大條実頼(着座大條家第一世)【中】
前編はこちらをご覧ください。
兄である大條宗直と共に、伊達政宗に仕え、大條家歴代の中でトップクラスの才覚を遺憾なく発揮したことで、大條家で初の分家を立ち上げ、以降の大條家に絶大な影響力を残している大條実頼について記述いたします(中編)
1. 大崎・葛西一揆と蒲生氏郷との折衝
天正18年(1590年)6月9日、伊達政宗は小田原へ出向いて関白 豊臣秀吉に謁見し、遅参の罪を許されました。
しかし、これ以降、伊達家と大條実頼にとって試練の連続が始まることとなります。
豊臣秀吉による「奥州仕置」により、小田原へ参陣しなかった葛西晴信や大崎義隆は改易となり、両氏の旧領であった13郡には豊臣家の木村吉清が新領主として配されました。
葛西領は大條実頼が使者として頻繁に訪れていたゆかりの深い地域です。
しかし、新領主 木村吉清の悪政や非道に反発した旧臣や領民により、やがて大規模な「大崎・葛西一揆」が勃発します。
大崎・葛西一揆
1590年に陸奥国1590年に陸奥国(現・宮城県)で発生した豊臣秀吉の奥羽仕置に対する反乱です。
豊洲秀吉は葛西氏や大崎氏の旧領を没収し、木村吉清・清久父子を新領主として封じました。
しかし、木村父子は旧葛西・大崎の家臣を冷遇し、木村家譜代の家臣による乱暴狼藉が相次いだため、その悪政に苦しんだ旧臣や領民が大規模な一揆を起こします。
一揆は広範囲に拡大し、木村父子は佐沼城に追い込まれることとなりました。
奥州仕置を終えて京都へ帰還する途中であった浅野長政は、白河城で一揆発生の報を受けると、一揆の鎮圧と佐沼城に追い詰められた木村吉清・清久親子の救出を、伊達政宗と会津領主 蒲生氏郷に命じました。
天正18年(1590年)10月26日、蒲生氏郷と伊達政宗は下草城で作戦会議を開き、11月16日に共同で一揆鎮圧を開始することを決定します。
しかし、作戦前日の11月15日、伊達家の須田伯耆が蒲生氏郷の陣を訪れ、「一揆を裏で扇動しているのは伊達政宗である」と密告しました。
さら祐筆の曾根四郎助も内通して密書を提示。
そこには一揆勢へ蒲生軍の情報を流し、蒲生氏郷を討ち取ったうえで伊達軍単独で木村親子を救出し、功績を独占する計画が記されていました。
この密告を受けた蒲生氏郷は伊達政宗への警戒を強め、単独で名生城を攻略して籠城。
豊臣秀吉へ伊達政宗の疑惑を報告するとともに、一揆勢と伊達軍の双方に備えました。
豊臣秀吉は直ちに石田三成を現地に派遣します。
一方の伊達政宗も独自に行動を開始し、11月24日には佐沼城を包囲する一揆勢を激戦の末に破り、木村親子を無事に救出しました。
伊達政宗は木村親子を名生城の蒲生氏郷のもとへ送り届けますが、蒲生氏郷の警戒心は解けず、安全保障の人質として伊達家の重臣である伊達成実や叔父 国分盛重を要求。
蒲生氏郷は人質をとったまま名生城に籠城して年を越すという、極めて緊迫した事態に陥りました。
この緊迫した渦中、蒲生氏郷との直接交渉という極めて困難な大役を命じられ、名生城へ派遣されたのが大條実頼でした。

