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30年前の手紙が、今の私を励ましてくれた話

先日、久しぶりに実家へ帰ったときのこと。
母から「ずっと置きっぱなしだよ」と、押入れの奥で眠っている段ボール箱の話を持ち出されました。

実物を確かめてみると、表面はすっかり退色し、テープも黄ばんで、触れると少し粉をふくほど。
ひと目で、長い年月が経っていることがわかる代物でした。

恐る恐るフタを開けると、ぎっしりと詰まった手紙の束、交換し合ったプロフィール帳、分厚い卒業アルバム……。
今から30年前、平成初期の1990年代に中学生だった私の思い出が、そのままのかたちで残っていました。

当時「りぼん」で連載されていた『ちびまる子ちゃん』や『ときめきトゥナイト』の便箋まで出てきて、あの頃の空気が一気によみがえってきました。

ここ数年、私が文字を書く機会といえば病院の問診票ぐらい。
本や日記もアプリにまとめ、物の少ない身軽な暮らしを快適に感じていましたが、大量の手紙を前にして、「物体として存在する強さ」を改めて思い知らされました。

手紙を数えてみると、100通近くありました。
クラスメート、部活の仲間、受験で知り合った友人……。
便箋の文字を追ううちに、当時の私は思っていたよりずっと人と関わることを楽しんでいて、意外と陽キャだったことを思い出しました。
そして、写真の中の自分の姿が想像以上にきらきらしていて、思わず笑ってしまいました。

今の私は、人づきあいを避けがちな陰キャなタイプで、家で静かに過ごすことを心地よく感じています。
現在の自分とあまりに違う30年前の姿に少し面食らいながらも、封筒の一枚一枚に触れるたび、過去の自分と対話しているような気持ちになっていきました。

最初は「処分してしまおう」と思っていましたが、読み返すうちに、手紙の言葉たちが今の自分を励ましてくれるような気がしてきました。
整理して、このまま残しておこう──そんな気持ちに変わっていきました。

この記事では、30年前の手紙を手がかりに、SNSがなかった平成初期の中学生のコミュニケーションと当時の私──文化史と個人史の二つの視点で振り返っていきます。

手紙という、どこか懐かしさのあるやりとりを通して、当時の空気を楽しんでもらえたらうれしいです。



平成初期の中学生のコミュニケーション

1990年代初期──ちょうど私が中学生だった頃、日本には今のようなインターネット環境がありませんでした。
一般家庭でネットが使われ始めたのは1995年以降。
私自身も大学生になってから触り始めたと記憶しています。

すなわち、私が中学生だった30年前には「ネットでやりとりする」という概念すら存在しなかった時代
そのため、人とつながる方法はとてもシンプルで限られていました。

当時のコミュニケーション手段は「対面で話す」「電話で話す」「手紙のやりとり」の大きく3つに分けられます。

1. 対面で話す

もっとも基本的で、今も変わらない手段が「対面で話す」こと。
家で家族と話し、学校で友達と話す──同じ場所にいて声を交わすことが、当時のコミュニケーションの中心でした。

現在の私は完全リモートワークで、zoomなどのツールを介して会話することはあっても、誰とも対面せず一日が終わることも珍しくありません
「同じ場所にいて話す」ことが当たり前だった日々を思うと、この30年でずいぶん遠くまで来たものだなと感じます。

2. 電話で話す

同じ場所にいなくても会話できる手段として使われていたのが、一家に一台の固定電話でした。

端末を個人で持つ時代ではなく、家族で一つの電話を共有。
誰かに連絡したいときは相手の家にかけ、親御さんを経由してようやく本人につながる──そんな手順まで含めて「電話をかける」行為が成り立っていました。

スマホもパソコンもない時代だったからこそ、「機械を介して声だけでつながる」体験はどこか特別に感じられました。

夏休みに友達と長電話をしすぎて電話代が跳ね上がり、親に怒られたこともあります。
思い返すと、会話の内容よりも「機械を通して友達とつながっている時間」そのものが楽しかったのだと思います。

3. 手紙のやりとり

声とは別に、気持ちを文字で届ける方法もありました。
当時のテキストコミュニケーションといえば、「手紙」ほぼ一択です。

アプリのようにワンタップで「やり直し」などできず、一文字の修正でさえひと苦労
書き間違えれば修正液で塗りつぶしたり、消しゴムでこすって紙をよれさせてしまったりして、結局まるごと書き直すことも珍しくありませんでした。

