至福・・・!素晴らしい小説はどんなエナジードリンクよりも力をくれます!ドストエフスキーの言葉の選び方、人間造形、そのどれもが圧倒的・・・!同じ「物書き」として恥じ入りたくなるほど見事な文章です。こんな物語を書けたら・・・と打ちひしがられもするのですが、それでもやはりこんな宝物のような物語が人類に遺されているということだけで嬉しくなります。まさに珠玉!私は今この作品にとてつもなく感化されています。

そして私はこの記事で『カラマーゾフ』の前半は読みにくく、挫折する人も多いと述べました。しかし、実は違うのです。正直、私はこの前半部分こそドストエフスキーのすごさが表れていると感じてやまないのです。

たしかに初めてこの小説を読む人にとってはこの前半は厳しいでしょう。なぜなら、前半は人物紹介が続き、物語にほとんど動きがないからです。

ですが、2周目以降にこの小説を読む人にとってはどうでしょう。

すでに物語の大筋を知っている人間からすれば、この最初の人物紹介によってこれまで知っていた事件の流れや心理ドラマがさらにはっきりと見えるようになるのです。

もしかするとドストエフスキーは最初からそれを狙っていたのかとすら思えるほど見事な構成です。世界の名だたる文豪や偉人たちがこの小説を愛し、何度も読み込んでいるのはこうした構造があるからこそでもあります。あまりに見事なのです。私はこうしたドストエフスキーの神業に毎度唸らざるをえません。

そしてそもそもなのですが、この前半部分そのものも実は非常によくできたものなのです。

これは、言うならば振り子のようなものと言えるかもしれません。

ドストエフスキーは「神と人間」という究極的な命題をこの小説で問うています。そしてそれを極めて俗なる方向と、聖なる方向と交互に展開しているのです。

例えば道化者の父フョードルや自由主義者のミウーソフなどは修道院を極めて俗っぽい視点から愚弄します。しかしそうかと思えばアリョーシャ、はては熱血漢ドミートリイを介して人間の根源的な部分まで一気に飛び込んでいきます。

この俗なる面と聖なる面が交互に、あるいは同時に展開することでこの物語に絶妙なバランスと勢いが付与されているのです。

「こんな男がなぜ生きているんだ!」というくらいばかばかしいやりとりも、実はその後の究極の問題への助走でもあったのです。

逆に言えば、究極の問題一辺倒では重くなりすぎて人間味が薄れてしまい、物語は失速してしまうということになります。

やはりどちらかだけではだめなのです。ドストエフスキーはそれを極めて現実的に見極めていたのだと思います。

他にもお話ししたいことは山ほどあるのですが長くなってしまうのでこの辺りで筆を置きたいと思います。

ですが、せっかく久々に『カラマーゾフ』を読んだのですからいつかやりたいと思っていたことを次の記事からやってみたいと思います。

それが「『カラマーゾフ』を読む」という記事です。

これはもうシンプルです。私の中でぐっと来た部分をただひたすら書き出し、思うことを述べていくだけです。

構成も何もあったものではありません。ただ流れに沿って『カラマーゾフ』を楽しむのみです。

物語の詳しい解説やあらすじを希望の方にはお役に立てないかと思われますが、「『カラマーゾフ』のどこが面白いの?」とお悩みの方にはいくらかはお役に立てるのではないかと思います。

私がこうした記事を書こうと思ったのは以前当noteでも紹介したウナムーノの『ドン・キホーテとサンチョの生涯』がきっかけです。『カラマーゾフ』を読んでいる最中、ふとかつて読んだこの名著が頭をよぎったのです。

ドン・キホーテ愛に溢れたこの批評のように、私も『カラマーゾフ』を純粋に楽しんで書いてみたい。私の愛する小説について自由に書いてみたい。

そんなことを思ったのです。

というわけでこれから先「『カラマーゾフ』を読む」という連載記事を書いていきたいと思います。私自身、肩肘張らずに書いていくつもりですので気軽にお付き合い頂ければと思います。

以上、「『カラマーゾフの兄弟』はなぜこんなに面白いのか!そのすごさはどこにある?」でした。

【はじめに読むあとがき】笑えるカラマーゾフ、泣けるカラマーゾフ、再読して見えてきたもの「カラマーゾフを読む」(93)


※この記事は現在連載中の『カラマーゾフを読む』のあとがきになります。

私は本を読むときはいつも「まえがき」と「あとがき」を読んでから本文を読み始める派です。

そんな私でありますから、この連載においても「まえがき」と「あとがき」をセットでご提供したいと思っていたのですが、何せこの連載はまだまだ続きます。連載の最後まで待っていたら「あとがき」をアップできるのがかなり先のことになってしまい、それは私としても何とも忍び難い・・・。

というわけで、連載はまだ途中でありますが先に「あとがき」を更新してしまおうというのが以下の記事になります。

実はこの連載の記事自体はすでに全て書き終えております。なので「あとがき」自体も2か月前には完成しておりました。なので私としても全く問題はありません。

「カラマーゾフを読む」の記事制作を通して感じたことをこの「あとがき」で記しています。皆様の『カラマーゾフ』読書のお役に立てましたら何よりでございます。

次の記事はこちら


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