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OVA「新ゲッターロボ」考察と感想~6時間の「ニセゲッターロボ」PVもしくは「(バイオレンスジャック版)ガクエン退屈男リメイク」

流石にこれ書いたら多方面に喧嘩売りそうだなと思って自重していた本音丸出しのつらつらとした感想兼考察メモである。盛大に水ぶっかけるつもりなら最初からこれを出してます。
考察メモをかねているため随時追記や改稿が入ります。
最初はこんなに書くつもりなかったんですが20年もきちんとこれがどういう話だったのかすら理解されてないのは作品にも制作者にも可哀想だと思い、プロット構造など紐解いています。長いです。

以前水をぶっかけるにクリティカルな内容は自重して怒りをぶちまけた記事はこちら。漫画版初代ゲッターチームの本来の人物像などはこちらに詳しく書いたので、この記事では私には新ゲッターの人物や話はどう見えていたのかの内容がほとんどです。

なおこの記事には永井豪作品のデビルマン、ガクエン退屈男、手天童子のネタバレや個人的感想、解釈も含まれています。


【一行でまとめ】

最初に言おう。
もしもあれを本気で「ゲッターロボ」だと言うなれば
「川越監督はゲッターロボどころかダイナミック作品の本質を勘違いしたままあれを作り、盛大に脳天にブーメランぶっさしてるのを脚本が煽ってる」
そうでなければ
「制作者が揃ってわざとアンチゲッターロボとして構成し『これがゲッターロボだって?ww』と視聴者をバカにしている」
の二択であるとしか私には捉えることができなかった。

一番マシな捉え方は作った側の認識は元より「ニセゲッターロボ作品」であって
「理性の無いケダモノは運命に抗えない」「愛╱理性が存在しない、滅びの決定付けられた世界」
漫画版と手天童子から反転構成した結果の「(特にバイオレンスジャック版)ガクエン退屈男リメイク」
であったという受け取り方で、これならば良くできている。
しかし、それはそれで皮肉ったものが最悪だとかゲッターロボのタイトルを使うべきではないとかせめてそれを明言しろとかはあるのだが。

*この辺すらも「ガクエン退屈男」リメイクであると言う前提で、「大義名分(有名タイトルの看板)を掲げて好き勝手暴れまわるケダモノ」「本物を乗っ取り自分こそがそれだと思っているニセモノ」=この作品のメタ構造が「ガクエン退屈男」(特にバイオレンスジャック版)のメタファーやその末路と捉えるなら良くできている。
また、「新ゲッターロボ」の「新」とはその中で痛烈に批判された「新左翼(ニセ左翼とも言われた)」の「新」であり、「ニセモノ」の意味とも取れるだろう。

この「意図は不明だが結果的なタイトル詐欺」のせいで、結果的にこの20年まともな正しい評価をされていない可哀想な作品でもあるだろう。

【ダイナミックプロ作品の根底にあるものと作品成立の流れ】

まず「川越監督の関わったダイナミックプロ未監修派生ゲッターロボ作品群」はどんな理屈をもってああなっているかの部分から始める。
多くの作品に関係する原典における「ゲッターロボ」という作品はどのような背景、構成成分をもって成立しているのかという根本的な話である。

*以下はこの記事に書いた事で、今回題材とするOVA「新ゲッターロボ」に関わる部分に絞った説明となる

そもそもダイナミック作品は「理性」を「人間性」のひとつと定義し、生物学的には「ヒト」であっても「人間」となるには理性を必要とする。
*念のために書くが、特に石川作品においてはヒト種の時点で人権は存在している。人間でない=どれだけ心無いド悪党でも人権は存在する。ここで述べるのはそういう話ではないのは念頭に置いていただきたい

この思想が確立し以降のダイナミック作品の根本になったであろうエポックメイキングかつターニングポイントが「デビルマン(1972年╱永井先生作品)」である。

なぜ、あの作品のなかで人類は滅んだのかと言えば、理性を無くしたがための一種自滅であり、真に理性をもった(デーモンに自我を食われていないことがその証拠である)デビルマンという半人半魔の存在こそが「人間」として存続した。
しかし、あの世界は明たちが抗ったにも関わらず、最終的には理性を失ってしまい、暴力がすべてとなってしまったがためにサタンしか残らないし、そのサタンもより大きな力によって滅ぼされるという示唆で終わる。

「力の強い者が強いからといって弱者の生命を 権利をうばってよいはずはないのにな…」「ゆるしてくれ 明…」「わたしはおろかだった」

電子書籍版「デビルマン」5巻 204頁

ラストシーンでサタンが明に向けて語るこの部分が重要な作品であろうと私は考えている。

この台詞からはここまでに、そしてこれから述べる「理性」とは厳密には「他者を対等の存在と認め、尊重する心」であったという解釈も可能だろう。
自分は強く他人は弱いから、自分と他人は対等ではない(上下関係、支配関係であり、ある種の選民思想でもある)から一方的に奪っていいと思っていた自らの愚への気付きと後悔。
*念のために記載するが、「自分は被害者で相手は加害者だから」でも「他者を同等の存在と見ず、それを理由に限度を超えて奪い尽くす」というならその本質は同じである。弱者であれ強者であれ、何らかの正当性を掲げて真に正当な線引きを越えて奪うならば全て同じである

デーモンと人類(そしてサタンが神の一族であったことを踏まえれば神すらもが)とは本質的には同族食いであり何も変わらず「全ての生物は力によって食いあう存在であり基本的にはやがて自滅する」という運命を持ち、それに抗うためには「他者を思う」という「理性」をこそ必要とするという読み方も可能だろう。

デビルマンより以前に描かれたガクエン退屈男(1970年╱永井先生の作品だが中核スタッフとして石川先生も関わっている)という作品も同じ流れにある。

最初からあの世界には理性など存在しない。
大層なお題目掲げておきながら、その実暴れたいから暴れているだけの(しかしそのために他人どころか自分の命すら投げ捨ててる気合い入りまくった)自己中心的なケダモノとニセモノ=門土と竜馬たちが、そのまま周囲を巻き込んで自滅に向かう話である。少なくとも私にとっては。
ガクエン退屈男は60~70年代の学生運動(新左翼の発生と勃興もここ)を背景に、永井先生が痛烈にそれを皮肉った作品である。
「権力で押し付けてくるやつらもクズだが、お題目掲げて暴れたいだけのお前らも同じだ」
「そこに正義はおろか義も理も無い。ケダモノでニセモノのお前たちは誰からもなにも認められずにそのまま滅ぶ」
そう言っているようにしか思えない作品だった。

