大條実頼(着座大條家第一世)【下】
兄である大條宗直と共に、伊達政宗に仕え、大條家歴代の中でトップクラスの才覚を遺憾なく発揮したことで、大條家で初の分家を立ち上げ、以降の大條家に絶大な影響力を残している大條実頼について記述いたします(後編)
文禄2年(1593年)、豊臣秀吉の命による文禄の役へ赴いた大條実頼は、4月に渡海し9月中旬に無事帰国を果たしました。
その後、兄 大條宗直が伏見留守居役として3年間京都に滞在したのに対し、大條実頼は国元へ戻り、留守居役として伊達領の治世を力強く支えていたと考えられます。
1. 異例の奉行就任と「薩摩」への改名
慶長3年(1598年)12月27日、大條実頼は540石を加増され、知行高1,000石となりました。
それまで尾山金津(現在の宮城県角田市)に所領を有していましたが、この時に伊具郡丸森の地を与えられたとされています。

(丸森町観光案内所Webサイトより)

そしてこの時、大條実頼は仙台藩最高職である「奉行職(家老)」へ大抜擢されました。
片倉景綱、茂庭綱元、奥山兼清、屋代景頼に続いてわずか5人目となる、まさに藩政の金字塔的な要職への就任でした。
・年未詳 片倉景綱
・天正14年(1586年)茂庭綱元
・天正19年(1591年)奥山兼清、屋代景頼
・慶長3年(1598年)大條実頼
おそらく、文禄2年(1593年)から慶長3年(1598年)までの5年間、伊達領の留守居役として数多くの功績を挙げたのでしょう。
しかし、ここで注目すべきは、片倉、茂庭、奥山、屋代は全て各家の当主ですが、大條実頼は大條家の分家(当主 大條宗直の弟)という身分であり、このタイミングでの奉行職就任は異例でした。
この時、兄の大條宗直は大枝村から遠く離れた志田郡蟻ケ袋に留め置かれており、名実ともに大條実頼は兄を超える存在となっています。
ちなみに、この奉行就任のタイミングで、大條実頼は嫡子である大條元頼(着座大條家第二世)に家督と丸森の領地を譲り、自身は丸森とは別に伊具郡耕野・大蔵両村のうち700石を新たに賜ったとの記録があります。
隠居後は大條実頼の傘下で計1,700石となり、大條本家の2,000石と肩を並べるほどの知行高となりました
また、この時期の『伊達治家記録』には、大條越前という通称から大條薩摩へ改名した経緯が記載されていました。
薩摩ハ越前改名ナリ、去る天正十九年、公越前守御兼任ノ時ニ仰付ラル
つまり、天正19年(1591年)3月、伊達政宗は侍従に遷任し、越前守を兼任したため、その際に大條実頼に対して「越前」の通称を改めるよう命じていたようです。
2. 慶長出羽合戦
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いと連動して東北で勃発した「慶長出羽合戦」において、伊達政宗は上杉景勝軍に攻め立てられる最上義光を救援するため、叔父 留守政景を総大将とする軍勢を山形へ派遣しました。
大條実頼は津田景康や成田重継とともに陣将として参戦し、長谷堂城の激戦へ身を投じます。
慶長出羽合戦(1600年)
関ヶ原の戦いの際に東北地方で勃発した戦いです。
上杉景勝が最上義光の領地に侵攻し、両者の間で激しい戦闘が繰り広げられました。
この時、伊達政宗は最上家の救援に駆けつけ、上杉軍との戦いに加わりました。

(米沢市上杉博物館蔵)
長谷堂城の戦いは、直江兼続率いる上杉軍18,000が最上家の重要拠点である長谷堂城を包囲し、最上家重臣 志村光安が1,000の兵で防戦した戦いです。
伊達政宗は最上義光の援軍要請を受け、叔父の留守政景率いる3,000の兵を派遣。
伊達軍は9/21に山形城の東側に着陣し、9/24には最上軍と連携して上杉軍に対峙しました。
上杉軍は9/29に総攻撃を仕掛けますが、志村光安の奮戦と伊達軍の援護により撃退され、上杉軍の武将 上泉泰綱を討ち取るなどの戦果を挙げました。
10/1に関ヶ原での西軍敗北の報が届くと、直江兼続は撤退を開始。
最上軍と伊達軍は追撃し、上杉軍に大打撃を与えました。
この戦いで最上家は領地を守り抜き、伊達家の援軍が勝利に大きく貢献しました。