そして「かわいいスタンプを選ぶ」感覚に近いものとして、便箋や封筒を選ぶ楽しさがありました。
お気に入りのデザインを見つけて「これは誰に使おうかな」と考える時間が好きでした。
当時は「りぼん」などの月刊少女漫画でも、人気キャラクターの便箋や封筒が付録についていて、それを使うのも特別な楽しみでした。

便箋や封筒を慎重に選んで、好きな人に気持ちを伝える「ラブレター」という文化もありました。
授業中にそっと回す「交換メモ」や、一冊のノートでやりとりする「交換日記」も盛んでした。
今読み返すと、「当時のノリが強すぎて何を言っているかわからない……」と思うような内容ばかりです。

「一度送ったら一生残る」というデジタルタトゥーの概念もなく、後先を考えずに、今なら絶対に送らないようなきつい言葉も飛び交っていたように思います。

また中学生にとって、学校の外に文通相手がいることはちょっとしたステータスでした。
部活や受験で知り合った人、引っ越した友達などと手紙をやりとりする文化に、私もすっかり染まっていました。

「個人情報保護法」が施行される10年ほど前の時代。
雑誌の巻末には「文通相手募集」のコーナーがあり、個人の住所が堂々と掲載されていました。
英語のペンフレンド文化もあり、海外の相手と手紙を交わす人もいました。

見知らぬ人とのコミュニケーションという文脈では「テレクラ」という文化もありました。
マッチング機能のない出会い系アプリの電話版のようなものです。

手紙にせよ電話にせよ、匿名で人とつながる仕組み自体は、インターネット以前から存在していたのでした。
ただ、当時の私はその世界に踏み込むことはありませんでした。


私はどんな中学生だったのか

1990年代初期──中学生だった私は、電車が一時間に一本しか来ないような辺鄙な場所で暮らしていました

コンビニは駅前に一つだけ。
スーパーやドラッグストアはなく、買いものには車が必須。
図書館はあるけれど、本屋はなし。
周囲には田畑が広がり、少し歩けば山に登れます。

通える中学校は公立がひとつだけ。
1学年は3クラスでおよそ100人。
部活動は全員参加が当たり前で、私は消去法で軟式テニス部に入りました。

当時はまだ「スクールカースト」という言葉はありませんでしたが、同学年には広末涼子さんのような透明感のある子がいて、「あの子が一軍だったな」と今になって思います。

私は友だちはいたものの、どのグループにも馴染みきれず、どこか宙に浮いているような感覚がありました。
成績は良かったため、行事のたびにピアノ伴奏や指揮の役が回ってきたのですが、前に出ることにはいつも居心地の悪さがつきまとい、どう振る舞えば嫌味にならないのか、ずっと悩んでいた気がします。

どんなコンテンツを楽しんでいたのか

文化的背景としては、テレビがメインカルチャーを席巻していた時代
19時から22時は「ゴールデンタイム」と呼ばれ、『ダウンタウンのごっつええ感じ』『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』など、人気コンビの冠番組が並んでいました。
『東京ラブストーリー』『101回目のプロポーズ』『素顔のままで』といった月9ドラマも毎週の話題をさらっていました。

音楽もテレビと強く結びついていて、CHAGE&ASKA『SAY YES』、小田和正『ラブ・ストーリーは突然に』、米米CLUB『君がいるだけで』など、ヒット曲の多くが月9ドラマの主題歌でした。

ちょうどフジテレビが最も勢いを持っていた頃で、「女子アナ」という言葉が流行っていた時期でもあります。
私自身も冗談めかして「女子アナになりたい」と口にしていました。

ゲームではスーパーファミコンが発売され、『スーパーマリオワールド』『スーパーマリオカート』などの名作が次々と登場

漫画では週刊少年ジャンプが黄金期を迎え、『ドラゴンボール』『スラムダンク』『幽☆遊☆白書』が同時連載されるという豪華すぎる時代でした。
学校では、みんなで漫画の回し読みをするのが日常でした。

そんなメインカルチャーを楽しみつつも、それと同じくらい、主流とは少し異なる文化にも惹かれていました。
早朝に放送されていた実験的な子ども向け番組『ウゴウゴルーガ』、不条理ギャグ漫画というジャンルを確立した吉田戦車さんの『伝染るんです。』、そして岩井俊二さんの名を一気に広めた『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』などは、今の自分を形づくるうえで大きな影響を与えた作品で、今から思えば「サブカルこじらせ女子」としての萌芽が見られます。

30年前から変わらず愛され続けている漫画やゲームがある一方で、当時のテレビ番組には、今では受け入れがたい企画や構造もありました。
今の価値観のほうが健全で、私自身も望ましいと思っていますが、子どもの頃にキラキラして見えていたものが対極の方向へと変容していく様子には、少し切なさも感じます。