(西光寺蔵)
蒲生氏郷(1556-1595)
織田信長、豊臣秀吉に仕えた戦国大名。
キリシタン大名としても知られ、伊勢松坂や会津若松の領主として領地経営や城下町整備に尽力。
会津若松城の築城で名を残し、文武両道の名将として評価されています。
2. 名生城の裏で交わされた伊達政宗からの密書
この緊迫した交渉の渦中において交わされた書状が残されており、当時の緊迫した空気感をリアルに伝えています。
蒲生氏郷 から 大條実頼(12月6日)
兩人マテノ御礼、披見申候、
政宗御心深對ニ、上意無御別義候由、
不及中候、我等ハ又政宗ヘ雑説申懸候而更入候、
皆人ノ申ナシニテ候歟、クチオシク候、我等ハ先日モ度々馬一騎ニテ政宗へ參候ツル、疑心ヲ存ハ、
左様ニ可在之候哉、御目ニモ見へ可申儀候、トカク人口不審干萬ニ候、一 唉一唉、淺六右マテ存分申候、恐々謹言
返々、今以氏郷心中者別儀無之候、
下々之口ヲカシク候、
筑後殿へモ御意得頼申候、
御兩人御迷惑察申候、以上
忠三
氏郷御判
十二月六日
大枝越前守殿
二人への御礼、拝見いたしました。
伊達政宗殿の心遣いが深く、上意(豊臣秀吉の意向)に異議がないとのこと、特に問題はないようです。
私もまた、伊達政宗殿に対して雑談を交わしましたが、特に問題はありませんでした。
皆が言うようなことはないようです。口惜しいことですが、私は先日も度々、馬一騎で伊達政宗殿のもとへ参りました。
疑心を抱くようなことはありません。
そのようなことがあってはならないでしょう。
御目(豊臣方)にもはっきりと見えるはずです。
どうしても人々の口に不審がられることが千万にありますが、まあまあ、浅野正勝に存分に申し伝えてください。
恐れながら謹んで申し上げます。
繰り返し申し上げますが、今のところ私の心中には別段の異議はありません。
下々の者たちの口がうるさいようです。
筑後殿にも、その旨を伝えておいてください。
お二人(伊達政宗と大條実頼)にはご迷惑をおかけしているかと察しております。以上。
忠三
蒲生氏郷 御判
十二月六日
大條越前守殿
表向きは「伊達政宗公を深く信頼している」と記しながらも、蒲生氏郷は依然として名生城に人質をとって籠城しており、言葉通りの信頼関係でないことは明白でした。
そして、現地で命懸けの折衝を続ける大條実頼へ向け、伊達政宗から直接送られた密書がこちらです。
伊達政宗 から 大條実頼(12月6日)
其後ミやうのやうたひ無心元候、
此返事ニ待入候、
一たん正殿ハ、ふち山ニたひりう候へく候。
又今朝六右衛門殿ことハりニハ、大森まて被打出越之由ことハりニ候、
六右衛門も此方ニ在陣ニて候、かミかたよりハ、
只今迄無其義候、いかあるへく候や、
一かねて弓すきのしゆも、さむさゆへ、かほとのひ候ゆへか、
ミな(繰り返し)ふすきになり候やうたひに候へく候、
とかくはるこし候てよりほか、弓なるましきやたうひニ候、
さても(繰り返し)むねんの事のミニて候、かたりたき事、
うみ山ニ / \ / \ / \、めつらしき事候は、自是可相理候、謹言
十二月十ニ日 政宗御判
大越
仙台市史編さん委員会『仙台市史 資料編 10』2005年
一、その後の名生城の状況について心配しております。このお返事をお待ちしております。
一、浅野長政殿は二本松に滞在しております。
また本日、浅野正勝殿が出陣の辞退を申し出、大森まで退くと申すため、その許可を出しました。
なお、六右衛門殿もこちら(大崎)に在陣しておりますが、上方(豊臣方)からは今のところ特に目立った動きはありません。
一体どのような意図や動きがあるのでしょうか。
一、弓を扱う兵たちも、寒さのためか顔や手が凍えて満足に弓を使えなくなっているように見受けられます。
春が訪れてからでなければ、満足に弓を引ける状況にはならないでしょう。いずれにしても心残りなことばかりです。
さて、貴殿と語りたい話は、海や山に例えたとしても尽きることはありません。
何か動きがあれば、追ってこちらから知らせる予定です。謹んで申し上げます。
12月12日 伊達政宗(御判)
大條越前殿
さらに翌年正月、事態が破局へ向かいかねない中、伊達政宗は大條実頼へ次の指示を与えています。
伊達政宗 から 大條実頼(天正19年1月10日)
新年之吉慶、珍重ニ候、仍、其地ニ久々、
在留、大義、殊、徒然察入候、八幡々々、
日夜之様ニ思□候、然者、大一揆城々明渡義、
不通、申払候哉、兼日此うへハ、とかく出馬候て、
うちはたす外、無之候、中 / \ニ、只今よく候、
其ゆヘハ、此度城請取事相澄候者、上洛之事を、必々
弾正殿さひそくあるへきもやうに候ける、
□ かるときハ、おく口ニこりむすひ候事、
先々能候、其内、かみのとなへ、是非共ニ、
可相聞候間、何篇輒候、とても/\
近日中、其口へ相下事ニ候間、
其まゝ滞留、尤ニ候、恐々謹言
正月十一日
政宗御判
大越
仙台市博物館/編『市史せんだい vol24』2014年
新年を迎えられましたこと、お祝い申し上げます。さて、貴殿が長期にわたりその地に留まり、任務に当たっていること、実に「大義」であり大変なご苦労であると感じております。
焦燥の中で過ごされているのではないかとお察しし、日夜、八幡大菩薩に祈りを捧げている次第です。
大崎・葛西一揆に関連し、城々の明け渡しが進まない件についてです。
話し合いがつかず、解決に至らない状況なのでしょうか。
このままではどうにもならないため、いよいよ私自らが出馬し、武力で解決するほか道はないと考えております。
しかし今はまだ準備が整っておらず、慎重に進めるべき時期です。
特にこのような状況下で、城の引き渡しが無事に完了すれば、上洛についても浅野長政殿から激しい催促があることでしょう。
大崎の平定が遅れれば、後々豊臣政権に対して重大な問題を生む恐れがあります。
そのため、まずはこの地をしっかりと鎮圧することが最優先となります。
その経緯や結果については、何としても上様(豊臣秀吉)へ報告しなければなりません。
詳細は追って伝えますが、ともかく近日中にそちら(大崎方面)へ向けて下向いたしますので、しばらくそのまま現地に滞在し、引き続き対応を指揮してください。恐れながら申し上げます。
正月十一日 伊達政宗(御判)
大條越前殿
3. 大條実頼の外交力と葛西家との強固な絆
蒲生氏郷は人質であった伊達成実や国分盛重を伴い、正月元旦に会津若松城へ帰還しましたが、大條実頼は引き続き現地に留まり、戦後処理に奔走しました。

