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ChatGPTの恋愛相談はおすすめ!?ドストエフスキー的な叫びを禁じ得ない件について

友人が恋をした。

それも、いつぶりかの熱い恋なのだそうだ。

会う度にエキセントリックな話題が出てくるその友人からその話を聞いたのはつい先日のこと。

久方ぶりの再会で近況報告もそこそこに、その女性への熱い思いを私は聞くことになったのである。

エキセントリックな彼らしい、エキセントリックな恋であった。私はそんな彼が好きだし、そんな彼だからこそ応援したいのである。

ただ、話を聞いていて私は驚いた。

彼はChatGPTに恋愛相談をしていて、それに忠実に従っているというのである。彼によると、ChatGPTの恋愛相談はとてつもなく的確で良いものなのだそうだ。

AIの進歩が目覚ましいと言われてすでにずいぶん月日が経っているが、私は相変わらずそれを使ったことがない。そんなAI音痴の私は半信半疑でその恋愛相談を見せてもらったのだが、まあ驚いた!完全に会話なのである!しかもずいぶんと気の利いたことまで言うではないか!

しかも、彼によればお互いの「性格相性診断」などのデータを打ち込めば、最良のアプローチ方法や今後の展開予想などもしてくれるのだそう。

そして「今日、こんな連絡が来たんだけど、どうなの?」という質問にも的確に答えてくれるのだという。

極めつけは、いつ告白するかのタイミングまで提案してくれるというのだ!女性のスケジュールを把握したChatGPTは「このタイミングでこういう声掛けをすると女性は心を許しやすくなり、告白も成功する可能性が高い」とまでアドバイスするのである。

まさに恋愛のシナリオがChatGPTによって組み立てられているのだ。そして我々はそれに乗っかりさえすればよいのである。これはもしかすると恋愛に悩む者の福音になるかもしれない。

なぜなら、AIは膨大なデータを蓄積している。そのデータに則って統計的に成功確立が高そうなものを採用している。我々の拙い恋愛経験よりも「データとしては」ずっと情報量が多いのである。

そして恋愛に悩む者は基本的に冷静さを失っている。そんな脳みそで考えた恋愛は多かれ少なかれ思い込みや錯覚を逃れられない。それに比べればAIはよっぽど冷静だ。

そして何より、シナリオが決まっているのが大きい。我々はもはや「ああでもないこうでもない」と考える必要がないのである。しかもそのシナリオが失敗しても、その責任は我々にはない。なぜなら我々が自分で考えたものではないからだ。悪いのはそんなシナリオを立てたAIなのである。これなら自分は傷つかなくても済む。もちろん失恋の悲しみはあるだろうが、自尊心は幾分か守られるだろう。

ああ、たいそうな時代になったものだ。

AIはすでに人間よりもよっぽど有能な恋愛相談相手なのである。

だが、私は叫びたい。

「人間はそんなに合理的なものなのだろうか!」と。

「こうだからこうなる」、「これをすればうまくいく」。たしかに合理的に考えたらそうなるだろう。膨大なデータの下、そうなる可能性が高いものを選んでいるのだから。

だが、私にはそんな「こうだからこうなる」という合理的な思考がどうも歯がゆいのである。

くしくも今、私はドストエフスキーの名著『カラマーゾフの兄弟』を読んでいる。

ドストエフスキーは「二二が四」という合理的な思考を嫌った人間だ。彼は「そんなものは機械と変わらないではないか」と悪態をついている。

「人間は非合理的存在だ。合理的な行動を自ら棄て、破滅に走り出しうる摩訶不思議な存在が人間なのだ」とドストエフスキーは言うのである。

ChatGPTはたしかに合理的で優れた相談相手だと思う。だが、私もそんな完璧な合理性に「ぺっぺ」したいのだ、ドストエフスキーのように。

人間は「ふいに」心変わりし、「心ならずも」損なことをしてしまう。そしてしまいには「突然」歪んだ微笑みを浮かべるのである。

これがドストエフスキー的人間観だ。実にカラマーゾフ的である。

もちろん、私は友人の恋を応援したい。

しかし、私はこの合理性を覆す人間模様を予想してしまっている。シナリオに乗るのは構わない。AIの提案を受けとめるのも構わない。だが、きっと予想外の何かが起きる。非合理的な心の動きが双方に起こる。

そうした時に我々人間の本質が試されるのだ。最後は自分なのである。

さて、ここまで何だか偉そうなことを言ってしまったが、よくよく考えてみれば人類は古代からほとんど何も変わっていない。

せいぜい、相談相手が変わったくらいだ。

古代インドには性愛の法典である『カーマ・スートラ』というものがある。これを読んだ時はそれこそ私も驚いたものだ。まさに現代の恋愛指南書とほとんど変わらないのである。そこには異性と出会ったらどんな会話をすればよいのか、どんなことをして仲を深めていくのかが事細かに書かれていた。

古代インド人はある意味この法典を相談相手にし、なすべきシナリオ通りの恋をしたのである。

そしてこれは古代インドだけの話でなく、古今東西、あらゆる場所でそうしたマニュアル、シナリオ的なものが存在していたことだろう。

AIの恋愛相談もそのひとつと考えればあまり目くじらを立てる必要もないような気がしてきた。

だが、それでもこの合理的なやりとりに度肝を抜かれたのは事実。

そしてそんな合理性に無性に「ぺっぺ」したくなる私はやはりドストエフスキー的な人間なのだろう。

つまり、何が言いたいのかというと「ドストエフスキーを読んでみようぜ」ということなのである。

人間の複雑さ、摩訶不思議さを知るにはドストエフスキーが一番だと私は信じている。

数年ぶりに『カラマーゾフの兄弟』を読んでいるまさにその最中にこんな「合理的なAI恋愛相談」の話を聞けたとは不思議としか言いようがない。やはり私の人生には要所要所でドストエフスキーが絡んでくるのだろう。

最後にそんなドストエフスキーの作品からこの言葉を紹介したい。

いや、人間は広いよ、広すぎるくらいだ、俺ならもっと縮めたいね。何がどうなんだか、わかりゃしない。

新潮社、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』P263-264

この恋が実りますように。


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