長々と当時の文化を振り返ってきましたが、ここからは、まさにその時代に中学生だった私がやりとりしていた「30年前の手紙」の話に移りたいと思います。

どんな相手と文通をしていたのか

文通相手との関係は、大きく二つに分けられます。
ひとつは同じ中学の同級生、もうひとつは部活動や受験を通じて知り合った他校の同級生です。

残念ながら、今では誰とも連絡を取っていません。
SNSのない時代、卒業や引っ越しなどの環境の変化をきっかけに、自然と疎遠になっていったようでした。

学校の友達の中で、特にやりとりが多かったのはN子ちゃんでした。
吉田戦車さんの『伝染るんです。』を貸してくれ、私をサブカルの沼へといざなった張本人です。
祖母が営む小さなお店で、春だけ販売される手作りの草餅が絶品だったこともよく覚えています。
残っている手紙は約20通。切手が貼られていないことから学校で手渡ししていたようで、しかも同じ「りぼん」の付録の便箋が多いことから、短い期間に集中的に交換していたのだと推測されます。

次に手紙が多かったのは、『ウゴウゴルーガ』仲間のJ子ちゃん
言動がとにかく予測不能で、『すごいよ!!マサルさん』のマサルさんを女の子にしたらこんな感じかも、と思わせる子でした。
それでいて字は綺麗で絵も上手。切り抜いた写真を貼ったり、飾り文字をあしらったりと、読み手を楽しませる工夫が随所にあります。
中学卒業後の手紙には、「(中学校の名前)のレベルはかなり高かったね」と綴られていました。

振り返ると、あの文化的施設がなにもない地域で、サブカル傾向の女子が複数いたという事実は、今思えば興味深いものがあります。

手紙を読み返して驚いたのは、当時の私は流行していたコンビ芸人に影響され、友達と「コンビ」や「トリオ」を組んでいたことでした。
N子ちゃんとのコンビに加え、J子ちゃん・R菜ちゃんとのトリオまで結成し、自分がそのプロデューサー役まで担っていたようです。
さらに、J子ちゃんの手紙には、私がフジテレビのアナウンサーになったときの姿まで想像して描かれていて──。

この2人のほかにも、同じ学校の友達との手紙がたくさん残っていました。
中学生の最大の関心ごとである「好きな人」の話題も多く、当時の甘酸っぱさがそのまま残っています。

それにしても、これだけの手紙が手元に残っているということは、相手の家にも、私が送った手紙が同じだけ残っている可能性があるということです。
30年前の自分の言葉に今さら意味があるとは思えませんけど、その可能性を思うと、なんともむずがゆい気持ちになります。

続いて、他校の友達とのやりとり振り返っていきたいと思います。
環境的に他校の同級生と知り合う機会は多くなく、相手は2名に限られていました。

最も多く手紙が残っていたのは、軟式テニス部の練習試合で知り合った同級生、N子ちゃんです
どちらの中学も強豪校ではなく、私自身も下から数えたほうが早いレベルだったため、「試合がきっかけで仲良くなった」というより、なんとなく話すようになり、そのまま文通に発展したのだと思います。

1年生の夏から文通が始まり、3年間で20通近い手紙が残っています。
同じ学校の友達との内輪ノリとは違い、環境が異なるからこそ生まれる「私は最近こんな感じだけど、そっちはどう?」という近況交換が中心でした。

もうひとりは、高校受験で知り合った同級生のNちゃん
手紙を読み返すと、受験会場で会ったばかりの相手に『ウゴウゴルーガ』を布教し、しっかりファンにしている様子が書かれていました。
自分が田舎に住んでいることもネタにしていて、今よりずっと自然に「自分のキャラをどう立てるか」を意識していたように思います。

Nちゃんの手紙には、人を前向きにさせる言葉がいくつも並んでいました。
都内の私立高校に進んだ彼女は、多様な価値観に触れる機会も多かったはずです。そうした幅広い人間関係の中で、自然と人のいいところに目を向け、言葉にする力が磨かれていったのでしょう。
固定的な人間関係の中にいた私にとって、そのしなやかなコミュニケーションは新鮮で、どこかまぶしく映りました。

どちらの友達とも、短い出会いをきっかけに連絡先を交換し、手紙を続けていたという事実は、今振り返っても驚きです。
30年前の私は、新しい人とのコミュニケーションにとても積極的だったことが窺えます。

