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【讃岐秘話】瀬戸内寂聴さんの先祖の居城だった高松市三谷町の三谷城と王佐山城とは?

こんにちは。

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トリリンガル讃岐PRオフィサーの森啓成 (モリヨシナリ)です。

今回は、瀬戸内寂聴さんの先祖 三谷氏の居城だった高松市三谷町の三谷城と王佐山城についてです。

三谷家の祖である三谷景之は讃岐国造の系譜である植田氏の植田景保の次男にあたります。

三谷家は南北朝時代、室町時代、戦国時代を通して十河氏、神内氏らと共に植田一族を構成する讃岐の有力武家でした。

瀬戸内寂聴さんは元は三谷晴美という名前でしたが、小学生のとき父の三谷豊吉さんが大叔母にあたる瀬戸内いとさんの養子となった為、瀬戸内姓に改姓しました。

養子先の瀬戸内いとさんの夫は坂出の塩田を開発した久米通賢の次男 傳(つたえ)でクリスチャンでしたが、豊吉さんが養子となった頃には亡くなっていました。



瀬戸内寂聴さんの父の三谷豊吉さんの先祖 三谷景則は、1584年 (天正12年)に長宗我部元親軍により虎丸城 (東かがわ市)が陥落した後、東かがわ市黒羽(くれは)に逃れ、帰農しました。

このとき行動を共にしていた十河存保(そごうまさやす)は虎丸城陥落後、豊臣秀吉を頼って大坂へ逃れました。

1585年 (天正13年) 6月、十河存保は豊臣秀吉の四国攻めに協力し、旧領である讃岐十河3万石を秀吉より与えられて大名として復帰しました(四国国分)。

しかし、それは仙石秀久の与力大名「十河孫六郎」としてであり、三好本宗家の継承権も阿波の領有権も否認されました。

1586年 (天正14年)、秀吉の九州征伐に従った際、軍監・仙石秀久の無謀な作戦に巻き込まれてしまい、島津家久との戸次川の戦いにおいて十河存之 共々戦死しました。享年33。

東かがわ市黒羽に逃れた三谷家の一部は、帰農し江戸時代になると讃岐三白の一つである白砂糖を作る製糖業を始め財を成しました。黒羽の三谷家は瀬戸内寂聴さんや引田町町会議長を輩出している讃岐国造にルーツを持つ地元の名家です。



・高松駅から三谷城、王佐山城があった高松市三谷町へは車で約30分。



【写真】右端: 瀬戸内寂聴さんの母 コハルと1才の晴美(瀬戸内寂聴さん)、姉の艶(つや)(真ん中)、瀬戸内いと(左端)。コハルさんは戦時中に空襲で亡くなられた。

いとの夫 傳(つたえ)は、坂出の塩田を開いた久米通賢の次男で、瀬戸内家の女婿になった。傳がクリスチャンになり、いとがそれにならった。久米通賢は代々、黒羽の隣りの馬宿に住んでいたが、通賢の生家は屋島の四国村に移転され大切に保管されている。

瀬戸内いとがクリスチャンだった為、引田の積善坊にある瀬戸内寂聴の父母の墓石には十字架が彫られた下に、ヨハネ黙示録十四章十三節の「今より後、主にありて死ぬる人は幸ひなり」という言葉が刻まれている。

瀬戸内家はクリスチャンだったが、徳島市の眉山前で神仏具店を営んでいた。現在は、瀬戸内寂聴さんの姉の子孫が受け継いでいる。




・日本の時代区分 (平安〜江戸時代)

平安時代(794年 〜 1185年)

平安時代は、桓武天皇が平安京に都を移した794年から、鎌倉幕府が成立するまでの期間を指します。約400年続いた、日本史上有数の長い時代ですね。貴族が中心の国風文化が栄え、文学作品では『源氏物語』や『枕草子』が生まれました。後半には武士が力をつけ始め、次の時代へとつながっていきます。

