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うにっき帳 vol.60|自分史編|私の幼稚園の頃までの話(3)

はじめに

こんにちは。吉村うにうにです。「うにっき帳」のvol.60を掲載します。
「うにっき帳」は日記と銘打っていますが、①日記編 ②語彙増量編 ③自分史編の三部のいずれかを取り上げます。

今回は、自分史編です。今日も「私の幼稚園の頃までの話」の続きで、自分の記憶と母からの話の断片から構成します。このシリーズの(1)(2)はこちら

では、始めます

ちなみに、本文は常体で書いております。また、日付は自分史編では、エピソードが生じたと思われる日です。

   一九七七年頃まで 私の幼稚園の頃までの話(3)


 ところで、なぜ塩屋に居を構えたのかは謎のままだ。このころ、母は二つ西の市である加古川にある祖父の小児科クリニックを手伝っていたはずだ。結婚前は加古川市より更に西の姫路市にある山陽色素という会社で研究をしていたらしいし、離婚前か離婚後だろうが、しばらくは加古川市にある短大で化学の講師をしていた。それならば加古川に住む方が便利なはずだ。なぜ、そこに住まなかったのだろう? 祖父母との同居を避けるという理由や、やはり加古川市にある元夫と会いたくないだけなら、二つ隣の市まで行かなくても、加古川市は広いのだ。それなのに私達親子三人は、数年で何度も引っ越したが、神戸市と明石市ばかりだった。神戸も明石も母の仕事の繋がりがほとんどなく、縁もゆかりもない土地なのだ。

 唯一思い浮かぶ理由として、もしかしたら、伯母の存在があったのかもしれない。多くの話は後に知った事であるが、伯母はメンタルを病んでいて、長い間入退院を繰り返していたらしい。そして、入院していない時は、祖父母の家の離れに住んでいたという。私は彼女が亡くなるまでに数度くらいしか会っていないが、母は伯母の存在を誰にも言わないように釘を刺していた。そもそも、詳しく知らないので言いようはないのだが。少なくとも母は伯母の事を嫌い、恥ずかしいと思っていたようなので、伯母から少しでも離れた所に住もうとしたのかもしれない。
                 (つづく)

さいごに

いかがだったでしょうか。私の家族の引越し回数が多かった記憶があります。そして、全てが神戸市と明石市でした。確かに住みよい街ではあるのですが、そこにこだわった理由が今でも謎です。

ここまで読んで下さり、ありがとうございました。

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