1970年のガクエン退屈男、そして72年のデビルマン。(ここにはガクエン退屈男とデビルマンの間、71年の魔王ダンテも含まれるであろう。この作品が原型となってデビルマンとマジンガーZに分化していると思われる)
これらの流れの中から1974年ゲッターロボも生まれた。

元来のゲッターロボという作品は最初から最後まで「理性」があることを前提として展開する。
(石川作品において人間と動物を分けるものは厳密には本能と理性の間に生じる「心」であるとも言えるが)

東映版漫画版共に共通する原案の時点にあっただろう「主人公は三人の個性ある若者である」という点からしても、作中東映版でも漫画版でも言及される「協調性」と「チームワーク」からしても、正しい意味での「個人主義」をコンセプトのひとつにしただろうことは想像に容易く、東映版はミチルの存在をして「自立した女性」を描き、漫画版は過酷なシチュエーションでもって「人間の尊厳」を描き続けた。

そこにあったものは性別や人種にとらわれない「人が人として生きるための尊厳」「生きる権利」「他者の存在を尊重し、自己の意思を尊重する正しい意味での個人主義」であったと私には思える。

また、作品の核のひとつである「三つの心」とは生存本能すらも理性で御して「死ぬときは一緒だ」と誓い、戦場に立ち続けた少年たちの命がけの信頼と絆であった。
そしてムサシやリョウや號はその誓いを破ってまでも「生きてほしい」という思いがそこにあったから、仲間を残しひとりその身を犠牲にしたというそれ以上の愛情の話である。

異なる視点からのアプローチとしては、漫画版ゲッターロボには「デビルマンの反転の再構成」という側面もあるだろう。
*そちらの詳細は以下記事

流竜馬に飛鳥了を、神隼人に不動明を投影してのオマージュを始め、プロットまで落とした話筋を組み替えて構成している部分が多数見受けられる。
理性が失われたから一人を残し滅んだ世界の逆転。
理性が、愛情(心)があったからこそ、一人が犠牲となって未来へ繋がれた世界。

この「ゲッターロボ」が別作品の反転構造を含むという図式は「ガクエン退屈男」もそうであった。
身堂竜馬→流竜馬「竜」=「虎」神隼人←三泥虎の助

こちらは「最初から最後まで理性(心)がない世界」だった。
その逆転としての「最初から最後まで理性(心)がある世界」がゲッターロボ。
そしてこれらを前提として、ゲッターロボからバイオレンスジャックにおける「ガクエン退屈男」コンビに設定が逆輸入された。

*ここには連載の開始時期や序盤設定から見るにそもそも「バイオレンスジャック」という作品が「リョウと隼人の設定入れ換え前、ゲッターロボ初期案」と関係があり、最終的には「永井作品におけるゲッターロボ位置」「石川先生のゲッターロボとは相補関係にあたる『枠を重視した協調性』の話=石川作品では虚無戦記相当」として確立したのではないか(少なくとも、川越監督はそう解釈したのでは)という疑惑も持っている

結果、バイオレンスジャック版では
「流竜馬とその愛する友であり分身である神隼人」
の反転(相反)存在として
「身堂竜馬とその愛する友・早乙女門土(+分身である身堂虎乃助)」
と明確に設定されたために、これを元に再翻案、結果として背景や人格が変更された(竜馬の「友を愛している」、門土の「明確な目的を持つ過激派運動家であった」など様々な設定はガクエン退屈男では存在しない)のではないか。

具体例上げるとリョウ(竜馬)の核のひとつである「友を愛している」にしても
三泥竜馬:親や周囲から「愛されたい」
飛鳥了:不動明を愛しているから「愛されたい」(オリジナルは必ずしもそうではなかったと思えるが、80年前後の新デビルマンなどを見るに少なくとも後年作者からはそう解釈されていたと思われる)
が反転し
流竜馬:いっそ世界をくらいのレベルで「愛したい」「愛している(最早自己完結していて見返りを求めない)」(特に自分の分身でありながら他人である友とは広義で相思相愛╱自他分離が明確)
となり、
バイオレンスジャックの身堂竜馬でまた反転
(そもそもゲッターロボの竜馬と隼人の反転としてこの竜馬と門土は再翻案されていただろう。設定や人格がオリジナルと違うのはこれを起因としたのではないかと感じた)
身堂竜馬:他人であったはずの友を自分の分身として愛したいし愛されたい╱自他分離できていない
飛鳥了:すべてが自身の分身であった世界を愛したい(から試し行為をしてしまったし、愛しきれなかった╱自他肯定しきれてない感)
という具合に反転連鎖している雰囲気が強い。

そしてバイオレンスジャック版における彼らは
「他者を対等な存在として認め尊重する、正しく愛する理性(心)を持ち得なかったために、その必然の帰結として全員が死亡する」
*「心=愛」はあるにはあるのだが、利己的に動き歪みきっている。利他的な他者への愛ではなく自己愛に極端に振れている


元来、こういった複数作品にまたがって流れる文脈がある上でその中の重要なポイントを担う作品が「ゲッターロボ」である。

これらをベースにして「暴力ヒャッハー!!」「好き勝手していいんだー!」なんてマチズモ全開の暴力擁護と取れる話を展開することのバカらしさといったら無いとは思わないだろうか。
上っ面だけ見て暴力性や自己中心的な考えを肯定されたと勘違いでもした猿が、まんまと「じぶんはさるでーーーーす!!」って自己紹介してるのを、元作品が後ろから「こういうのは滅ぶから」と言ってる図である。
新ゲッターは結果論として丸々これに被ってしまっている。
正直言うと原作を知ってからは、そのあまりに幼稚とすら言える痛々しさと恥ずかしさに記憶を封印しかけた。

「ガクエン退屈男(特にバイオレンスジャック版)のリメイク」だろうというのもここに理由があり、最初から最後まで「理性のある世界」ゲッターロボを反転させ、「理性の無い世界」を描けばそれは必然本質としてはそうなるという話である。
それはゲッターロボではなく、ガクエン退屈男なのである
*石川漫画版ゲッターロボの反転≒バイオレンスジャック版ガクエン退屈男≒漫画版デビルマン