鎌倉時代(1185年 〜 1333年)

源頼朝が鎌倉に幕府を開いた時代です。鎌倉幕府の成立時期については諸説ありますが、守護・地頭の設置された1185年説が有力とされています。武士による本格的な政治が始まり、質実剛健な武士の文化が特徴です。一方で、引き続き京都・奈良が文化の中心地として、貴族文化も共存していました。元寇(モンゴル襲来)は、この時代の大きな国難でしたね。

南北朝時代(1336年 〜 1392年)

後醍醐天皇の建武の新政崩壊後、足利尊氏が京都に北朝を、後醍醐天皇が吉野に南朝を開き、二つの朝廷が対立した動乱の時代です。この時代は約60年間続き、広義の室町時代の一部とされます。多くの戦乱が起こったため、歴史に正しい答えを求める動きから『太平記』などの軍記物語が生まれました。

室町時代(足利尊氏の幕府開創から1573年)

足利尊氏が京都に室町幕府を開いた時代です。室町時代は広義には1336年または1338年から1573年までを指し、この中に南北朝時代や戦国時代も含まれることがあります。将軍足利義満の時代の北山文化や、足利義政の時代の東山文化など、禅の精神を取り入れた独自の文化が花開きました。茶の湯や生け花、能・狂言などもこの時代に発展しましたね。

戦国時代(1467年頃 〜 1573年)

応仁の乱(1467年)が勃発し、室町幕府の権威が失墜するとともに、地方の守護大名や国衆が各地で実力をもって領国を支配するようになりました。この動乱が約1世紀から1世紀半にわたる戦国時代の始まりとされています。日本では戦乱が頻発し、下剋上が横行した時代として知られています。

安土桃山時代(1573年 〜 1603年)

織田信長が室町幕府を滅ぼしてから、豊臣秀吉が天下を統一し、徳川家康が江戸幕府を開くまでの約30年間を指します。信長と秀吉が中央政権を握っていた時代として「織豊時代」とも呼ばれます。茶の湯文化が確立され、千利休によって「わび茶」が大成されました。豪華絢爛な桃山文化が花開いた一方で、キリスト教の保護や南蛮貿易も盛んに行われました。

江戸時代(1603年 〜 1868年)

徳川家康が江戸に幕府を開いた1603年から、1868年の明治維新まで続く約260年間の時代です。鎖国政策や厳格な身分制度によって長期的な安定が築かれ、世界的に見ても珍しい平和な時代となりました。武士だけでなく町人も学問を学び、歌舞伎や浮世絵などの町人文化が発展しました。







三谷氏とは?



現在の香川県高松市三谷町周辺の歴史を語る上で欠かせない、三谷家、三谷城、そしてその詰城である王佐山城についてお話しします。



三谷家(みたにけ):讃岐国造の誇りを受け継ぐ名門



三谷家は、景行天皇の子である神櫛王(讃岐公の始祖)を遠祖とする、極めて古い歴史を持つ一族です。


三谷氏の出自:


讃岐公の系譜は、神櫛王から千麿命、須賣保禮命を経て、代々讃岐の地を治めてきました。


平安時代の天徳年間には、植田左衛門尉景茂から始まる「植田氏」へと繋がります。









南北朝時代、植田景保の子らが分かれ、長子が神内景辰、次男が三谷景之(三谷氏の祖)、三男が十河吉保(十河氏の祖)となりました。

植田景保三谷家の祖: 三谷八郎景之 → 三谷景隆 → 三谷景之 → 三谷光廣 → 三谷景晴 → 三谷景久 → 三谷景俊 → 三谷景則 (東かがわ市黒羽)

引田町人物史。全讃史などの通説では三谷家の祖は三谷景之、二代目が三谷景隆



引田町人物史



引田町人物史



・十河氏



・十河氏の系譜

植田景保の子らが神内景辰、三谷景之、十河吉保に分かれた。



・十河城





歴史通説(讃岐全史など)による三谷家の祖



讃岐の多くの史料(『全讃史』など)では、三谷家の祖は植田景保の二男である三谷景之 (八郎)となっています。


通説の順序:

植田景保の息子

長男:神内景辰

次男:三谷景之(通称:八郎) ← 景之が「八郎」を名乗り、三谷家の祖とされる。

三男:十河吉保



景隆の立ち位置:


多くの記録では、景之の子が景隆(三谷城を築いた人物)とされています。



三谷家の祖は「二男」か「三男」か?



