明暗分けたパンデミック 【 ヤマト王権の誕生 】 〜 すべてはそこから始まった! 〜
日本の歴史はどこから始まったのか。
崇神天皇や垂仁天皇、景行天皇、卑弥呼は西暦何年頃にいったい何処に居たのか。いよいよ核心に迫ってみたい。他の記事にも書いたが、実在した初代天皇は崇神天皇と私は考えている。ここから先は個人的な考えであり、根拠となる考古学的な物証もほぼ無い。だから敢えて断定的に書いていくことにする。
◾️ 崇神天皇期のパンデミック
〈原文〉
五年秋九月、国内多疫。民有死亡者衆。
〈現代語訳〉
五年の秋九月、国内に疫病が多く発生した。
人民の中に死ぬ者が非常に多かった。
さらに翌年
〈原文〉
六年、百姓流離、或有背叛。其勢甚多。
〈現代語訳〉
六年、人民は流浪し、ある者は反乱を起こした。その数は非常に多かった。
〈原文〉
此の御世に、疫病多に起こりて、人民尽きむとす。
〈現代語訳〉
この御代に疫病が多く発生し、人民は滅びてしまうかと思われるほどであった。
日本書紀の文章はまだしも、古事記においては「人民尽きむとす」とまで書いてある。
◾️ 崇神天皇崩御年
諸々の年代を確定するために、まず一つ基準を設定した。それが「崇神天皇崩御年」。
〈原文〉
六十八年夏四月乙卯朔丙辰、天皇崩。戊寅年也。
〈現代語訳〉
在位六十八年の夏四月(朔乙卯、丙辰の日)、天皇は崩御された。その年は戊寅の年であった。
この「戊寅(つちのえとら)」にあたる年(60年周期)は西暦
・198年
・258年
・318年
のどれか。
この「戊寅年」崩御もあてにならないと言われることもあるが、それでは何も定まらなくなるので私はこの崇神天皇崩御を「西暦258年」とした。
◾️ 崇神天皇の拠点
◉「吉野ヶ里」
おっと、簡単に書いてしまった。
この時代、邪馬台国(山鹿市)もそうだが、北側に山を背負う場所に拠点を設けるということを四神相応の思想から基本としていたはずである。
また先日、吉野ヶ里遺跡を初めて訪問した時、やはりその広大さと異常なほどの環濠を見て単なる軍事的な防御だけでなくパンデミックの防御も兼ね備えていたのだろうという感じを受けた。(結局防ぐことは出来なかったのだが)



ここから全てが動き出した。
◉「朝倉」
疫病流行時、崇神天皇は何とかして吉野ヶ里に留まりたかったが疫病の猛威になす術なく、まずは“朝倉”に移動する。この辺りは水田適地が多く食料は確保出来たが、北西方向に山が無く抜けており崇神天皇は落ち着かなかったはずだ。
また、吉野ヶ里で産まれ成人していた垂仁天皇(崇神天皇の子)も朝倉で暫く過ごすことになったが、朝倉にも疫病は迫っていた。
◾️垂仁天皇が動く
「垂仁天皇」。私が古代史に興味を持つようになる前、崇神天皇や景行天皇の名は耳にした事があったが垂仁天皇の名は聞いた事が無かった。
しかし、驚く事にこの垂仁天皇が古代史において、また日本国の建国において最もキーマンとなる天皇である事を思い知ることになる。
なかなか疫病が治まらないため、痺れを切らした垂仁天皇は、崇神天皇と別れ筑紫平野から出ていく事を決断する。またそれまで我慢してこの地に残っていた民衆の多くが垂仁天皇と一緒に行動を共にした。その数、数千人。
◉「日田」
垂仁天皇が最初に向かった場所は “日田” 。
暫くは日田に留まったものの、当然その人数の食料確保は難しく、数百名ほどは日田に残ったかもしれないが、また次の場所に移動する。
ここ日田の地で「景行天皇」は産まれ育つことになる。
◉「宇佐」
次に垂仁天皇が向かったのは “宇佐” 。
宇佐神宮は垂仁天皇と大きな関わりがあると推測する。垂仁天皇の諱(いみな)は、「活目入彦五十狭茅(いくめいりびこいさち)」。ここではその関係性について深堀りしないが、いつか取り上げて解明してみたい。
そしてまた水田適地が多い宇佐に数百名ほど残ったが、垂仁天皇はまた次の場所に移動する。
