大嫌いだった母〜40年分の憎しみを手放すまで③
前回の話はこちら。
私、東大出身です。小学生の頃は、ピアノとバレエで全国規模のイベントやコンクールに何度か出場。中高は地元で一番の進学校に進学、大学と大学院では海外にも留学。新卒で東証一部上場の大手メーカーに就職しました。
ここまでは、絵に描いたような優等生でした。
誰に強制されたわけでもなく、すべて自分から行きたい・やりたいと言ったことを選択してきた結果です。もちろん、親や周囲が環境を整えてくれたことが大前提ですが、私自身も、頑張ることが当たり前だと思っていました。
それなのに。
努力がデフォルトになっていた私は、いつまで経っても結果に満足できずにいました。もっと頑張らなきゃ。こんなんじゃダメだ。いつだってどこか満たされない日々に、うっすらと違和感を感じていました。この道は自分で選んだはずなのに、なぜ?
その違和感が最初に形になって表れたのは、新卒で入った会社である日倒れて、適応障害と診断された時でした。
その後一旦立ち直るも、今度は産後うつを経験。
強制的に立ち止まらされた私は、ようやく気がつきました。何でもどこかに「正解」があると信じて疑わず、無意識のうちにいつも「正解」を目指して努力してきたことに。「正解」なんて、本当はどこにもないのに。
それはなぜか。もしかしたら、祖母と母の「二人羽織」に由来しているんじゃないかと思い当たりました。
祖母と母の二人羽織
書かされた日記を母が読んでいなかったことを知って衝撃を受けた私は、昔の記憶を紐解き始めました。
ハードワークだった母は、家では一切何もせずひたすらゴロゴロ。子育てに関しても、「この子に何かやれと強制したことがない」「この子が自分でやりたいと言ったものしかやらせていない」と口にするのが常でした。
母はどちらかというとズボラだし、子供にもうるさく言うことなく、自由にのびのび育てたと自負しているようでした。
一方で、私にとって子供時代の毎日は、なんだかとても窮屈な思い出です。
確かに、「何をやるか」は私が自分で選んだこと。だけど、その枠の中で私は毎日「あれはダメ、これを早くやりなさい、ダラダラしないで」と言われ続けた記憶しかありません。私の中で、母に対する不満と不信が少しずつ積み重なっていました。
お母さん、私のことのびのび育ててるって言ってるけど、私はいつも、ああしろこうしろって言われてばかり。私は毎日急き立てられてるのに、お母さんはいっつもダラダラしてる。なんで?
でも。
よくよく昔のことを思い出してみると、私に「あれはダメ、これもダメ」と実際に言っていたのは、母ではなく祖母でした。大正生まれの祖母はかなり「ちゃんとした」人で、口ぐせはこう。
ちゃんとしなさい。
人に迷惑をかけるなんてもってのほか。
何でも前もって準備しないといけない。
学校から帰ったらまず宿題をやること。
ダラダラしていてはダメ。
私は、祖母の言葉を「母が祖母の口を借りて言っているもの」と思い込んでいました。二人羽織のごとく、祖母の後ろにはいつだって母がいて、祖母の口から母の声が聞こえているのだと。
でもよく考えたら、母に「ちゃんとしなさい」なんて、一度も言われたことなかったんです。むしろ祖母は、母のことも毎日叱りつけていました。祖母は、祖母が思うことを言っていただけ。祖母と母は別の人間。
忘れ去られていた本音
もしかしたら、祖母は「正解」に私を導こうとしていたのかもしれません。でも、母は何かこうしろとは全く口にしない。混乱した私は、母の望みは何かを読み取ろうと必死になりました。
そうしていつしか「母の望み」として想像したことを、自分が最初から望んでいたことだと思い込むようになりました。もちろん、それが本当に母の望みかどうかなんて、確認したことはありません。
何をやるにしても、自分が本心からやりたいかどうかではなく、母が喜ぶだろうと思う方を選ぶ。でも母は何も言わないし、私からこれでいいかと聞くこともない。だからいつも不安で、完璧にできていないと気が済まない。
こうして私は、息を吸って吐くかのごとく自分の本音を無視するようになり、何事も完璧を目指すのがデフォルトになりました。
習い事も勉強も仕事も、自分が心から楽しいかどうかなんて、気にしたこともありませんでした。「正解」探しに明け暮れて、ずっと自分の本音を無視して生きてきたことを、娘の泣き声が私に教えてくれたのでした。
いつだって、完璧を求めて走り続けていた私は、ただ寂しかったんだ。
産後うつをきっかけに知ったその気持ちを思い切って母にぶつけてみたことで、私は初めてカラクリを外から見ることができたのでした。
憎いと思っていた相手は、最初からいなかった。
砂のお城が崩れていくように、憎しみが消えていくのを感じました。次は、寂しさを一手に引き受けてくれた、小さい頃の私に会いに行かなくちゃ。
