大條家と伊達天正日記【1】
『伊達天正日記』とは
天正15年(1587年)から同18年(1590年)にかけて、伊達政宗の側近によって記された公的な日記です。この時期は、伊達政宗が21~24歳の若き当主として南奥羽で活動していた時代であり、戦国末期の東北地方の政治情勢を知る上で極めて重要な史料とされています。日記の内容は、当初は伊達政宗の日常生活や鷹狩りなどの平穏な記述が中心ですが、次第に戦争や外交交渉に関する記録が主体となっていきます。特に天正17年(1589年)の蘆名氏攻略と会津黒川城入城、豊臣政権との交渉過程は詳細に記されており、伊達家の戦略や外交方針を考察する上で貴重な情報を提供しています。複数の右筆によって日々記録され、江戸時代に編集されたものの内容は改変されておらず、信頼性の高い一次史料として評価されています。
1. 『伊達天正日記』の概要
『伊達天正日記』には、大條宗直(大條家第七世)と大條実頼(着座大條家第一世)に関する興味深い記述が数多く残されています。
これらは当時の大條家の動向や役割を理解する上で貴重な手がかりとなりますので、紹介していきたいと思います。
現代語訳は、素人の私が独自に翻訳したものであり、学術的な正確性を保証するものではありません。
あくまで参考程度にご利用いただき、必要に応じて専門資料をご確認ください。
2. 天正15年1月19日:史料初出と新年祝賀
天正15年(1587年)1月19日
一、御礼衆大枝殿・資福寺いんしゆ・御いてき、御せうふ無之候、申ノ刻伍かへり、晩ハ小納言殿にて御申、天氣よし、
天正15年(1587年)1月19日
一、御礼衆の大條宗直殿と資福寺の院主がお出でになりました、争いや競い合い(勝負)はなく平穏な1日でした。申の刻(午後4時頃)に戻り、晩には小納言殿にてお話し申し上げました。天気は良かったです。
記念すべき大條家の初出はこちらです。
資福寺は、伊達輝宗(伊達家第十六世)が虎哉宗乙を招いて住職とし、伊達政宗の教育を任せた寺院です。そのため、「院主」とは虎哉宗乙かと思いましたが、前年に伊達輝宗の菩提を弔うために覚範寺を開山していることから、この当時は別の院主が務めていたと思われます。
3. 天正15年9月13日:「鉄砲鴨」献上
天正15年(1587年)9月13日
一、天氣中、暮方御馬とも御覧し候、つき毛馬・鹿毛・ひはりの御馬、くまさか鹿毛めさせられ候、
青黒之御馬も、鹿俣主殿助あゆもたせ罷帰られ候、大枝殿より鉄炮鴨二ツ上御申候、
黒川鴈取、田村宮内大輔殿へさしこされ候、
天正15年(1587年)9月13日
一、天気が良い中、夕方に馬をご覧になりました。
鴾毛の馬・鹿毛の馬・ひばりの馬、そして熊坂の鹿毛の馬をご覧になりました。青黒い馬もあり、鹿俣主殿助がその馬を引いて帰りました。
大條宗直殿より鉄砲で撃ち落とした二羽の鴨が献上されました。
黒川で雁を捕らえ、田村宮内大輔殿に差し入れました。
大條宗直から献上された鉄砲鴨が届きました。
この鴨は狩猟の成果としての贈り物であると同時に、武芸の腕前や忠節を示す意味合いもあったと考えられます。当時の慣習として、生鮮品を領主自らが運ぶことは稀であり、特に遠隔地の場合は信頼できる家臣や専属の運搬役である飛脚などを使者として立てて献上するのが一般的だったようです。
この鉄砲鴨も、そうした使者を介して届けられたものと見るのが妥当でしょう。
4. 天正15年9月26日:大條実頼の初出
天正15年(1587年)9月26日
一、天氣吉、中津河より御鶏参候、
すもゝ山より若兄罷出候、
晚ニ春親さま・大越・ミ式
御茶之湯にて御めし、
一、天気は良い。中津川から御鷹(鶏)が到着し、すもも山から若兄が出てきた。夕方には、藤田春親様、大條実頼、大嶺信祐と茶の湯を楽しみ、食事を共にした。
大條実頼の初出はここです。場所は米沢城に新造された御数寄屋(茶室)でした。
この茶室は6日前に落成したばかりで、伊達政宗は連日客人を招いており、その流れで大條実頼も招待されたようです。