◉「阿波」
次に向かったのは海を渡った四国の地“ 阿波 ” 。
正直言って阿波については深く調べていない。ただ最近、邪馬台国「阿波説」をYouTubeでよく見かけるようになったので垂仁天皇が一時期阿波に居た痕跡があるのだと思う。(ちょっと人任せ)
◉「纏向(畿内)」
そしていよいよ垂仁天皇一行は纏向に到着する。
その数、やはり数千人はいただろう。先住民はなす術なく、あっと言う間に纏向始め奈良の地は垂仁天皇の支配地となってしまう。垂仁天皇はこの地を安住の地とした。
垂仁天皇はその存在を誇示するため、巨大な前方後円墳「箸墓古墳」を造らせた。もちろん垂仁天皇が生きている間に造らせている。また筑紫平野での疫病の経験から、いざ同じ様な状況になったら箸墓古墳内に避難できるよう巨大に造り、簡単に人が侵入出来ないように周りを水で囲った。だがその後パンデミックは起きていない。(箸墓古墳内に住居跡は確認されていない)
垂仁天皇以降も巨大な前方後円墳が次々に造られていくのだが、全てその後の支配者が生きている時に造らせている。
ところで、垂仁天皇はなぜ四神相応の地ではない纏向に定住を決めたのか。それは人生経験が短い中で朝倉に暫く居た事が影響している。イケイケの垂仁天皇にとって四神相応の思想など関係無かったのだろう。

◾️2王朝並立
ここで重要なことを確認しておく。
崇神天皇崩御後、景行天皇から雄略天皇までは「九州王朝」として九州を拠点とし、東征した垂仁天皇は後の「ヤマト王権」の初代王となっている。
つまり、この時点から2つの王朝が並立して存在していく事になる。
さて、この時点でまだ ”邪馬台国” “卑弥呼” の名前が出てこないが九州王朝との関係はどうなっていたのか。
◾️邪馬台国
邪馬台国についてはこれまでも他の記事で書いてきたので、ここではザックリ書くだけにする。
まず邪馬台国は現在の熊本県山鹿市にあった。
ここで大事なポイントを書くと、崇神天皇と卑弥呼は同時代を生きていた。
ではその時代の中心である “ 倭国 ” はどっちだったのか。それは勿論、魏志倭人伝にあるように「邪馬台国」である。“〜天皇” という呼称は後の時代に付けられたものであり、ヤマト王権を成立させた垂仁天皇が居たからこそ女王国の中の一地方王だった崇神初代天皇は脚光を浴びる事になったのである。
◾️パンデミックその後
垂仁天皇が吉野ヶ里や朝倉に居た多くの人々を引き連れて纏向に入ったことについては先ほど書いたが、当然ながら垂仁天皇と行動を共にしなかった人も多くいた。朝倉に留まった人、北へ移動した人、そして意外にも南へ移動した者が多かった。南と言っても八女・みやまなど疫病の伝染が心配される同じ筑紫平野ではなく、南関の峠を越えて山鹿市の邪馬台国まで移動している。それはやはり広大な水田適地があり既に多くの人々が住んで安定していた国だったからである。では崇神天皇は動いたかというと、おそらくそのまま朝倉に留まり、最後まで朝倉の人々を見守った。
◾️ 倭国大乱
〈原文〉
倭人自相攻伐、歴年無主。
乃共立一女子為王、名曰卑弥呼。
事鬼道、能惑衆。
年已長大、無夫婿。
有男弟佐治国。
〈現代語訳〉
倭人たちは互いに争い合い、長年にわたって支配者がいなかった。
そこで相談して一人の女性を立てて王とした。その名を卑弥呼という。
彼女は鬼道(呪術・祭祀)に仕え、人々をよくまとめた。
年齢はかなり高かったが、夫はおらず、弟がいて政治を補佐した。
この倭国大乱、先の筑紫平野の疫病により邪馬台国に大挙して移動してきた人々と元から邪馬台国に住む人々との争いが絶えなかった事を伝えている。
◾️景行天皇が動く
景行天皇の九州巡幸については、下記記事に書いた。
景行天皇は日田で産まれ育ち、垂仁天皇よりも崇神天皇の影響を受け、九州内の安定した土地を探すため九州巡幸を行ない “ 九州王朝 ” の礎を築いた。九州全域を巡幸し、阿蘇に成務天皇を、邪馬台国には仲哀天皇を定住させた。
