うにっき帳 vol.61|自分史編|私の幼稚園の頃までの話(4)
はじめに
こんにちは。吉村うにうにです。「うにっき帳」のvol.61を掲載します。
「うにっき帳」は日記と銘打っていますが、①日記編 ②語彙増量編 ③自分史編の三部のいずれかを取り上げます。
今回は、自分史編です。今日も「私の幼稚園の頃までの話」の続きで、自分の記憶と母からの話の断片から構成します。このシリーズの(1)~(3)はこちら
では、始めます
ちなみに、本文は常体で書いております。また、日付は自分史編では、エピソードが生じたと思われる日です。
一九七七年頃まで 私の幼稚園の頃までの話(4)
加古川(正確には東加古川)の祖父母の家によく預けられた記憶がある。幼稚園も東加古川だった。そこに、塩屋から電車に乗って通った記憶はなく、この頃西明石の小さなマンションに引っ越していたと思うが、そこから通った記憶も少ない。
引越し先で飲んだカルピスが異常に薄く、がっかりした記憶がある。母はカルピスの濃度で倹約するようなタイプではないので、作り方を間違えたのだろう。カルピスは濃く作るとドロドロになって甘ったるく、薄いとただの色のついた水になる。祖父母のクリニックではお中元やお歳暮に、患者さんからカルピスを腐るほど貰っていたから、分けてもらったのだろう。祖父母の庭にある物置では、実際カルピスを腐らせていたらしい。
母は「カルピスさえあまり分けてくれなかった」と祖母を恨んでいた。今思うと、母は、自分が貰えて当然だと思い込んだあてが外れると、怒る癖がある。伯父に対して怒っていたのもその種類の怒りだ。伯父は、祖父の借金の保証人になってもらって、結果的に三億もの金を肩代わりしてもらった。母はマンションのローンを千五百万組むときに、祖父の保証人になってもらえなかった。その事で、何十年も愚痴をこぼしていた。確かに兄と妹で扱いに差があったのは理解できるが、母はそもそもクリニック経営を助けているのだから、給与以外にも兄と同等の援助をしてもらうのを期待していたのではなかろうか? そこで、祖父母からの愛情を兄と取り合っていたのかもしれない。それが失望を生み、怒りに変わるが、祖父母からは離れられない。そんな風に思える。
幼稚園は二年保育だったと思う。この記憶は正確ではなく、確かめてもいないが、当時は二年保育が主流だったので、おそらくそうだったと思う。
(つづく)
さいごに
いかがだったでしょうか。母はあまりカルピスを分けてもらえなかったと怒っていましたが、私は祖父母の家で良く飲んでいた記憶があります。恐らく西明石に持って帰れなかった事を指しているのでしょう。
ここまで読んで下さり、ありがとうございました。