まして、原典、特に漫画版における「ゲッターロボ」では「外見だけで中身の違うものはその人物ではない」(同一性を外見やフォーマットではなく、人格や魂や心という目に見ることのできない核の部分に置く)という描写が20年以上にも渡って幾度となく存在した作品である。
このタイトルを使った時点でそれは理解していなければおかしいだろう。

これを気付かずに本気でゲッターロボだと思ってやっているなら「製作者が華麗に脳天にブーメランぶっさしてる」以外の何者でもないし、意図的にやってるなら「お前ら(視聴者)はこんなニセモノがゲッターロボだと思ってるわけ?wwww」という煽りくらいにしかならないのではないだろうか。
意図的な場合、なにも知らない人間には制作者による完全な騙し討ちでもある。これがゲッターロボで、この中の人物は悪くないはずだ、と思っていればいるほどに「そんなだからこいつらもお前たちも滅ぶんだよww」という悪意が突き刺さる構造である。

それ以外でこれをやる必要があるのだろうか。私には想像がつかないので、あるなら教えてほしいものである。

*またこれと全く正反対の構造=
表層:バイオレンスジャック版ガクエン退屈男+漫画版デビルマン╱本質:反転したガクエン退屈男≒石川漫画版を中心とする原典のゲッターロボ
となる作品が15年の同監督による「マジンカイザーSKL」であろう。
本来、ゲッターロボとデビルマンやガクエン退屈男、またはマジンガーZ筋や虚無戦記といった作品は同じロジックを持ち、前者はその必然として滅び、後者は重視する場所が異なるという「相補関係」にある作品群となるが、OVA新ゲッターロボとマジンカイザーSKLは(前者は滅ばないとした場合)ロジックから対立する「相反関係」ともなっている。
ダイナミックプロ未監修派生作品と、原典となるゲッターロボをはじめとする公式監修作品がそうであるように。もしくは、公式監修作品群における「悪たる敵」と「それに抵抗する主人公側」のように。

【アンチゲッターロボとしての根拠と「新ゲッターロボ」の概要】

◇石川漫画版の反転であることについて

少なくとも脚本家はアンチゲッターロボ・ニセゲッターロボとして意図的に構成しているのだろうと私が考える根拠としては、先にあげたそもそもの物語の枠構造、ロジックの話だけではない。
そもそもOVA新ゲッターロボ作中の出来事の多く(シーンプロット)が「漫画版の反転」である

パッと思い出せる範囲ですら漫画版↔新ゲッターでは以下のようになっている
父を除け者にした空手界に「貸しがあった」から落とし前をつけにいったリョウ↔自分が893に借金という「借りがあった」のを踏み倒そうとした竜馬
達人は 正気を失い博士に殺される↔正気を保って竜馬に殺される
早乙女博士の背中を リョウが見ている↔竜馬が見ていない
リョウが校舎に殴り込み↔隼人が研究所を狙う
相互理解の上で↔決定的にあわず 研究所を出ていく竜馬(リョウ)
早乙女博士に会いに行く リョウ↔隼人
後述する過去編も、漫画版では未来を見ていることの逆転であろう。
ラストに竜馬一人だけが分離して突っ込むのも、あの台詞からすれば無印で記憶喪失になる事件(このままでは全員死んでしまうから無事な二人だけでも逃げろと分離してリョウだけが残った)の反転である。

正直に言うが、漫画版を読んでいれば大概は違和感には気付くだろうというレベルで尽くなにかが反転している。似せているのは表面だけである。
(しかしその表面上のデザインすら石川漫画では明らかに悪側の表情付けが多かったり、各人の服デザインに違和感があったり、ゲッターロボのリデザインも目付きが異様に悪く悪記号が増えている)
どうにもこれだけでも「これで気付かないならお前らは中身なんかどうせちっとも見ていないんだろうww」という制作者からの皮肉か悪意すら感じる。
ましてや、人物像もほぼ反転しているのである。

漫画版における流竜馬(リョウ)は他者の生命や権利を奪い踏みにじることに対して、理性をベースにした怒りをもって抗い戦う人間であった。
神隼人は他者に優しく信頼される人間性を持ちながら、人類存続という目的のために冷徹に振る舞い続けた人間だった。
巴武蔵は最初は自己中心的でありながら徐々に愛を知り最終的には紛れもない自分の意思で皆を守るために身を犠牲にする。

新ゲッターは似ても似つかないというより、(原典筋の中で考えるなら)意味不明に傲慢で他者に威圧的な新竜馬はブライ、ゲッター線に執着する新隼人はゴールと言われた方がまだその人物像の本質に近い。
ベースにあるのが漫画版(と東映版)と考えると尚更、余りにも人の心が無さすぎるろくでなしばかりな上に他者へ無理解であり歩み寄りも見せず、仲が良いのは表面上だけだと設定まで使って強く言っているように思える。

◇原作や論理的整合性との矛盾

そもそも新ゲッターロボという作品は根本設定からして「三つの心」が揃うはずがない。

竜馬以外の他二人はストッパーだというなら、竜馬以外は物語の筋としてもパイロットとしても必要ない。
その設定があるだけで「全員が対等である」ことが前提にならないし「協調性」の話にならない。
これは意図的に「この話において三つの心は絶対に揃わない」とやっているのだろうと思う。

最終盤における圧倒的な戦力差、自らの死を前に縮み上がる描写も、「三つの心」は「死ぬときは一緒だ」という誓いであることを考えれば揃っているはずがない。
(そもそも今まで他人の命を軽々に奪っておいて、今更自分の命が同じ土俵にあることに気付いてひよるとは何事か。ダイナミックプロ作品の登場人物はガクエン退屈男時点では門土ですら同等に命をかけていたから筋が通っていたのだ。それができないものは雑魚でしかない)

原案作成に関わった人物から「三つの心」が揃うことを幹の一つとした明言すらあった作品で「心を入れてはならない」という旨の台詞があることもおかしいだろう。
本来「ゲッターロボ」には「三つの心」がなくてはならないのである。
(同時にそこに乗っている新ゲッターのパイロットには「心が無い」とも読み取れるだろう)