仮に伊達政宗が本当に大崎・葛西一揆を裏で煽動していたとすれば、大條実頼は旧大崎・葛西の家臣たちに対し、蒲生氏郷や石田三成らの取り調べに対する厳密な口裏合わせを行っていた可能性が極めて高いと考えられます。
ここでも、大條実頼が長年培ってきた葛西家との強固なコネクションと卓越した交渉術が存分に発揮されました。
伊達政宗が一揆を扇動した理由としては、主に2つの説があります。
1つは、木村吉清を失脚させて自身の領土を拡大しようとしたという説。
もう1つは、木村吉清の乱暴狼藉に苦しむ大崎・葛西の領民に対する義侠心からだったという説です。
いずれにせよ、伊達政宗は大崎・葛西の現状を見過ごすことができなかったのでしょう。
葛西(大崎)へ幾度も使者として赴いた大條実頼も、同様の考えを持っていたと考えられます。
ちなみに、大條実頼の二人目の正室である「藤沢近江の娘」の父 藤沢近江は、葛西家の家臣でした。(一人目の妻 中山大蔵の娘は蘆名家臣の娘)
この婚姻関係からも、大條実頼と葛西家臣団との結びつきが単なる公式使者を超えた、極めて強固で深いものであったことが窺えます。
もしかしたら、大條実頼は伊達政宗の一揆扇動が露呈した後に大崎へ入り火消し活動を行ったのではなく、伊達政宗の命を受けて、自らも一揆扇動の工作に関わっていた可能性もあり得ると思います。
4. 命懸けの上洛と「鶺鴒の花押」
天正19年(1591年)1月、一揆煽動の強い疑いをかけられ、豊臣秀吉から厳しく喚問された伊達政宗は、明けて2月に決死の覚悟で上洛します。
これは伊達政宗にとって初の上洛であり、文字通り首が飛ぶかもしれない決死の弁明の旅でした。
大條実頼もこの命懸けの上洛に随行しています。

KKベストセラーズ『歴史人』
平成27年12月6日発行・発売より
(6番目に「大條越前守」の名前があります)
当時の「上洛供衆注文(仙台市博物館蔵)」によると、伊達政宗率いる138名の精鋭お供衆の中で、大條実頼は6番目という極めて高い順位に名を連ねています。
伊達家に帰参してわずか3年足らずで、並み居る譜代の重臣たちを抜いて上洛供衆のトップ6に位置していたという事実は、伊達政宗がいかに大條実頼を頼りにしていたかを物語っています。
この上洛において、伊達政宗は有名な「鶺鴒の花押」を用いて見事に死罪を免れましたが、ペナルティとして先祖代々の本拠地であった伊達・信夫・長井など6郡(約72万石)を召し上げられ、代わりに一揆で荒廃した大崎・葛西13郡(岩出山58万石)へ減転封となりました。
この煽りを喰らう形で、兄 大條宗直もまた、大條宗行以来176年にわたり代々命懸けで守り抜いてきた本領 伊達郡大枝の地を失うという、断腸の思いを味わうこととなったのです。

(狩野光信画)
5. 文禄の役と大條兄弟
文禄元年(1592年)、豊臣秀吉の文禄の役が命じられると、大條実頼は伊達政宗に従い、遥か名護屋城から海を渡りました。
この文禄の役には、兄 大條宗直とともに大條兄弟が揃って陣中に加わっていたことが記録されています。

『伊達治家記録』の出陣名簿(約120名)によれば、約120名ほどの軍勢の中、大條宗直は7番目、大條実頼は15番目に名前が記されています。
そして、何よりも大條兄弟が揃い踏みするこの光景は、なんともエモいですね。
記録としては、天正16年(1588年)11月に伊達政宗から御茶を賜った時以来の兄弟共演です。
なお、大條実頼はそれまで通称を「越前」と名乗っていましたが、この時期から後年の通称として知られる「薩摩」の名を使い始めています。
戦国時代が最終盤へ向けて加速する中、大條実頼の縦横無尽な活躍はさらにスケールを増していきます。
その後半生につきましては、次回の【下】にて詳しく記述いたします。
◼️参考資料
佐藤司馬『大條家坂元開邑三百五十年祭志』1966年
人物往来社『戦国史料叢書 第2期 第11』 1967年
平重道『伊達治家記録』1973年
歴史図書社『仙台藩家臣録 第1巻』 1978年
仙台市史編さん委員会『仙台市史 資料編 10』2005年
仙台市博物館/編『市史せんだい vol24』2014年
KKベストセラーズ『歴史人 通巻61号』2015年12月6日
