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隣の芝は、なぜ青く見える?

こんにちは。ぴこぴこです。
私は小児の理学療法士をしているアラサーです。

「なんで、あの人はあんなにうまくいって見えるんだろう」
SNSを見た日。
仕事がうまく回っていない日。
家の中がごちゃごちゃしている日。
誰かの整った暮らしや、軽やかな言葉や、穏やかそうな毎日を見た日。

ありますよね。

こっちは朝からバタバタして、気づけばコーヒーはぬるいし、やることは減らないし、部屋は「片づけたはず」という曖昧な状態です。
なのに画面の向こうには、ちゃんとしていそうな人がいます。
朝ごはんはおしゃれで、部屋は整っていて、言葉にも余白があります。
そんなものを見ると、心の中で小さくこう思います。
「それに比べて、自分は……」と。
でも私は、ここで一度立ち止まっていいと思っています。
隣の芝が青く見えるのは、
自分の芝がダメだからではなく、
見え方の条件が最初から違うからかもしれません。

隣の芝が青く見えるのは、
他人の生活は遠くから見ていて、自分の生活だけは至近距離で見ているからです。
遠くから見た芝生は、だいたいきれいに見えます。
少しくらいムラがあっても、土が見えていても、離れて見れば「いい感じの緑」です。
でも自分の芝生は違います。
毎日そこを歩いています。
近くで見ます。
なんなら、しゃがんで見ます。
「あ、ここ薄い」
「昨日より元気がない」
「なんでここだけ茶色いの」
自分の足元だけ、やたら解像度が高いのです。
だから比較すると、だいたい苦しくなります。
相手は景色として見ていて、自分は現場として見ているからです。

他人の生活には、生活音が入っていません

私はこれがかなり大きいと思っています。
私たちが他人の生活を見るとき、目に入ってくるのはだいたい結果です。
整った部屋。
楽しそうな家族写真。
仕事の成果。
穏やかな言葉。
うまくいっていそうな雰囲気。
でも、自分の生活には結果だけではなく、その途中が全部入ってきます。
寝不足。
余裕がない日の口調。
片づけても片づかない部屋。
思ったように進まない予定。
小さな失敗。
誰にも見せない焦り。
つまり、他人の生活は無音のハイライト映像で見えているのに、自分の生活だけは生活音つきのノーカット版なのです。
鍋が吹きこぼれる音も、ため息も、
「ちょっと今それはやめて」の空気も、全部込みです。
そりゃあ、隣の芝は青く見えます。
向こうは予告編で、こちらは本編です。
青く見えるのは、相手が完璧だからではありません
ここも大事だと思います。
人は、見えていない部分を勝手に良いように補ってしまいます。
想像力は便利ですが、比較の場面では少し働きすぎます。
「あの人はいつも余裕がある」
「あの家庭はいつも穏やか」
「あの人は迷いなく進んでいる」
「あの人はちゃんとできている」
そんなふうに見えることがあります。
でも実際は、見えていないだけの部分がたくさんあります。
笑顔の写真の前に、きっとバタバタした時間があったかもしれません。
穏やかに見える人も、見えないところで落ち込んでいる日があるかもしれません。
うまくやっているように見える人も、裏ではかなり試行錯誤しているかもしれません。
芝が特別に青いというより、
遠目に見ると青く見える角度があるのだと思います。
比べてしまうこと自体は、悪いことではありません
こういう話になると、
「比べるのはやめましょう」
で終わりがちです。
でも私は、それでは少し雑だと思っています。
人は比べます。
たぶん、自然に比べます。
比べるから、自分の現在地がわかることもあります。
比べるから、憧れや目標が生まれることもあります。
問題は、比較することそのものではなく、
比較するときの材料が偏っていることです。
相手の一番きれいに見える一場面と、
自分のごちゃごちゃした途中経過を並べてしまう。
これをやると、しんどくなるのは当然です。
料理番組の完成品と、今まさに洗い物がたまっている自分の台所を比べるようなものです。
勝てる気がしないのは、才能の差というより、見ている場面が違うからです。

では、どうしたら少し楽になるのか

私は、比較して苦しくなったとき、自分にこう聞くようにしています。
「私は今、相手の何を見ているんだろう。結果だろうか、過程だろうか。
私は今、自分の何と比べているんだろう。今日の失敗だろうか、それとも人生全体だろうか。」
この問いを入れるだけでも、比較の雑さが少し減ります。
それともう一つ。
隣の芝を見る時間をゼロにしなくてもいいので、そのあとに一度だけ、自分の芝も見てあげることです。
昨日より少しできたこと。
前より楽になったこと。
誰にも見えないけれど、ちゃんと育っている部分。
そういうものは、たいてい派手ではありません。
でも、派手ではないからといって、育っていないわけではありません。
芝生も、人の暮らしも、わりと地味に育ちます。

自分の芝は、青く見えにくいだけです

ここ、意外と大事だと思っています。
自分の頑張りは、自分には見えにくいです。
なぜなら、自分にとってはやって当たり前になりやすいからです。
毎日ごはんを作る。
働く。
考える。
段取りする。
誰かのために動く。
何かあれば立て直す。
こういうことは、本人にとっては日常なので、あまり価値があるように見えません。
でも、本当はかなり大きいことです。
芝が青くないのではなく、
毎日見ているから新鮮味が消えているだけ
ということが、けっこうあります。

子どもや植物でも、毎日見ていると成長に気づきにくいのに、久しぶりに来た人だけが
「え、めっちゃ伸びましたね」
と言うことがあります。

あれに近いのだと思います。
自分の生活の中でも、ちゃんと伸びているものはあるのに、自分だけが見慣れてしまっているのです。

最後に

隣の芝は、これからもたぶん青く見えます。
それ自体を完全になくすのは難しいと思います。
でも、青く見えたときに、
「相手が完璧なのではなく、私が遠くから見ているだけかもしれない」
と一度思い出せるだけで、比較は少しやさしくなります。
他人の芝は景色です。
自分の芝は現場です。
景色と現場を、そのまま比べなくていいです。
今はまだ目立たなくても、
足元ではちゃんと育っているものがあります。
むしろ、大事なものほど派手には光りません。
だから今日は、隣を見るのをやめなくてもいいので、
ほんの少しだけ、自分の芝にも水をあげて終わりにしませんか。

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