また、割りと基本的な理屈の話であるのだがなにをどうやったって本来は協調性などを必要とする「三人乗りの機体」で「利己主義(他害性を含んでいるので拗らせた自己愛、ナルシズムと言うべきかもしれないが)」を据えるというのはまったくバカらしい話である。
何をするにしても他人の力が必要となっていることにも気づかず「自分がよければいい」と言うなど、「自分が社会という枠の中で生かされていることにも気づかずいきり散らかしているチンピラ」の図にしかならないのだ。
漫画版ムサシのように、インフラなどひとつも整備されていない山に半年籠って生きることができるような、本当に自分一人だけで生きていける存在が言わない限り、他人に甘えていることにすら自覚の無い甘ちゃんにしかならない。
本当にそれを貫くなら「複数の他人が作り整備や操作にも他人を必要とする」ゲッターロボなぞ使うべきではないだろう。

*なお、「正しい意味での」利己主義を貫くロボットものなら新ゲッターの翌年作品となる「ガン×ソード」が基礎設定部分から丁寧に作られている。
同年の04年には「サムライチャンプルー」という作品もあり、こちらは弱肉強食と自分のために刀を振るっていた人物たちが最後にはそうではなくなるという話で、これらと比較してどこが違うのかを見ることはアニメ脚本の読み方の学びなどに個人的にはなった。
例えばガンソのヴァンなら登場人物は利己主義的だがそうであるが故になにもされていない他者への攻撃性を表さない。
サムチャのムゲンは弱肉強食のなかで生きてきたというが、それを誰のせいにもしないし、自分もいずれそうやって死ぬ覚悟は序盤に示される。そして最後にはその心境変化が明確に口にされる。
こういったものを筋を通して描くならそういった描写は「本当はあるべき」ではなかろうか。
新ゲッターには「存在しない」とは、「そういう人物たちや話ではないからそう描かなかった」ということではないだろうか。

また、「ゲッターロボは誰か一人だけのものではない」ということはダイナミックプロ公式が監修したダイノゲッターの書籍版追加エピソードで明言もされている。

そこにあるのは目的、利害の一致だけであり、相互理解には至らず、共に死ぬ覚悟すら決められなかった。
故に新竜馬は最後に身勝手な優しさめいたものを押し付けるだけ押し付けて勝手に一人で消えた。

本当に理解していたなら新隼人だけでも連れていくべきであったし、漫画版とは異なり二人を助けるために合体解除した切羽詰まった状況でも無ければ、共に死ぬ事を是としながらまだ世界に必要だと残したなどという理由があるわけでもない。

何故か石川作品はその暴力性ばかり取り上げられがちだが、ゲッターロボに限らず魔獣戦線や魔界転生など人物心理が情感豊かに描かれ、その人間性を感じ取れるが故に地獄じみた様相の凄惨さが際立つという構造をしている物が多い。
ゲッターロボであれば無印特攻未遂前の三人の会話「死ぬ時は一緒だ」を踏まえてムサシ自爆、特に隼人の反応の流れを読むとわかりやすい。

最後まで「三つの心」は揃わないし、そこに絆はおろかまともな情すら存在しない。
「三つの心は無かったから誰も誰かのために命を懸けようなどしなかった」と書けばこれも反転である。

誰も誰のことを見ず、相互理解も無く、ろくでなしが全員好き勝手やった結果の半ば必然の話では無いだろうか。

ゲッターロボどころかダイナミック作品とも無関係な単体作品としてみるならば、二十歳も過ぎて社会に関わっておきながら全員メンタル幼児かと聞きたくなるほどに揃ってろくでもない(新弁慶のセクハラっぷりや新竜馬の上っ面だけ取り繕った俺様いじめっ子感は軽く腹すら立ってくる)のでどんな酷い事が起きても心が大して痛まず、ある種気軽に頭を空っぽにして見るべきアッパーでヒャッハーでドライな作品であろう。
あの最後で可哀想と言えるのはギリギリ新隼人くらいなものだと思う。

◇新ゲッターチームについて:ろくでなしの鬼たち

これは実体験なので人によるだろうが、私には彼ら全員、居酒屋で隣り合った見知らぬ人間と二時間話したより薄っぺらい相手への理解度だなと感じた。
好きなもの嫌いなもの、何を大事にしたいのかくらい一緒に生活してるなら尚更わかるはずではないのか、それほどまでに相手に興味がなくどうでもいいのかと。

そう、十中八九、彼らは自分以外の人間のことなんかどうでもいいのである

*これに関しては川越監督が新ゲッター製作時のメールマガジンで以下のように話していたという情報を当時の匿名掲示板から得た事からも「最初から彼らをろくな人間として描いてはいなかった」証拠であろうと思う。(そもそも他人様のキャラクターをお借りして身勝手に歪めておいてその言い方はどうなのかとも思うが)

新のゲッターチームを一言で例えると、バ★、キ★ガ★、チ★オク★と、川越監督が言った

【新】ゲッターロボ get6【真andネオ】

全部上っ面、全部薄っぺら。
作中唯一それっぽい新弁慶ですら私と弟からはこのような感想が出た。
「本当に大事に思っていたなら、どうして師匠の言葉を聞かなかった。真面目にやらなかった。ただ上っ面真似するだけなら猿でもできるだろう、お前を思っての言葉がどうしてそこまで届かなかった」
最初から上っ面にしか見えなかったのである。
そうして普段からまともに帰依する気もないのに、危険な状況になれば念仏を唱え「神頼み」するとなれば尚更で、自分に甘過ぎだし都合が良すぎやしないだろうか。
そもそも、セクハラを繰り返し、あまつさえヤり逃げする人間が「まとも」であるはずもないだろう。
他人の気持ちを考えないからそういうことができるのだとしか私には思えない。(では何がまともだったのかと言えば「生存本能」だったのではないかとも思う)
制作04年の作品にしてもセクハラなどを許せる社会認識であったわけではない。

 「神隼人╱早乙女門土」を乗っ取った「竜馬」

新竜馬もそうだった。私たちのなかで決定的になったのは彼が新宿に戻ったときの周囲の反応だった。
誰一人まともに彼を心配などしていない。別れに至っても惜しみもしない。
何故かといえば、自分は愛されている、必要とされているなど、本人の勝手な思い込みでしかなかったのだとしか思えなかった。
誰をも愛してなどいなかったから愛されなかったのだとしか思えなかった。