(山形県山形市最上義光歴史観所蔵)
伊達軍は上杉景勝配下の直江兼続率いる大軍と死闘を繰り広げ、80から100の首級を挙げる大戦果をあげました。
この激戦の中で大條実頼自身も前線に立って刀を交え、負傷を負ったことが記録されています。
大條薩摩実頼モ、自ら戦テ疵ヲ被ル。薩摩圓居ノ武頭菅井藤兵衛安國、戸上山ノ邉ニ於いて、組ノ者ヲ引退セント自ラ殿シテ下知ス。
大條薩摩守実頼も、自ら戦いに挑み、傷を負った。
また、大條実頼の家臣である武士団の頭、菅井藤兵衛安國は、戸上山の辺りにおいて、組の者たちを退却させようと、自ら殿軍を務め、指揮を執った。
昨日合戦之様體、御手前比類由、不始義ニ候、
殊百餘人波被討捕之由、大慶ニ候、
大合戦ニ付而、定面味方ニモ手負可有之候、
又于今敵残候由承候間、茂石見、屋勘、湯信、奥興一、早打申付候、
明日者過半モ可為ニ着陣候間、可御心安候、恐々謹言
皆々江書状遣度候得共、急候間無其義候、
皆々骨オリ大義之由申度候、必々各江比由可被仰候、
大サツマ手負申之候、無心元候、
又比書出羽殿江御居尤候、カシコ
十月二日 政宗(御書判)
伊上州
昨日の合戦の様子について、あなたの働きは他に並ぶものがないと伺いました。その勇敢な行動はまことに立派で、素晴らしい限りです。
特に、敵兵100人余りを討ち取ったとのことで、大変喜ばしく存じます。
今回のような大規模な合戦に付きものですが、味方にも手負(負傷者)が出るのは当然のことと思います。また、現在でもなお敵が残っていると聞きましたので、茂庭綱元、屋代景頼、湯村親元、奥山兼清らに急いで討ち取るよう命じております。
明日には、軍勢の過半が到着する予定ですので、ご安心くださいませ。謹んで申し上げます。
皆々へ書状を差し上げたいところですが、急な状況のためそのような手はずを取ることができません。
それぞれの骨折りに対して、大いに感謝している旨を必ず皆に伝えてください。
なお、大條実頼が負傷したとのことですが、命に別状はないと伺いましたので安心しております。
また、この手紙を最上義光殿にも届けるよう手配しております。
以上、申し上げます。
十月二日 政宗(御署名・花押)
留守政景殿へ
負傷は幸い軽傷であり、合戦後も大條実頼は仙台藩奉行として草創期の藩政を支え続けました。
なお、この翌年(慶長6年)には四男 大條宗頼(後の大條家第九世)が誕生しています。
ここで興味深いエピソードをご紹介します。
慶長9年(1604年)2月には牡鹿郡遠島へ赴き、伊達政宗とともに鹿狩りを行ったことが『伊達治家記録』に記録されています。
直ニ牡鹿郡遠島へ御出、御鹿狩アリ。
今度御供ノ輩、茂庭石見、屋代勘解由兵衛、大條薩摩、(中略)、大條市蔵、(中略)、藤田少的等ナリ。
同じ奉行職の茂庭綱元や屋代景頼も参加し、総勢16名で鹿狩りを楽しんだ様子が伺えます。
この和やかな雰囲気は、天正16年(1589年)頃の情景を思い起こさせます。
当時、22歳の伊達政宗と33歳の大條実頼という若き2人は、鉄砲を撃ったり、碁を打ったり、相撲を取ったり、謡の練習をしたり、来客との会食に同席したりと、まるで友人同士のような親しい関係を築いていました。
しかし、やがて戦国の動乱の渦に飲み込まれ、数々の合戦や政変によって、『伊達治家記録』からはあのリラックスした雰囲気がすっかり消え去ってしまいました。
時が流れ、戦乱の世が落ち着きを見せたことで、久しぶりにあの時代の穏やかな空気を感じることができます。
3. 相次ぐ身内の不運と家系存続への奔走
慶長15年(1610年)8月9日、兄である大條宗直がこの世を去り、その嫡子(大條実頼の甥)にあたる大條宗綱が大條家第八世となりました。
当時、大條宗綱は26歳と若輩であったため、叔父であり仙台藩奉行職を務める大條実頼は、計り知れないほど心強い存在であったことでしょう。
しかし、そんな中で悲劇が襲います。
慶長20年/元和元年(1614年)1月4日、大條実頼の長男である大條元頼(着座大條家第二世)が、大坂冬の陣で負った傷がもととなり、大坂の地で没してしまったのです。