二男説:

多くの史料で三谷氏は「植田景保の次男」の系統とされます。


三男説との混同:

弟の十河吉保が細川氏から「惣領(一族のリーダー)」を命じられたため、序列が入れ替わって語られることがありますが、血縁上の出生順としては三谷景之が次男とされるのが一般的です。


結論:


一般的には「景之(父・初代・八郎)ー 景隆(子・二代)」と記されることが多いです。







三谷氏の系譜と武勇:



三谷氏の祖・景之の子である三谷景隆の代には、細川家の旗下として活躍しました。


その後、三谷対馬守光廣、三谷掃部頭景廣へと続き、一族は讃岐の有力な武士団としてその地位を確立しました。




三谷兵庫頭景晴と詰城の築城:


室町時代の永享2年(1430年)、三谷兵庫頭景晴(五代目)が将軍・足利義教の命により御所の怪鳥を射落とし、兵庫頭に任ぜられたと伝わります。

この景晴の代に、防衛の要として王佐山城が築かれました。




三谷城と王佐山城:不屈の防衛戦略



三谷氏は、居館としての「三谷城」と、要塞としての「王佐山城」を使い分ける巧みな戦術で領地を守り抜きました。


三谷城(里城):

現在の三郎池(三谷池)東側に位置した平城で、三谷景晴・景久父子の墓所が残る付近がその跡地とされています。




高松市三谷町の三郎池東側にある三谷景晴、三谷景久の墓所





王佐山城の激闘:


六代目・三谷兵庫頭景久の代、文明11年(1479年)から翌年にかけて寒川氏の侵攻を受けましたが、王佐山城に立て籠もり、多大な犠牲を出しながらもこれを撃退しました。


天正10年(1582年)頃、長宗我部元親の侵攻により、由佐秀武に攻められ王佐山城は落城しましたが、一族の系譜は絶えることなく続きました。



・王佐山城の案内板




三谷家の変遷と「三谷甚六」家



戦国動乱ののち、三谷家の一部は黒羽村(現在の東かがわ市黒羽)へ移り住み、独自の家系を築きました。




黒羽への移住:


1584年(天正12年)頃、景久の孫にあたる七代目・景俊の系統から、黒羽村へ来住する流れが生まれました。

この背景には、1584年に長宗我部元親軍により虎丸城が陥落した経緯があります。

三谷家の居城だった高松市三谷町の王佐山城は1582年に長宗我部元親軍により落城していました。

1584年に十河存保(まさやす)と三谷家の者たちは虎丸城にいましたが、長宗我部元親軍の攻撃にあい、虎丸城は陥落しました。

十河存保は豊臣秀吉を頼って大坂へ落ち延び、三谷家の一部の者は東かがわ市黒羽に逃れました。

この三谷家の者は黒羽で帰農し、江戸時代にはこの地で白砂糖を作る製糖業を始め財を成しました。



・十河存保


・十河存之





三谷甚六家の興り:



三谷家の家系図によると、弥次兵衛から分かれた甚六が、黒羽原の地で屋号「甚六」を称する家系を立てました。

この三谷甚六家は代々「甚六」の名を継承し、幕末から明治にかけて幸治郎、峰八、忠次郎、房雄と続きました。

この家系は、瀬戸内晴美(寂聴)さんの父の出身家でもあります。

三谷峰八の三男 三谷豊吉の次女が瀬戸内寂聴さんです。


引田町人物史


・東かがわ市の虎丸山に虎丸城があり、長宗我部元親軍による虎丸城陥落後、三谷家の者は東かがわ市黒羽に逃れました。十河存保は豊臣秀吉を頼って大坂へ落ち延びました。



東かがわ市黒羽にある糖業感謝碑



・江戸時代、三谷甚六家は製糖業を始め財を成しました。

黒羽にある糖業感謝碑。この近くに瀬戸内寂聴さんの父の実家がある。黒羽の三谷家からは瀬戸内寂聴さんの他、引田町町会議員も輩出している。




笠置シヅ子さんと萬生寺



ちなみに、歌手の笠置シヅ子さんは、黒羽の三谷家の三谷陳平と谷口鳴尾の間に生まれましたが生後間も無く大阪の亀井家の養子となりました。

亀井家はもとは東かがわ市引田の出身です。笠置さんの生家も江戸時代から製糖業を営む豪農でした。現在は、分家の孫黒茂 三谷製糖が東かがわ市馬宿で讃岐和三盆の製造、販売を続けています。




笠置シヅ子さんの養父母と義弟の墓は東かがわ市引田の萬生寺にあります。笠置さんは、萬生寺(まんしょうじ)に銅製の雨どいを寄進しました。現在もこの雨どいと笠置さんの寄進塔が残っています。笠置さんは萬生寺の前にあった朝日座でコンサートも行いました。




・東かがわ市引田の萬生寺。



・入口の左手にある笠置シヅ子さんの名前が彫られた寄進塔





・笠置さんは。お寺の屋根の銅製の雨どいを寄進されました。

https://bizconsul.net/2023/12/01/134053/


本堂の銅製雨どい





・2026/1/27訪問: 本堂前に、舞台「わが歌ブギウギ」のチラシが置いてあった。




・1949年4月に笠置シヅ子さんは、萬生寺前にあった朝日座でコンサートを開催しました。1947年に「東京ブギウギ」が大ヒットし、一躍、スターとなった笠置さんは、この時、故郷の香川県東かがわ市に錦を飾り、公演の合間に、会場に近い写真館の座敷でカメラにおさまりました。


左側が朝日座跡。右側のは萬生寺




・笠置さんのご家族。長男の頼一と次男の正雄は幼くして亡くはられました。

父親:亀井音吉
母親:亀井ウメ
長男:頼一
長女:笠置シヅ子(養女)
次男:正雄
三男:八郎 (戦没)


養父母のお墓は山門を入ってすぐ左手にあります。朝ドラ ブギウギで亀井音吉役を演じた柳葉敏郎さんや翼和希さんらも訪れています。







戦没された義弟の亀井八郎さん




戦後の日本を歌で鼓舞し続けた「ブギの女王」笠置シヅ子さんも、香川県東かがわ市黒羽で製糖業を営む黒羽三谷家の出身でした。朝ドラ『ブギウギ』のモデルにもなった彼女が、この瀬戸内の地と深い縁を持っていました。生後間もなく大阪の亀井家(出身は東かがわ市引田)の養子となりましたが、そのルーツは確かにこの黒羽(くれは)の三谷家にあるのです。



・笠置シヅ子さんの家系

三谷四郎兵衛 (製糖業を営む豪農)

三谷栄五郎(養子) 南原繁に漢文を教えていた。南原繁は後に東京大学総長になり、また笠置シヅ子さんの後援会長をしていた。

三谷陳平(南原繁の幼馴染)、谷口鳴尾

笠置シヅ子 (本名 亀井静子)



三谷四郎兵衛家は、江戸時代から製糖業を営んでいました。黒羽村で組頭をしていて江戸時代の文化元年(1804年)に庄屋の坂東伝右衛門などとともに藩に製造の許可を申請していて、その写しが県の文化財となっています。