なお冒頭から、
・新竜馬の亡き父親は土地つきで道場を持ち、それ以外に手に職をつけていたとおぼしき看板の存在=漫画版リョウより恵まれた環境
・同情か呆れかなにかとはいえ飯を食わせてくれる居酒屋の店主=周囲からの優しさやなにかは存在しなかったわけではない(しかしそれでいて対価も払わない=恩知らずのタカり)
・開始時点で漫画版や東映版より年上の二十歳過ぎ=本来は精神的にも経済的にも自立しているべき
といった「環境を原因としたわけではなく本人の資質としてクズである」と読める描写が彼には多い。

ここを「愛されることが当然だと思っていて真に愛さなかったから愛されなかった」と解釈するなら、ゲッターロボとは逆の文脈を持つガクエン退屈男での身堂「竜馬」にも通じる。

身堂竜馬(タツマ)は両親の愛情を求めて兄の「虎の助になり変わろうとした」人物で、この兄弟は流竜馬と神隼人のベース設定に影響し、その後「バイオレンスジャック」において設定が逆輸入された疑いが高い人物たちである。
また、バイオレンスジャックにおいては、実は途中からの門土(おそらく隼人の反転として再翻案されている)は「竜馬が生み出したイメージの実体化≒分身」「竜馬の考える理想の門土」であった=これもまた乗っ取りであったという読み方ができる。

新竜馬の「新宿」や「超存在に選ばれる(元来は神に召される=死亡フラグの意味が強い)」等といった設定は本来東映ハヤトと原典二作品の神隼人の血筋にある魔獣戦線の真理阿といった人物らが明確に所持する設定である。
設定画を見れば指貫グローブも元々はハヤトのものだし、立ったまま手を広げられ縛られている(磔に近い)形の拘束を受けるのも神隼人(そもそも「神の子」の文脈を持つ)と、お前は一体どれだけ神隼人から色々パチったんだと聞きたくなる。

ともあれ、そのように様々な形で隼人=虎の助╱門土の表層にある設定を「乗っ取り」、しかし本質は身堂竜馬であるから「自分は愛されているはずだ」という根拠無い思い込みを持って他者を思い通りに動かそうとする(表層が門土なので力での恫喝が主体)のではなかっただろうか。
元のバイオレンスジャック版身堂竜馬は「自分の分身だけで完結した閉じた世界」だったものが、新竜馬は「表層が門土で核部分は身堂竜馬」になったことで「表層の門土の能動性、赤の他人を巻き込んでの暴力と支配で自己愛を完成させようとした」という一番最悪な形になっている可能性もあるのかもしれない。

ともあれ、本当はあれは「流竜馬」ではなく「早乙女門土(╱虎の助)を騙る身堂竜馬」ではなかっただろうか。

*新宿をねぐらとする╱もう一人の竜╱鬼=暴竜鬼イサム
という解釈もできるが、「鬼のまま死ぬのは嫌だ」と泣いたのがイサムであった。
少なくともハヤトは「おれはこの町が好きなんだ」と言ったイサムを信じたろうし、あの最後に思い出したのは「一個の柿を分け合う」姿で、イサムは最後には己の過ちを泣いて後悔した。
竜二やイサムは公式で出された流竜馬の反転存在であろうが、どうも彼らとすら違う、根本的に「流竜馬ではない」感触がつきまとう。
同時に、新竜馬にはイサムに対しての隼人のように「本当に友人だからこそ道を誤らないでくれ、考え直してくれと訴える」人もいなかったか、言われても切り捨てたのかもしれない。
竜馬(タツマ)のように自分を全肯定よしよししてくれるものだけを愛情と勘違いしていると、「叱られる」それだけで拒絶された判断をし、切り捨てがちである。

戦闘中に割と後半ですら仲間がダメージを受けただろうという時に舌打ちができる程度の絆とはなんなのか。新竜馬には仲間は足枷で本当に自分だけで良いと思ってる演出にしか思えない。
ラストシーンも結局彼のわずかな正気(っぽいなんか)を取り戻せたのは達人と同じ動作である=ここに至るまでに他二人の存在はろくに響いておらず経緯自体が無駄ではないのかとすら思った。

これは他キャラにも言えるが、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の例をあげるまでもなく、悪人が気まぐれに一瞬良いことをしたことを取ってすべての行いが許され善人だと主張するには無理があるだろう。普段の行いが悪ければそれはその場の気分でイイヤツ面したかっただけにしか見えないのだ。

根本的に罪もない人々の命を軽視し大量に奪い取っておいてろくな後悔も反省も痛みもなくニヤニヤと笑っていられるなど全員倫理観や道徳心がどうかしているド悪党でしかない。(漫画はそうじゃないとは他の記事で散々言っているのでここでは省略するが)

「本当は根がいいやつ」であるには、描写に矛盾が多すぎる。
これは昔から思っているが、「本当は根が良いやつ」は女子供を侮蔑したり弱いものいじめをして遊んだり、自ら力を誇示してでかい面なんてしないだろう。
時々上っ面だけ取り繕うただのいじめっこ、自分は悪くないと思っている性根が腐ったヤクザの鉄砲玉にしか見えなかった。

なお、暴走状態の新竜馬における裂けたような口や全ての歯が牙のようなギザギザ歯など、漫画版に該当する類似描写はリョウには見当たらない。

後述するベースのひとつとなっているだろう手天童子やゲッターロボから拡大して石川作品まで広げても基本的に「敵側」には存在する。
「牙」は「喰らうもの」の記号であり、全てがギザギザの歯であるのは基本的に「理性がない存在=悪」であろう。それは鬼でもある。
(歯並びを脳内の理性╱臼歯と本能╱牙としての割合表示みたいになっているのが「禍」)

また、98年の小説「スーパーロボット大戦」(団龍彦=菊地忠昭さん╱ゲッターロボの企画から携わっている方の著作)において敵の出してきた破壊神と化している真ゲッターロボに使い捨ての駒として乗せられ、正気を失い身体にまで影響が出ているクローンムサシの描写も考えられる。
「血に飢えた野獣、あるいは悪魔のそれ」

おぞましいものが、モニターに映っていた。
最初、それは悪魔のようにも見えた。顔のいたるところからごつごつした突起が飛び出している。目は白く裏返り、口は大きく割れ、鋭い牙が何本も生えているのが見える。