垂仁天皇と景行天皇には他の天皇と比較しても突出して子供が多く、長い遠征が関係していた事がわかる。
◾️台与(壹與)
〈原文〉
卑彌呼以死,大作冢,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人。更立男王,國中不服。更相誅殺,當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與,年十三,為王,國中遂定。
〈現代語訳〉
卑弥呼が死ぬと、大きな塚を作った。直径は百余歩で、殉葬された奴婢は百余人であった。
その後、男王を立てたが、国中は従わなかった。互いに殺し合い、千人余りが殺された。
そこで再び卑弥呼の一族の娘、壹与(台与)を立てた。年は十三歳で王となり、国中はついに安定した。
台与は後の仲哀天皇の妃「神功皇后」。
またサラッと書いてしまった。
ここで重要な事を書くが、卑弥呼自身は天皇家との血の繋がりは無い。
◾️倭の五王
◉「讃」
【原文】
倭国在高驪東南大海中。
自昔祖禰相承。
其王讃遣使貢献。
【現代語訳】
倭国は高句麗の東南、大海の中にある。
昔から祖先の王位を継承してきた国である。
その王・讃は使者を派遣して朝貢してきた。
◉「珍」
【原文】
讃死,弟珍立。
遣使貢献,自称使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王。
【現代語訳】
讃が死に、その弟の珍が即位した。
使者を送り、朝貢し、
「倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国の諸軍事を統括する、安東大将軍・倭国王」と自称した。
◉「済」
【原文】
珍死,子済立。
【現代語訳】
珍が死に、その子の済が即位した。
◉「興」
【原文】
済死,世子興立。
【現代語訳】
済が死に、その世継ぎの興が即位した。
◉「武」
【原文】
興死,弟武立。
自称使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王。
上表曰……
(以下、有名な上表文)
封国偏遠,作藩于外。
自昔祖禰,躬擐甲冑,跋渉山川,不遑寧処。
東征毛人五十五国,西服衆夷六十六国,
渡平海北九十五国……
【現代語訳】
興が死に、その弟の武が即位した。
武は
「倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国の諸軍事を統括する安東大将軍・倭国王」
と自称した。
上表文にはこうある。
我が国は辺境に封ぜられ、外藩として仕えてきました。
昔より祖先は自ら甲冑をまとい、山川を越えて戦い、安らぐ暇もありませんでした。
東に毛人五十五国を征服し、
西に衆夷六十六国を服属させ、
海を渡って北の九十五国を平定しました。
「讃・珍・済・興・武」
明らかにそれまでの倭王の名前とは一線を画す。
“ 倭の五王 ” は九州王朝の倭王ではなく、ヤマト王権の王であることが分かる。「珍」や「武」について書かれた箇所に「自称」とあるが、垂仁天皇以後、超巨大前方後円墳を造ってきた血筋をこの文脈からも垣間見ることが出来る。
さて、大筋は上記のような流れになるが、時系列で書かないと分かりづらいと思うので頑張って時系列で書いてみたいと思う。(ボロが出てしまうかもしれないが)
🔶 時系列
■ 195年頃
◉ 疫病の流行(崇神天皇 5〜6年)
◉ 崇神天皇移動
・吉野ヶ里 ⇒ 朝倉
■ 196–200年代
◉ 垂仁天皇が動く
・朝倉 ⇒ 日田 ⇒ 宇佐 ⇒ 阿波 ⇒ 纏向
◉ 吉野ヶ里、朝倉の民衆も動く
・ 朝倉 ⇒ 博多方面、日田、山鹿
■ 210−220年代
◉ 邪馬台国では争乱が続く
・倭国大乱(最盛期)
◉ 卑弥呼の擁立
■ 230–240年代