笠置さんは、1949年に、萬生寺前にあった朝日座でコンサートを開催したことがあります。また、一人娘のヱイ子さんを連れて近くの安戸池で魚釣りをしたこともありました。


https://bizconsul.net/2025/09/28/149707/




瀬戸内寂聴さんと積善坊



この萬生寺の二軒隣りの積善坊(しゃくぜんぼう)に瀬戸内寂聴さんの父母のお墓があります。墓石には聖書のヨハネ黙示録14章13節が刻まれています。






瀬戸内寂聴さんの父は徳島の眉山前で神仏具店を営んでいましたが、墓石に聖書の一節が刻まれているのは養子先の瀬戸内イトさんがクリスチャンだった為です。

墓石には、ヨハネ黙示録十四章十三節の「(今より後) 主にありて死ぬる人は幸ひなり」という言葉が刻まれています。





新約聖書の『ヨハネの黙示録』14章13節は非常に厳かで深い一節です。

「今より後、主にありて死ぬる人は幸ひなり」

「今から後、主を信じて亡くなる人は幸いである」という意味です。

これは単に「死後の救い」を説くだけでなく、「現世での苦難や労苦から解き放たれ、その歩んできた正しい行いは決して消えずに残る」という励ましの言葉でもあります。



「(今より後) 主にありて死ぬる人は幸いなり」
「ヨハネ黙示録十四章十三節 抜粋」




・徳島市東大工町にある瀬戸内神仏具店




・【東かがわ市】瀬戸内寂聴さんゆかりの積善坊にある五輪塔と四宮家の関係。 笠置シヅ子さんゆかりの萬生寺



・瀬戸内寂聴さんの先祖はなぜ東かがわ市に住んでいたのか? 讃岐に潜んだ阿波水軍の末裔:高松藩 森家の出自と幕末の特命婚姻






三谷城(みたにじょう):生活と政務の「里城」


高松市三谷町の三郎池東側、微高地に位置したとされる平城(居館)です。


役割:

平時の居館としての役割を果たしました。崖端の館城という地形を利用し、三郎池(旧・三谷池)の水利権を掌握するための拠点でもあったと推測されます。


戦法:

三谷氏の最大の特徴は、「攻められれば平地の三谷城を捨て、険峻な王佐山城に籠もって迎え撃つ」という徹底した防衛スタイルにありました。

事実、文明11年(1479年)の寒川氏による攻撃の際も、里城を焼き払われながらも、王佐山城でこれを撃退しています。


現状:

現在、遺構はほとんど残っていませんが、三郎池東側の丘陵には三谷景晴・景久父子の墓所があり、その威徳を偲ぶことができます。


・三谷景晴、三谷景久の墓(高松市三谷町三郎池の東側)。ここに三谷城があったとされる。


・高松市三谷町の三郎池と上佐山





王佐山城(おうさやまじょう):難攻不落の「詰城」




現在の上佐山(標高255.7m)に築かれた、三谷氏の最終防衛ラインです。





城郭構造:


北の山頂部と南西の「雌上佐山」の二峰にまたがる大規模な山城です。

山頂の主郭には帯曲輪が巡り、特に北西尾根には「畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)」と呼ばれる、敵の横移動を阻止する高度な防御遺構が残っています。



鉄壁の歴史:



寒川氏の襲来(1479年〜1480年):

里城を焼いた寒川勢を、峻険な地形で跳ね返しました。


香西氏の襲来(1508年):

香西元定による攻撃も、この城に籠城して撃退に成功しています。


落城:


長らく不落を誇りましたが、天正10年(1582年)、土佐の長宗我部元親による讃岐侵攻には抗えませんでした。

元親は先に降伏させた由佐秀武(由佐城主)を先鋒として王佐山城を攻め、ついにこれを陥落させました。




・上佐山山頂






三谷氏の誇りと不屈の防衛戦略




三谷氏の歴史は、「状況に応じて拠点を移し、徹底して戦い抜く」という、極めて合理的かつ不屈の防衛戦略に彩られています。

万策尽きたかと思われる状況でも、詰城である王佐山城へと退き、そこから反撃に転じる姿は、「諦めないという選択肢」を体現しているかのようです。

現在、上佐山の山頂からは高松平野を一望できますが、それはかつて三谷氏が守り抜こうとした、豊かな水利と領地を象徴する光景でもあります。




・引田町人物史



引田町人物史



三谷景晴、三谷景久の子孫にあたる三谷甚六が瀬戸内寂聴さんの先祖となります。

甚六家は、江戸時代から東かがわ市黒羽にて製糖業を始め、讃岐和三盆の製造を行い財を成しました(瀬戸内寂聴さんの祖父 三谷峰八さんの代までは工場経営は順調だったようです)。白砂糖は讃岐三白のひとつとして高松藩の財政を大いに潤しました。

瀬戸内寂聴さんの父の養子先である瀬戸内いとさんの夫は黒羽村の隣りの馬宿村の久米通賢の次男でしたが、この久米通賢は讃岐のエジソンと呼ばれた人物で坂出の塩田を私財を投じて開拓し後に日本一の生産量を誇り讃岐三白の一つとして高松藩の財政を支えました。



・久米通賢



・徳島藩 碁浦御番所があった番所は? 測量中の伊能忠敬は鳴門のどこに上陸したか?




三谷家の家系図



・引田町人物史







三好氏の家臣だった三谷氏



三好氏家臣団:

讃岐

植田氏、十河氏、神内氏、三谷氏







瀬戸内寂聴さん




瀬戸内寂聴さんのプロフィール


瀬戸内寂聴(せとうち じゃくちょう)

生没年:1922年(大正11年)ー 2021年(令和3年)

出身地:徳島県徳島市(徳島市名誉市民)

肩書き:小説家、天台宗尼僧(権大僧正)

姓名の変遷

三谷晴美として誕生。徳島高等女学校時代、父の養子縁組に伴い瀬戸内晴美に改姓。

1973年に出家し法名「寂聴」を授かる。1987年に戸籍名も「寂聴」に改名。


略歴

東京女子大学卒業後、波乱に満ちた恋愛経験を経て作家デビュー。

1963年『夏の終り』で女流文学賞を受賞し人気作家となる。

51歳で中尊寺にて得度(師僧は今東光)。京都に「寂庵」を構え、法話や社会活動、古典の現代語訳に尽力した。

大正・昭和・平成・令和の4つの時代を生き抜き、99歳で遷化(逝去)。


代表作:『夏の終り』『花に問え』『場所』『現代語訳 源氏物語』など。


主な栄誉
:文化勲章(2006年)、文化功労者(1997年)、従三位(2021年)。



寂聴さんは、晩年も胆嚢がんの手術を乗り越えて復帰されるなど、最後まで非常に力強く、まさに「生きた、書いた、愛した」生涯を全うされました。






王佐山城と三谷城の位置



王佐山城があった上佐山までは高松駅から車で35分くらい


三谷城は高松市三谷町の三郎池の東側にあった。


王佐山城は高松市三谷町の上佐山にあった。







三谷城と十河城の位置関係





三谷城






王佐山城








十河氏の居城: 十河城







植田氏の居城: 戸田城、戸田山城















神内氏の居城: 神内城










【讃岐秘話】東かがわ市の旧・武家とその繋がり: 板西城主 赤沢信濃守宗伝、黒羽城主 永塩因幡守氏継、十河氏系三谷家、碁浦御番所役人 八田孫太夫、仙石秀久家臣 森権平久村



私の曽祖父 森虎太郎の妹 森トヨは明治26年、東かがわ市黒羽の三谷家へ嫁ぎました。大叔母らは三谷家の法事に手伝いに行き参列していましたが、瀬戸内寂聴さんも後年は法事に参列していました。実際、黒羽を訪れたときのことを小説「場所」の中に書いています。