小説「スーパーロボット大戦Ⅱ」 218頁

先に「新竜馬の本質は身堂竜馬ではないか」と記述したが、終盤の彼は完全にこの「鬼」の形相となるシーンが存在する。
バイオレンスジャックという荒ぶる「神に戦いを挑む」シーンがそうである。


 「早乙女門土+身堂虎乃助」である「隼人」

新隼人の方がマシである。
新竜馬への「どうしてお前なんだ」という台詞すら、ことここに至っても新竜馬の人間性ではなくゲッター線しか見ていないという決定的な断絶と私には思えた。
最初から最後まで人間には一切興味を示さないというクズはクズだが、行動原理や人間心理にブレが少なく、他二名と違って上っ面の下手な擁護をされていないだけ腹も立たない。
(私が見ていての「不快」は「なにもしていない他者への加害」に結構直結していて、序盤を過ぎれば触るのも嫌とばかりに完全シャットアウトするため、セクハラとかいじめみたいなことをしないだけマシにすら思えた)

初期の新隼人の様子を「自分の暴力衝動を満たすために大衆を煽って巻き込み自滅に向かう」と書けばガクエン退屈男の「早乙女門土」に通じる。
この人物はゲッターロボの原案時点からデビルマンと同じく流竜馬と神隼人の設定に逆転の形で関与し、ゲッターロボ後の「バイオレンスジャック」でゲッターロボから神隼人の設定がまた反転して逆輸入された疑いがある。

また、新ゲッターロボ作中、新隼人には政治思想など一切見当たらないにも関わらず「テロリスト」という言葉が設定資料などにあったのも、彼の本質が「バイオレンスジャック版の早乙女門土」であったなら説明がつく。
『最終盤における圧倒的な戦力差、自らの死を前に縮み上がる描写も、「三つの心」は「死ぬときは一緒だ」という誓いであることを考えれば揃っているはずがない。』と先述したが、バイオレンスジャックにおける早乙女門土という人物はガクエン退屈男の時と明確に異なる部分が複数存在し、その一つが「自分の命を懸けた決闘で、自分だけが生き残るように小細工をする」=みずからの死を恐れ回避しようとした・ひよったと取ることができる。

上半身と下半身が断裂される残酷描写も、バイオレンスジャックのエルドラド編で一度死ぬ時の門土(この描写自体、デビルマン不動明の影響が強いだろう)ではないのか。

「竜馬」が「タツマ」であるならば、「隼人」ではなく「門土」であるべきでもあろう。
新竜馬は「表層が門土で核部分は身堂竜馬」ではなかったかと先述したが、新隼人は逆に「自分を理解されないことの反発の解消(門土の核)をすべて自分だけで完結する(身堂竜馬の行動)」なら一番の合理は「全てを断絶して閉じ籠ること」になるからそういうスライドをしていたという可能性もあるだろう。

同時に、ガクエン退屈男の反転として流竜馬が「美堂竜馬」の反転の要素を含んだように、元来の神隼人という人物には「早乙女門土」と同時に「三泥虎の助」、双方の反転の要素が含まれていた。

なんのナルシズムだと思った「ゲッター2で暴走状態の中、水鏡に自分の顔が写る」シーン。あれもバイオレンスジャックの身堂竜馬(タツマ)と身堂虎乃助に関わるシーンではないだろうか。
(この辺、「身堂竜馬」が主要ベースの片方である「門土╱隼人」を乗っ取ったので、残された「身堂虎乃助」にこのシーンをもって切り替わったのではないかとも少々疑っている)
虎乃助であるなら途中から「フラッシュ」と行動していたが、彼女は「天使」と呼ばれ虎乃助を変える可能性を持った女性だった。
この「天使」フラッシュの反転が「鬼娘」新ミチルではなかっただろうか。

*少なくとも新竜馬と新隼人の二人がバイオレンスジャックにおけるガクエン退屈男の人物であり、新ゲッターロボという話のベースに彼らの該当エピソードが含まれているなら
なぜか水上にある黒平安京→ハイパーグラップル編における「歴史を捻じ曲げ 魔の空間のエネルギーを集めて創った幻の都市 アクアポリス未来市」(電子書籍17巻132P)
晴明→ハイパーグラップル編の朱紗真悟
陰陽術→錬金術
このハイパーグラップル編では二種のエネルギーが存在するように触れられるが
人の負の感情と関係がある魔界(冥界、死)のエネルギー→緑色のゲッター線
上とは異なり太陽をモチーフとする生命エネルギー→原典における本来の赤や白のゲッター線
に近くはないだろうか。

新竜馬が鬼をバサバサ切り殺しながら進んでくシーン→ハイパーグラップル編で通行人切り殺して退屈男コンビ(ここでは追われる側で明確な悪事も成していない)を追いかける殺し屋(追手であり明確な悪)
序盤の食事を出して貰っても金を払おうとしない新竜馬→石川作品主人公ではそのような言動が思い付かないが、超高層の悪魔編冒頭の竜馬と門土にはある
などもどうにも印象が被る。

ただ、他者や世界への愛情と思い込んだ自己愛を拗らせきって破滅したバイオレンスジャック版とは異なり、そもそもにして誰もの「愛」が上っ面で薄っぺらく、すべての感情の根源となる「心」が薄い=「心がない」とも受け取れる。
心、ひいては自我や人格は自他分離と自他肯定によって形成されるものだが、後述するように彼らはそこからあやふやでもある。
「ガクエン退屈男」とも「バイオレンスジャックのガクエン退屈男人物」とも大きく違う部分はここにあるのではないか。



◇「協調性」を「同調性」に履き違え、心を失った三匹のケダモノ

川越監督の手掛けた「ゲッターロボ」派生作品は恐らくは尽くを「協調性」を「同調性」と履き違えている。特にこの新ゲッターロボという作品はその特徴が掴みやすい。
*新ゲッターに関してはアンチゲッターロボであるなら正しいアプローチだが、もし本気で言ってるなら単なる誤読である。それ以外にもどうにも川越ゲッター全体で様々な言葉を根本的に勘違いしていたり履き違えている可能性がある。それらについては以下の記事を参照。