(大阪城天守閣蔵)
27歳というあまりにも早すぎる死であり、父である大條実頼の痛恨と悲しみは想像を絶するものがありました。
大條元頼には嫡子 大條定頼(のちの着座大條家第三世)が残されていましたが、当時はまだ幼少であったため、大條実頼が再び分家の当主へと復帰することとなりました。
さらに身内の不幸は重なります。
元和3年(1617年)12月、甥である本家当主 大條宗綱(大條家第八世)が公務の地である江戸で客死してしまいます。享年33歳。
死因はコレラであったとも伝えられています。
この大條宗綱の早すぎる死により、大條本家の血統が途絶え、御家断絶という危機が発生しました。
ここで大條実頼はすかさず動き、当時17歳であった自身の四男 大條宗頼を本家の養子とし、大條本家を継承させるべく迅速な働きかけを行います。
その結果、翌年の元和4年(1618年)2月、正式に家督相続が認められ、大條宗頼は大條家第九世の当主となりました。
しかし、元和5年(1619年)4月8日、今度は三男の大條頼廣(大條宗頼の兄)までもが若くしてこの世を去ってしまいます。
大條頼廣は伊達政宗の小姓として仕え、登米郡ほか4ヶ所に200石の知行を与えられて新たな分家を興した人物でありました(平士大條家の始祖)
このように、慶長15年から元和5年にかけてのわずか9年ほどの間に、兄、長男、甥、三男と相次いで身内を失うこととなりました。
しかも長男、甥、三男はいずれも血気盛んな若さで先立っており、大條実頼にとってこの時期は、まさに身を割かれるような辛く厳しい日々の連続であったと言えます。
慶長15年(1610年)兄 大條宗直 (享年不明)
慶長19年(1614年)長男 大條元頼 (享年27歳)
元和3年(1617年) 甥 大條宗綱 (享年33歳)
元和5年(1619年)三男 大條頼廣 (享年不明)
ただ、この間も仙台藩奉行職として藩政の中枢に関わり続けており、慶長18年(1613年)6月には、伊達政宗の娘婿である松平忠輝の越後高田移封に供奉いたしました。

(上越市立歴史博物館蔵)
松平忠輝(1592-1683)
徳川家康の六男。
伊達政宗の娘 五郎八姫を正室に迎え、伊達政宗の支援を得て慶長19年(1614年)に天下普請で高田城を完成させました。
五郎八姫は教養豊かで夫婦仲も良好だったと伝わります。
しかし松平忠輝の不行跡が続き、大坂の陣での不手際もあって元和2年(1616年)に越後高田藩を改易され、配流の身となりました。
五郎八姫は離縁後も実家に戻らず江戸で暮らし、松平忠輝は92歳の長寿を全うしています。
慶長18年(1613年)6月上旬に江戸を出立した松平忠輝一行に随行した大條実頼は、道中の安全確保や宿泊手配といった実務を統括するとともに、松平忠輝の動静を事細かに記録し、伊達政宗へ報告していました。
この供奉には、2つの重要な政治的意味がありました。
1つ目は、伊達政宗が娘婿である松平忠輝の威信を保つため、最も信頼の置ける重臣を同行させたという政治的配慮です。
そして2つ目は、大條実頼が道中の詳細な報告を上げていることから、伊達政宗が松平忠輝の挙動を慎重に見極めようとしていた点が挙げられます。
当時、松平忠輝は徳川幕府からの不信を買い始めており、伊達政宗としても娘婿の動静と処遇を注意深く注視する必要があったのです。
大條実頼に託された役割は、伊達家と松平忠輝、そして徳川幕府の三者を繋ぐ極めて重要なパイプ役であり、伊達政宗の戦略的意図を体現した重大な任務であったと言えます。
このように大條実頼は、伊達政宗から絶大な信頼を寄せられる重臣として、多方面で外交的・政治的役割を果たし続けました。
元和2年(1616年)から元和8年(1622年)にかけて、伊達政宗から大條実頼宛てに送られた藩政に関する書状が数多く残されていることからも、その揺るぎない存在感が窺えます。
(1908)大条薩摩守実頼ほか二名宛書状写
(1941)茂庭石見守綱元・大条薩摩守実頼宛書状
(1985)大条薩摩守実頼宛書状
(2343)大条薩摩守実頼宛書状
(2909)茂庭周防守良綱ほか二名宛書状
4. 天下普請と江戸城改修
伊達政宗からの信頼がますます厚くなる中、元和6年(1620年)には江戸城改修の副名代に任じられ、江戸城の普請に携わりました。
元和6年(1620年)の江戸城普請において、仙台藩は幕府から本丸南西側の石垣修築(約1.4km)と大手門枡形の改修を命じられました。
幕府は外様大名に莫大な費用を負担させることで財政力を削ぎ、統制を強化する狙いがあり、この工事で仙台藩は東北産の安山岩を用い、42万人の労務と2,676枚の黄金を投入しました。
こうした「天下普請」は、伊達家のような外様大名に幕府への忠誠を誓わせる一方で、その勢力を間接的に弱体化させる重要な政策手段だったのです。