こちらの通り、通説では大條実頼は天正16年(1588年)4月に伊達家へ帰参したとされていますが、早ければこのタイミングで伊達家に帰参していた可能性もあります。
5. 天正16年1月12日〜13日:米沢城での年始挨拶
天正16年(1588年)1月12日
そと雪ふり申候、暮ニ御れい衆
大立目殿一座
大枝殿
下いゝさか殿
其外山ひかしのさいかう衆、長井之さい郷衆、
其後御名かけ衆二百人。 夜ニ入候て、
瀬上殿
大町殿
成田殿
御めき被下候、御相伴藤田殿・松雲齋・七伯・豆州・江州、御酒半之時分、瀬上殿さし刀上御申候
御館より御こし被下候、御相伴衆刀御らんせられ候、御座過候て浜田之方へ御代物二百疋披下候
天正16年(1588年)1月12日
一、外は雪が降っています。夕暮れ時に御礼の挨拶に来た人々がいました。
大立目宗行殿一座
大條宗直殿
下飯坂右衛門殿
その他、東の在郷衆や、長井の在郷衆、
その後、名を連ねた人々が200人ほどいました。
夜になると、
瀬上景康殿
大町民部殿
成田右兵衛殿
がお目見えを許されました。
御相伴として藤田宗和・松井雲齋・七宮伯耆・浜田伊豆景隆・富塚近江宗綱が同席し、酒が半分ほど進んだ頃、瀬上殿が刀を差し上げて申し出ました。
御館からお越しになり、御相伴衆が刀をご覧になりました。その後、浜田の方へ御代物(贈り物)として200疋(ひき)が下されました。
昨年(天正15年)は1月19日で、今年(天正16年)は1月12日に御礼参上しています。これは年始の挨拶なのでしょうかね。大立目氏や瀬上氏といった伊達家譜代の家臣も同様に挨拶に訪れています。
天正16年(1588年)1月13日
一、十三てんきわるし
御れいしゆこつかなをつき申され候、御なかけ二百人あまりまいり申候、
おゑた殿さんちやうすきの御さへ御きやく人にて候、
なをおわりのかミに御つき候、
御しやうはん、しやううんちやうあん・
七のミやはくしゆう、御たか五、小十郎御めにかけ申され候
天正16年(1588年)1月13日
一、天気が悪い中、御礼衆の小塚名継が申し上げたことには、御名代として200人以上が参上したとのことです。
大條宗直殿も参着され、数寄の御座(茶の湯の席)にて御客人としてもてなされた。なお、(この時に)名を「尾張守」とお付け(お改め)になった。
御相伴として、松雲浄庵と七宮伯耆がおられ、御高(お酒)が五献(五杯)振る舞われ、片倉小十郎も御目にかけられたとのことです。
前日に続いて、この日も大條宗直が登場しています。「小十郎御めにかけ申され候」という記述から、片倉小十郎が大條宗直に謁見したことがわかります。
また大條宗直は「殿」という敬称で呼ばれており、「御客人」としての待遇から、他の家臣よりも格上の扱いを受けていたことが窺えます。
そしてなんとこのタイミングで通称をこれまでの左衛門から「尾張」に改めたようです。

(仙台市博物館蔵)
6. 天正16年1月15日:領地への帰還
天正16年(1588年)1月15日
一、十五日四比すき申候
御さふきやうかた倉いきう・森やいか・はねた馬助御さニさしおかれ候、しろいし殿御使上御申候、
かさいとミさハより御使上申され候、大枝殿御きはにて上申され候、
天正16年(1588年)1月15日
御座敷には、片倉以休景親・守屋伊賀・羽田右馬助が控えています。白石宗実殿が使者として上がっており、葛西家臣の富沢からも使者が上がっています。
大條宗直殿は騎馬で上申されました。
前回から一日空いて、また大條宗直が登場します。
1月12日から米沢に滞在していたようですね。
「騎馬にて上申」という表現はよく分かりませんが、
1月12日から連続で登場していた大條宗直が、この日を境に当分の間登場しなくなることから、おそらくこの日に自身の領地(伊達郡大枝)へ帰還したのではないかと考えられます。
したがって、「騎馬で上申」とは、帰国の挨拶や報告を指しているのでしょうかね。
これから、まだまだ大條兄弟が登場しますので、続きはまた次回に記述いたします。
◼️参考資料
南奥羽戦国史研究会『伊達天正日記天正十五年』2018年
人物往来社『戦国史料叢書 第2期 第11』1967年
平重道『伊達治家記録』1973年