三人が三人とも自他分離も曖昧で、自他肯定ができておらず、「同調性」をベースにした歪みを抱えているように思える。

新竜馬→他人に同調を強く求めるために攻撃性や支配欲が異常に強い。善悪よりも自分の感情(好き嫌い)を優先し、押し付けようとするなどはDVする人間の典型的な類例。
他人を自分にしたがる、喰うタイプ。駄々こねて押し通そうとする赤ちゃん。
新弁慶→自分の主体性をぶん投げて他人やその場の価値観に同調=依存するタイプ。自己責任で動いていないから他責的でもある。これが強く出てるのが過去編で流されるまま嫁を取り性行為にまで及んでいながらあっさり捨てる言動など。
自分を他人にしたがる、食われる=奴隷が楽タイプ。親の言うこと聞いてれば良いと思ってる幼児。
新隼人→一人だけ少々異なっていて、「自分は他人ではない」という感覚(自他分離の萌芽)がために、登場時には自分に同調しない世界を壊そうとする破壊衝動となっており、それが無理であると知って世界の拒絶に移行した。言えば盛大な反抗期の完全引きこもりタイプ。

「自他分離ができていない」とは、子供の精神性である。
「自分」と「他人」を分けられてもいないがために、「自我」すら厳密には曖昧である。他人を考える力はおろか、正しく向き合うことから困難だろう。

新ゲッターの登場人物たちには理性がない。他人を考える力がない。自分で考える力がない。

原作におけるゲッターチーム、特にリョウや號などは「あなたが幸いであればいい、自分が報われなくとも」とでも表現できる精神性を持つ人物たちであった。
その反転として、「誰かの事なんかどうでもいい、自分さえ良ければ」と自己愛を拗らせて承認欲求や支配欲だけ一丁前以上に肥大化し、理性がないから攻撃性の制御もろくにできない子供かケダモノではないのか。

強い意思(自我)とそれがための理性を持ち、命をかけて戦い続けた漫画版の人物たちですら彼らだけで運命を変えきることはできなかった。
(基本的にゲッターロボという作品は「協調性による共存」が最終目的にあり、全生命の努力なしには成し得ない。「特別な誰かが世界を救ってくれる」なんて話ではない)
ならば理性すらないケダモノ一匹に運命を変えることなど不可能に決まっている。
「あの話はゲッターエンペラーに主人公を直行させるためだけの話ではないか」とは漫画版ゲッターロボどころかダイナミック漫画作品すら知らない私の家族の感想であったが、私もそれに近い認識をしている。

たまねぎにもなっていない。まるで紙風船である。
表面しかない中身がない、奥行きもなければ深みもない。
物語構造としても同じだった。
考えるだけ無駄なのである。


◇「なんの意味もない」物語

物語構造に関して決定的だったのは「過去編にはなんの意味もなかった」ことであった。
わざわざ過去に介入し、干渉したにも関わらず、それで現在にはなにも変化がない。それどころかそれ故に「それすら運命であった」と示唆されている。
正直に言おう。あそこ丸々無くていい。
ただ無駄な映像の尺と内容である。そこで人物の変化すら得られていない。全部ちょんぎってそのまま後に続けたところで問題がないのである。
物語の筋として意味がないならそこだけやりたいロボットプロレス詰めたMVかPVで良くはないか。これに意味を求めるなら「すべては運命であり、何をしようが無意味である」ということの強調にしかならないだろう、そういった意図であるなら理解できるが。

 「手天童子」の逆転プロットについて

あの過去編は89年に川越監督が映像化に携わった永井豪作品である「手天童子」(76~78年)の要素が多分に含まれている。
そもそも新ゲッターロボにおける「鬼がモチーフ」「多次元世界」「時空間の移動」「平安京」「過去での行いが現代にも残る逸話となる」などの主要部分は全てそちらに存在する内容である。
現状私が40タイトル以上読んだはずの石川作品では、ここまで要素が綺麗に一致する作品は思い当たらず、その点でも違和感がある。
先述した「悪」の記号、「全てがギザギザの歯」もこの作品の時点で完成している記号でもある。(多数の鬼が出てくるがギザギザの歯を持つ鬼とそうでないものがいる)

手天童子は「愛情」を中心に驚くほどに美しくまとまった話で頼光の元ネタであろうリッキーも非常に魅力的な人物だった。
どうしてあんなに魅力を消せるのか逆に聞きたい。
そもそもどうしてなにも関係ない話筋に入れようと思ったのかも聞きたい。

これに関しては脚本時点で意図的に「石川先生が描いた愛情の物語」ゲッターロボの逆転、「愛=理性が無い世界の話」として構成する上で、「永井先生の描いた愛情の物語」手天童子の要素を敢えて反転させて入れ込んだ可能性が高い。
このつもりで、頼光の元ネタがリッキーであろうという事も踏まえれば

新竜馬:愛情の無いままに人から鬼と化して異界へ赴く↔子朗:愛情ゆえに生まれ愛情によって鬼から人として現世に留まる
新隼人:理性なき人類と地球に残される↔戦鬼:人間の負の側面の写し絵である鬼を引き連れて人間のいない星へ移住して暮らす
新弁慶:平安時代へ行ったが血を残さない、現在から武器を持ち込む↔護鬼:平安時代へ行って子を成し、その子孫が童子を守る一族(家族)として現代にまで血と武器(過去起点)が残される

というこれもまた人物の主要ラインの逆転や結果の反転であったのではないだろうか。
こうであるならゲッターロボの人物要素など本当に最初から表層と名前にしかなかったとも言える。
これは石川漫画版ゲッターロボGでアトランティス人にされかけた所業と同じでもある。

清明とアイアンカイザーも、平安時代から現在に↔未来から平安時代に追いかける形でこれもまた逆転である。
ミチルのデザインも東映版のミチルからどうしてああなるのかと不思議だったが、線画で見れば手天童子におけるヒロイン、白鳥美雪がモデルであろう。
愛情ゆえに子郎を追った美雪とはやはり逆転で、愛情など無かったから誰の事も追わなかったのであろうが。
達人が勇介、早乙女博士は子郎の父親の逆転存在。
(達人は「隼人の設定などを竜馬が乗っ取っている」のであれば、同時に漫画版魔王鬼・竜二や東映版暴竜鬼・イサムが被っていた可能性も高い。余談だが私は勇介さんがとても好きで、特に電子書籍なら4巻での「冒険行特別急行列車のキップ」の一連の会話がそれはもう大好きなんですけど、意図は理解はするがなんてことしてくれやがったんですか)
そしてすべての始まりとなる子朗を愛する母親の逆転存在がゲッター線。