(千代田区観光協会HPより)
元和6年(1620年)6月に江戸へ到着し、6月10日には将軍 徳川秀忠から直々に上意を賜る栄誉に預かっています。

(松平西福寺蔵)
仙台藩の副名代として江戸城普請に参加した大條実頼は、延べ42万人以上とされる労務者の配置管理や作業進捗の調整、さらには東北地方から運び込まれる石材・木材などの資材調達を指揮しました。
また莫大な工事費用の適正な執行にも責任を持ち、天下普請の実務面の中核を担ったことが窺えます。
これが大條実頼の最後の大仕事でした。
5. 「大條家中興の祖」としての功績
それから4年の月日が流れ、
寛永元年(1624年)8月9日、陽炎がゆらめく盛夏のころ、大條実頼はその生涯を閉じました。
遠く蝉時雨の聞こえる中、数多の艱難を乗り越えてきた69年の人生が、静かに終焉を迎えたのでした。
大條実頼の訃報は『伊達治家記録』にも手厚く記されており、この事実からも、大條実頼が伊達家においていかに重厚で傑出した存在であったかが、改めて鮮やかに浮かび上がってきます。
八月癸酉小九日辛卯。
奉行大條薩摩藤原實頼死ス(年六十九)
薩摩ハ大條氏ノ庶流ニシテ久ク公ニ仕へ奉り、恩遇侘ニ異ナリ、慶長年中嫡子修理元頼ニ家督ヲ譲り、薩摩隠居ス。其後又薩摩ヲ召出サレ、伊具郡高野大倉ノ兩邑ニ於テ釆地七十貫文ヲ賜り、奉行職ヲ命セラル、
修理元頼ハ去ル慶長十九年正月四日廿七歳ニシテ、
父ニ先タチ死ス、此後修理子金八郎定頼ニ薩摩家督ヲ仰付ラル。
大條実頼は、一貫して大條家の発展と安寧を願って生きてきた人生でした。
わずか5年の間に長男、甥、三男を相次いで亡くしたことは前述の通りですが、この時代は仙台藩成立の過渡期であり、重臣を含む多くの家が無嗣による断絶に直面していました。
事実、次男の元成は大窪家に養子に入りましたが、元成が早世したことで、正保3年(1646年)に大窪家は断絶となっています。
しかし、大條実頼は、大條本家と着座大條家を存続させただけでなく、三男の大條頼廣を祖とする第三の大條家(平士大條家)をも後世に残すことに成功しました。
これは、大條実頼ならではの功績といえるでしょう。
その後、大條頼廣の家系からは仙台藩内でさらなる分家が誕生し、本家・分家を問わずすべての大條家が無事に明治の世を迎えることとなります。
また、大條本家は第九世 大條宗頼(大條実頼の四男)以降、歴代当主が奉行職(他藩でいう家老)を歴任していますが、この「奉行職=大條家」という確固たる地位を築いたのも、大條実頼の尽力によるものと考えられます。
甥の大條宗綱(大條家第八世)は家督相続後間もなく、32歳で奉行職に就任していますが、当時まだ目立った功績を残しておらず、この時期の奉行就任はかなり唐突に感じます。
おそらく、大條実頼の強い推薦や後押しがあったものと推測されます。
このように、仙台藩設立直後に相次いで2名の奉行が誕生したことは、後世の大條家にとって大きなアドバンテージとなりました。
なお、仙台藩歴代奉行の中で、同族から2人目の奉行を輩出したのは大條家が最初の事例です。
仙台藩歴代奉行職 (大條実頼死去まで)
・片倉景綱
・茂庭綱元
・奥山兼清
・屋代景頼
・大條実頼
・津田景康
・髙野親兼
・古田重直
・大條宗綱
・鈴木元信
・石母田宗頼
・奥山常良
・茂庭良元
・遠藤玄信
・山岡重長
大條実頼は、「人生50年」と称されていた当時にあって32歳という遅咲きで伊達家へ帰参しながらも、瞬く間に伊達家の中枢へと駆け上がりました。
その類まれなる才覚と行動力によって大條家初となる分家を立ち上げ、三人の息子を通じて現存するすべての大條家末裔の祖となったのです。
さらに、仙台藩内における大條家の地位を盤石なものとし、後世にまでその輝かしい名を生かすことに成功しました。
大條家という家名の価値を極限にまで高め、今日に至る繁栄の揺るぎない礎をたった一人で築き上げた大條実頼こそは、まさに「大條家中興の祖」と呼ぶにふさわしい絶対的な存在と言えます。
◼️参考資料
佐藤司馬『大條家坂元開邑三百五十年祭志』1966年
平重道『伊達治家記録』1973年
歴史図書社『仙台藩家臣録 第1巻』 1978年
仙台市史編さん委員会『仙台市史 資料編 11』2005年
仙台市史編さん委員会『仙台市史 資料編 12』2005年
金田豊子『大條家文書』2022年
大石学『首都江戸の誕生 大江戸はいかにして造られたか』2002年
本田勇『仙台伊達氏家臣団事典』2003年