・高松藩 森義右エ門の長男 森喜平は徳島藩碁浦御番所役人を231年間務めた第九代 八田家当主 八田孫平の長女 八田キヨと藩をまたいで婚姻。森喜平の長男 森虎太郎は東かがわ市黒羽で細川勝元に仕えた黒羽城主 永塩因幡守氏継の子孫 永峰杢左衛門家の永峰チヨと結婚。江戸時代、永峰家は黒羽村の庄屋 地主だった。



・永峰チヨの娘 森ミヤコは東かがわ市黒羽の実家の永峰家に嫁ぎ、永峰修一と結婚した。

永峰家はルーツを遡ると、細川京兆家に代々仕え摂津守護代を歴任した長塩家となる。

・永塩因幡守氏継(讃岐黒羽城主、黒羽神社創建)


長塩備前守又四郎元親 (細川政元、細川高国の重臣。国宝 東寺百合文書に手書きの書状が残る)

長塩又四郎 (本願寺法主 証妙の天文日記に活動の記述が残る)

1549年、三好長慶の下克上により長塩家は摂津での役職、拠点を失った。讃岐黒羽へ移住。

永峰宅本 1553-1631)  永峰姓に改姓、帰農。江戸時代、永峰家は地主、庄屋を務めた。


●永峰家家系図 (引田町人物史)










1583年、引田の戦い後、仙石秀久の家臣 森権平久村の一派が東かがわ市馬篠へ移り住んだ理由は? 仙石秀久の魅力とは?



【讃岐秘話】謎多き永塩因幡守氏継と東かがわ市黒羽。 幻の城 黒羽城の推定跡地。 黒羽神社を創建。 細川勝元、安富元綱との関係。 応仁の乱に参戦した結果は?




【讃岐秘話】1641年、生駒家改易後の阿波と讃岐の国境争議の裏側: 阿波側証人 八田孫兵衛の主張は? 八田孫太夫の先祖覚え書きから読み解く国境決定の経緯 (鳴門市史 上巻)




【讃岐秘話】讃岐の隠密: 幕末期、なぜ高松藩 森家と徳島藩 八田家はわざわざ藩を跨いで婚姻を結んだのか?






著者のプロフィール




森啓成 (モリヨシナリ)



ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント


神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部マーケティング専攻。

大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事し、北京オフィス所長を務める。

その後、香港、中国にて外資系商社設立に参画し、副社長を経て顧問に就任。

アメリカ、シンガポール、中国、ベルギーなど、海外滞在歴は計16年以上。


現在はBizconsul Office代表として、ビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタントとして活動中。

観光庁インバウンド研修認定講師、四国遍路通訳ガイド協会会員、トリリンガル讃岐PRオフィサーも務める。



【保有資格】

  • 英語: 全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点 (L満点)、TESOL (英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級

  • 中国語: 全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級

  • ツーリズム: 総合旅行業務取扱管理者、国内旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド、せとうち観光推進機構主催”せとうちスルーガイド研修”修了



【メディア・研修実績】

香川県広報誌「THEかがわ」インタビュー記事掲載。

瀬戸内海放送(KSB)及び岡山放送(OHK)ニュース番組コメント。

観光庁インバウンド研修認定講師として地方自治体や宿泊施設で登壇。

四国運輸局事業コンサルタント、 瀬戸内国際芸術祭オフィシャルツアー公式ガイド、香川せとうち地域通訳案内士インバウンド研修講師認定試験面接官を務める。



・香川県登録通訳案内士サイト



・座右の銘は「雨垂れ石を穿つ


・全国通訳案内士登録証 中国語

・全国通訳案内士登録証 中国語

・香川せとうち地域通訳案内士登録証 中国語

・四国遍路通訳ガイド協会会員証

・観光庁インバウンド研修認定講師


・地中美術館、ベネッセハウスミュージアムを設計した安藤忠雄さんに書いて頂いたサインと光の教会


・せとうち観光推進機構主催”せとうちスルーガイド研修”修了







以上

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