緑の調和
深い森と苔に覆われた湖のほとり。いつか来たことのあるその風景が、人生の転機を迎えようとしている僕に、まったく違う表情を見せた。
その場所に立った瞬間、奇妙な眩暈に襲われた。
目の前に広がるのは、見覚えのある、濃い緑に囲まれた湖の風景だ。
確かに、いつか訪れたことのあるあの場所に似ている。けれど、何かが決定的に違う。
空の色か、それとも木々の影が落とす角度だろうか。
よく知っているはずの地図の上に、見知らぬ記号が紛れ込んでしまったような。
あるいは、世界の軸がわずか数ミリだけ、音もなく、ずれてしまったような感覚。
定年という境界線をまたぎ、社会という巨大な振り子から外れた今、僕は「かつての世界」を少し離れた場所から眺めている。
現役という名の戦場にいた頃、僕は「知識の湖」をがむしゃらに泳いでいた。
押し寄せる情報の波をかき分け、息を継ぎ、喉を潤すためにその水を飲み込んできた。それは生きるための術であり、僕を形作る成分そのものだった。
だが、あの湖水を離れて岸に辿り着いた今、かつてと同じ風景を見ているはずなのに、座標だけが狂っている。
あんなに切実だった情報の波も、今は遠い波音のようにしか聞こえない。
僕は、この静かな緑の中で、もう一度水を飲む。 それは、誰かに評価されるための知識ではなく、ただ僕の魂の渇きを潤すための、純粋な一滴。
世界の軸が少しずれてしまった世界で、僕は僕自身の、新しい重心を探し始めている。 たとえ、かつての場所に二度と戻れないとしても。
新しい重心を探すのではないのかもしれない。
自分を、自分の外から、見つめ直す作業。
それは、きっとずれてしまった世界を少しずつ同調させる作業だ。
その後に訪れる世界は、昔の僕も今の僕も、同じ調和の世界にいられるのだろう。
ただ、緑が深い。
その違和感に満ちた鮮やかさと、記憶の中、
今、僕が触れられるのは、濃い緑と、喉の奥を冷やすあの水の感触だけだ。
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