◉ 邪馬台国は安定女王政権(丘陵祭祀中心)
・卑弥呼
◉ 筑紫平野(朝倉周辺)には崇神王権
・崇神天皇
◉ ヤマト王権が箸墓古墳の築造開始
・垂仁天皇
◉ 二極並立・緊張的均衡
・邪馬台国と崇神王朝(九州王朝)
・九州王朝とヤマト王権
■ 247年
◉ 卑弥呼死去
■ 248–252年
◉ 邪馬台国で男王擁立するも失敗
・内乱継続(数年規模)
■ 253–255年
◉ 邪馬台国で少女擁立
・台与(13歳即位)⇒ 後の神功皇后
◉ 邪馬台国の再安定化
■ 258年
◉ 崇神天皇崩御
■ 258–265年
◉ 九州王朝は山鹿で一本化
◉ 景行天皇が九州巡幸を開始
■ 266年(確定外交年)
◉ 台与が晋へ遣使(国際承認維持)
◉ 邪馬台国は対外的に正統継承を主張
■ 270年代
◉ 台与、男子出生
・応神天皇
◉ 女王摂政 → 男王継承準備期
■ 280–300年
◉ 応神若年期、九州王朝(山鹿)は安定
◉ 畿内側では大規模墳墓形成が進行(自己誇示型王権)
■ 300–330年
◉ 応神中心の九州男王体制確立
◉ 九州と畿内は並立(統合なし)
◉ 対外外交は不明瞭期(中国史料空白)
■ 330–380年
◉ 九州王朝数代継承(山鹿)
◉ 畿内王権は古墳巨大化を加速
◉ 二王朝均衡期
■ 380–430年
◉ 畿内の軍事化進展(鉄器・騎馬文化増大)
◉ 九州王権は祭祀的色彩を維持
◉ 緊張上昇
■ 430–450年
◉ 畿内勢力が外征・国内制圧を拡大
◉ 九州への軍事圧力開始(前哨戦期)
■ 450–470年
◉ 九州王権の軍事的劣勢
◉ 制圧または強制的再編
◉ 九州王朝の終焉/吸収
■ 478年(確定外交年)
◉ 「武」が宋へ上表
・倭の五王
・宋書
◉ 統一王としての国際承認要求
◉ 武 ≠ 雄略天皇 (ノットイコール)
■ 480年代
◉ 畿内ヤマト政権の全国的支配確立
◉ 記紀的王統に再編
◉ 旧九州王朝を系譜上も吸収 ⇒ 完全消滅
■ 490−520年代
◉ ヤマト王権混乱期
◉ 継体天皇即位(507年)
■ 527年(継体天皇21年)
◉ 磐井の乱
自分でも若干無理があるかもしれないと思う部分はあるが、記紀における年代設定自体に無茶苦茶な部分もあるので、大筋では合ってると思う。
古代史を深く追求している方々からすると、私の説は反論するまでもない戯言と今は思うかもしれないが、いずれ何度も読み返したくなる記事となるだろう。
🔶 最後に
◾️人類は AI に勝てるのか
もう20年ほど前から私がずっと目を通しているブログが2つある。正確には2人いる。
1人はぐっちーさん。
「ぐっちーさんの金持ちまっしぐら」「Gucci post」「ODYSSEY」。
ぐっちーさんが亡くなってからもブログは名前を変えて続いているものの、私は最近あまり見なくなってしまった。
そしてもう1人はokaさん。
「In Deep」「地球の記録」「BrainDead World」。
世界中の(ちょっと偏っているが)色んな情報を届けてくれるので有り難く読ませてもらっている。そのokaさんのブログ「In Deep」の最近の記事に『AIは戦争シミュレーションにおいて「95%の確率で核兵器を使用する」という研究報告』という記事があった。
いよいよイランが戦争に巻き込まれ参戦せざるを得なくなったところをみると、やはり今の世界は限界を迎えつつあるのだろうと改めて実感した次第。私もよくChatGPTを利用するが、日に日に進化するAIを目の当たりにし、人間の「記憶力」の必要性が薄まっていくのを実感し始めている。こんな時代だからこそ、考古学(古代史)に魅力を感じているのかもしれない。
また私は農業にも関心をもっており、これもまたAIにとっては何年かかろうが攻略出来ない「天(太陽)」が相手なだけに魅力を感じているのだと思う。
長々と書いてしまったが、最後までお読み頂き有難うございました。
