「ママ見て」は、褒めてではなく「今ここを一緒に見て」かもしれません
ごはんを作ろうとして、ようやくフライパンを出した瞬間です。来ます。
「ママ見て!」と。
まだ何も始まっていません。
こちらは油すら入れていません。
でも子どもは、そんな大人の段取りにはまったく興味がありません。
「見てってば!」
「もう一回やるから見て!」
「ちゃんと見て!」
こちらにも都合があります。
ずっとこれはなかなかの重労働です。
でも私は最近、この「ママ見て」を少し違う角度から見るようになりました。
ただ褒めてほしいだけではないのかもしれない。
ただかまってほしいだけでもないのかもしれない。
子どもが求めているのは、
「すごいね」という評価より、「今ここを一緒に見てほしい」という感覚に近いことがあると思うのです。
子どもが「見て」と言うのは、すごい成功のときだけではありません。
高くジャンプできた。
ブロックを一個多く積めた。
丸を描けた。
ソファから飛び降りた。
靴下を自分で引っぱれた。
大人から見ると、かなり日常です。
かわいいです。もちろんかわいい。
でも、ニュース速報が流れるほどではありません。
それでも子どもは、本気で呼びます。
「見て!」
とても真剣です。
こちらが適当に「はいはい見てるよ」と言うと、だいたい見抜かれます。
子ども、あたりの判定はやたら厳しいです(笑)
ここが面白いところです。
もし欲しいものが評価だけなら、
「すごいね!」
である程度は満たされてもよさそうです。
でも実際は、またすぐ来ます。
「もう一回見て!」
おかわりが早いです。
拍手一回では終わらないことが多いです。
だから私は、子どもが求めているのは点数や称賛だけではなく、一緒に見てもらえた感覚”なのではないかと思っています。
発達の世界では、同じものを一緒に見ること を「共同注意」と呼ぶことがあります。
少し専門っぽい言葉ですが、意味はとてもシンプルです。
子どもが何かを見る。
大人もそれを見る。
そして、「あ、本当だね」と同じ出来事を共有する。
それだけです。
子どもが指をさした先の飛行機を一緒に見る。
窓の外の救急車を一緒に見る。
できたことを「見て」と言われて、その瞬間を一緒に受け取る。
私は、「ママ見て」にもこの感じがかなり入っていると思っています。
つまり子どもは、
「褒めてください」よりも先に、
「今のこれを、あなたと一緒に持ちたいです」
と言っているのかもしれません。
そう考えると、「見て」の印象が少し変わります。
うるさい、しつこい、かまってほしい。
もちろんそう見える日もあります。
こちらのHPが赤い日は、だいたいそう見えます。
でも別の角度から見ると、あれはつながりの確認でもあるのだと思います。
今、自分がやったことが届いているか。見えているか。
同じ場面に立ってくれているか。
その確認が、「見て」という短い言葉にぎゅっと入っているのかもしれません。
大人にも、少し似たところがあります。
夕焼けがきれいだったとき。
虹を見つけたとき。
おいしそうなごはんが運ばれてきたとき。
ちょっと笑える瞬間が起きたとき。
つい、隣の人に言いたくなることがあります。
「見て」
あれは別に採点してほしいわけではありません。
「本日の夕焼け、92点です」
と言われたいわけでもありません(笑)
ただ、この瞬間を一緒に見てほしいのです。
子どもの「ママ見て」も、たぶんそれに近いです。
しかも子どもは、大人みたいに
「私は今、あなたと体験を共有したい気持ちがあります」
なんて言いません。
言えません。
だから、まっすぐ「見て!」になります。
あまりにも直球です。
でも、たぶんあれがいちばん本質に近い言い方なのだと思います。
ここで、親として少し気が楽になる話もしたいです。
この記事をここまで読んで、
「じゃあ毎回ちゃんと見ないといけないのか」
「全部に丁寧に反応しないといけないのか」
と思った方がいたら、それは違います。
無理です。
本当に無理です。
ずっと見ていたら、ごはんは進みません。
洗濯物も減りません。
こちらの生活が、静かに沈みます。
親が一日中、専属アナウンサーでいることはできません。
だから目標は、
毎回100点の反応をすることではない、です。
そうではなくて、1日のどこかで少しだけ、
ちゃんと見たよを伝えるだけで十分だと思います。
全部を拾うことより、たまにでも深く届くことの方が大事です。
では、何をしたらいいのか。
ここは、できるだけ簡単にしたいです。
私の答えは、
「すごいね」に実況をひとさじ足す」
です。
たとえば子どもに「見て!」と言われたとき、
「すごいね!」でももちろんいいです。
でもそこに、少しだけ観察を足します。
「高く積めたね」
「自分でやろうとしていましたね」
「最後までやっていましたね」
「赤を選んだんですね」
「さっきより速かったね」
「見てたよ」
この実況が入ると、返事がただの返事ではなくなります。
「私はあなたと同じものを見ていましたよ」
という返事になります。
ここが大事なのだと思います。
「上手!」はうれしいです。
でも、「最後、倒れないようにそっと置いてたね」には、
ちゃんと見ていた感じがあります。
子どもが受け取るものも、少し変わります。
褒め言葉は、光です。
実況は、光に輪郭をつけます。
だから、拍手だけでも悪くないけれど、
そこに観察が一滴入ると、かなり届きやすくなることがあります。
そして、これは親を責める話ではありません。
疲れている日は、「すごいね!」だけで終わっていいです。
なんなら「見てる見てる!」でもいい日があります。
人間ですから。
余裕がない日にまで、毎回ていねいな実況を求めてはいません。それは違います。
この話は、親の仕事を増やすためではなく、
見ての正体が少しわかると、しんどさが少し減るかもしれません
という話です。
「また始まった…」
と思う日があって当然です。
でもその中に、ときどきでも
「この子はいま、褒められたいだけじゃなくて、一緒に見てほしいのかもしれない」
という見方が入ると、同じ言葉でも少しだけ受け取り方が変わります。
そして返す言葉も、
「すごいね」
に加えて
「見てたよ」
が増えるかもしれません。
「ママ見て」は、承認欲求という言葉だけでは少し足りないのだと思います。
そこにはきっと、
見てもらえた。
届いた。
同じ瞬間に立ってもらえた。
そんな感覚が入っています。
少し専門っぽく言えば、それは共同注意みたいなものです。
でも、難しく考えなくて大丈夫です。
子どもが差し出してきた「これ」を、少しだけ一緒に見ること。
たぶん、それだけです。
だから全部に応えられない日があっても、
たまに実況席に座って、
「見てたよ」
を伝えれたらそれで十分なのだと思います。
子どもは、親の返事より先に、
同じ瞬間に立ち会ってくれる人を呼んでいることがあります。
子どもは今日も、
自分が見つけた小さな出来事を、
大好きな人と一緒に共有したいのだと思います。
他にも色々な記事を書いています。ぜひご覧ください