* * *

ここまで手紙を読み返して、ひとつ感じたことがありました。
それは当時の私と、手紙を交わしてくれた友達への込み上げる感謝でした。

人と関わることを楽しみ、ただ、楽しいから書く──そんな初期衝動に突き動かされたやり取りが私にも存在していたことを、30年前の手紙が思い出させてくれました。

同時に、なぜ私はここまで変わったのかという疑問も浮かびました。
あれほどコミュニケーションに積極的だった私が、今では距離を置くようになったのはなぜか。

その背景には、何らかの理由があるはずです。

中学生の私と今の社会人の私

整理のために、中学生だった頃の私と、今の社会人としての私のコミュニケーションの特徴を表にまとめてみました。

あらためて並べてみると、「なぜ社会人になってから、コミュニケーションの楽しさが薄れていったのか」がよくわかります。

まず、コミュニケーションの主体の変化です。
中学生の頃は、自分の感情や興味が会話の中心にありました。
でも社会に出ると、主体は「自分」ではなく「組織」へと移り、立場や役割を踏まえて話すことが前提になります。

それにともない、目的も変わりました。
楽しいから話すのではなく、「仕事を前に進めるため」「役割を果たすため」といった成果を基準としたコミュニケーションが中心になります。
気づけば、調整や合意形成のための手段として会話が扱われることが多くなっていました。

そしてもう一つ、大きな壁になったのが関係性の変化でした。
明確な上下関係のある環境にあまり身を置いてこなかった私は、社会に出てその構造と向き合うことになり、大きな戸惑いを覚えました。
内容よりも立場が優先される非対称性のあるやり取りは、私にとって強いストレスとなっていきました。

さらに、私にとっては「新しい環境」でも、そこはすでに人間関係が出来上がったコミュニティであることが多く、馴染もうとしても空回りし、仲間として受け入れられなかったり、攻撃的な扱いを受けることも少なくありませんでした。

そういう場では、自分の意見を出すよりも、相手の話をおとなしく聞いているほうが安全だと感じる場面が増えていきました。
その積み重ねのせいか、社会に出てからの私は、どこか愚かであることを期待されているような感覚すら抱くようになりました。
同じ環境でうまく立ち回る人を見るたびに、「自分に問題があるのかもしれない」と感じてしまうこともありました。

こうした状況が重なっていくうちに、コミュニケーションは次第に楽しさから遠ざかり、むしろ苦痛に近いものへと変わっていきました。


これからの私の向き合い方

そんなときに手元へ戻ってきたのが「30年前の手紙」でした。

読み返してまず驚いたのは、「あの頃の私は人と関わることを楽しんでいた」という事実でした。
その気づきをきっかけに、「今の自分に活かせることはないだろうか」という視点で、改めて振り返りを始めました。

ところが見直すうちに、そもそも前提そのものが大きく変わっていたことに気づきました。

あの頃のやりとりには立場も役割もなく、「自分主体」の純粋なコミュニケーションが中心でした。
一方で社会に出ると、やりとりの多くは「組織主体」となり、自分の楽しさよりも、役割の遂行や成果の達成が優先されていきました。
この変化は、私個人の努力ではどうにもならないものでした。

言い換えれば、社会に出るとコミュニケーションの前提は大きく変わり、「楽しさ」が薄れていくのは、ある意味では避け難いことだったのかもしれないと、今更ながら思い至ったのでした。

もちろん、社会人になっても人間関係を自然に楽しめる人はたくさんいますし、私自身の性格が影響した部分もあると思います。
さらに言えば、中学生のときだってすべてが楽しかったわけではなく、社会に出てからも、良い関係を築けた経験もあります。

それでも、今感じている人間関係の辛さをの原因を自分に求めがちだった私にとって、実際には、構造的な変化が大きな要因だったと気づけたことは、大きな救いとなりました。

そしてもうひとつ、読み返す中で思い出したことがあります。
──私はもともと、書くことが好きだったという事実です。

ここ数ヶ月、『鳥との暮らし』『体重・体脂肪率・骨格筋率』『ハオルチア・オブツーサ』などを10年単位で振りかえりながら、「ああ、やっぱり書くのって楽しい」と素直に思えました。
中学生の頃、友達に手紙を書くのが楽しかったように、今の私はnoteで文章を書くことが楽しいんですよね。

気づけば、もうすぐ50代です。
人生100年時代で言えば、ちょうど前半が終わろうとしているところ。
この折り返し地点にいる今だからこそ、「楽しいから書く」という初期衝動を少し取り戻しつつ、これからも人生の節目や気づきをnoteに綴っていけたらと思っています。


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