先の「過去編が全て無意味であった=すべては運命で定められていた」ことも手天童子における愛情ゆえに始まり愛情ゆえに終わった一種の定められたループ構造を「そこに愛も未来もない」形で再構成したように個人的には感じる。
母の思念(怨念)が封じられ別世界(鬼獄界)を作り出していた病室の壁画を父が壊し、愛情をもって解放されたあの世界の逆転。封じていたゲッター線(魔界、死の力)を解放してしまった(地獄の釜の蓋を開けた)ことで鬼が跋扈する地獄を作り出してしまった世界ではないだろうか。

ストーリーラインと人物プロットが手天童子の反転で殆ど説明がつくのではないか。
前述の漫画版の反転であろうという部分にも通じるが、ひとつやふたつなら偶然と言えようがここまでその文脈で説明がつくのであれば意図的に逆転の話にしていると判断するより他ないだろう。
(同時に、ちらほらとまぶされた時代物石川作品要素は反転手天童子であるためのオマケかカモフラにすぎず特に意味はないのではないか)

そうであるならばアンチ╱ニセゲッターロボとしては正しいアプローチでその面では評価に値すると思う(私の好みであるかは別として)。
もしもこういった前提ではなく、監督が関わった作品だからお遊びの域を越えて大きく入れているというなら作品それ自体よりも自己顕示欲や自己満足、身内ネタ的なものを優先したということにもなる。それは上っ面のリスペクトでなければなんなのかと感じるため、そうであってほしいとすら思う。

石川作品でオマージュされる他作品というのは無作為ではなく、話筋に関係のあるもの、ベースになった作品である。
チェンゲというより、今川監督作品も基本そうであったり、中島かずきさんや庵野監督といった「ゲッターロボを再構成して新規作品を作り出した」クリエイターに多く共通する方法論でもある。

しかし、川越監督が担当したゲッターロボ作品は「直接的にはゲッターロボとはあまり関係がない」作品要素を入れる傾向が強く、石川作品と永井作品を総当たりしなければ元ネタを探せず非常に面倒だし、構成としてあまり綺麗ではない。
なお「ガクエン退屈男」と「極道兵器」にご執心のようだが前者は先述したように「終始理性がない世界=ゲッターロボ世界の逆転」、後者はプロット構成や要素を見る限り「逆転ゲッターロボ號」である。
これらがゲッターロボと同じ文脈にあると本気で思っているなら読解能力が疑わしく、わかってやっているならそもそも彼の手掛けたゲッターロボはことごとくが名前だけで中身は反転したニセモノであるということになる。
新ゲッターに関してはわざと後者の手法を取っていると考えたいが……。

そもそも「虚無戦記」と「ゲッターロボサーガ」は繋がってはいないとゲッターロボ全集の中で石川先生が明言されているし、当時担当編集であった中島かずき氏もアニアクのブックレットにて「繋げてはいけないと思っていた」と話されている。他記事にまとめているがあれらの世界観の成立過程と意図の推測がつけば尚更に虚無戦記の要素を取り込むなどやらなくて良いことであったとしか私には思えない。

この辺に関しては、根本的に未監修派生ゲッターロボ作品は「ゲッターロボサーガ」ではなく、「虚無戦記」における敵側、「神の軍団」になっているのではないかとも思っている。しかしそれならそれで説明をするべきだし、なれば尚更、根本的に「ゲッターロボではない」ではないか。詐欺である。

【総評:「ゲッターロボとしてはお話にもならない」】

ゲッターロボの原典である二作品と比較してみるとよくもまあここまで薄っぺらにできたものだと逆に感心するレベルに「なにもない」。
話筋やそこから得られる人物像に主に着目する私から言わせればあの話は5時間以上かけて見せられた虚無に近かった。

最初に出した設定(こいつらは理性・心無きケダモノでここにはなんの絆も思いもない)から予想される結論(運命を変える=本能に抗うことは不可能であり、周囲を巻き込みながら自滅する)からなにも変わらないのであれば、それこそ4話2時間で充分ではないのか。

そういった点からの「物語を鑑賞するもの」として見た時にはこの作品より30年前の東映版を大筋拾って12話分見る方が余程実があると感じた。
基本的に悪党同士の潰しあいの話でまともな奴が一人もいない=最初からろくでもない終わり方をするのは目に見えているのだし、思い切って全員殺して世界を滅ぼしてしまった方が筋が通っていてスッキリしただろうとも思う。

勘違いされがちなので追記するが、下品で下劣でしょうもなく、意味がなかろうと私はそれはそれで価値や面白味はあると思っている。B級スプラッタゾンビ映画とかサメ映画に高尚さを求めないのと同じである。ゲッターロボとは全く関係のない作品として見るならば、それと似たような区分の頭空っぽにして見る娯楽としての評価はしている。
ただそれは一貫したテーマ性を持って展開した「ゲッターロボ」として見るには天地の差がありお話にもならないと言っている。

◇「(バイオレンスジャック版)ガクエン退屈男リメイク」としての新ゲッターロボ

そもそもにして原点二作品の「ゲッターロボ」は「戦争」をそのベースに置いていた。
これははっきり言うが数ある石川作品の中でも一番暴力や破壊の肯定に結び付けてはならない作品だった。

漫画版や東映版が何を描いていたのか理解した時に、私は正直新ゲッターという作品を「楽しめてしまった自分」に物凄い自己嫌悪に襲われた。
破壊や暴力を「自分とは関係ないもの」として娯楽として消費する。新竜馬をはじめとする登場人物達の姿にも重なる、破壊や暴力を自らに振るわれるものとは思わない、「死」を身近になどまるで感じていない、幸せに平和ボケした00年代らしいそれ。(最後の最後になってビビる描写があるのはそういう事だろう。結局彼らは自らの死などあの段まで感じることは出来なかったのだと思った)
ベースにあるものがわかれば、この作品におけるそれはそうできる人間への強烈な皮肉にすら取れた。

「お前たちは結局暴力=戦争すら娯楽として消費している」と。

*石川作品には度々描かれ、スケバン刑事を読んでも強烈なシーンとして印象的だったのだが
親からの愛情が無かろうが、弱者を思い守ろうとする気持ちを持ってる人間は持ってる。むしろ自分が辛い目をしてきたから他人を思いやる。
そういう描き方が多い。自分の境遇に「甘えるな」と。他人のせいにするなと。
新ゲ連中は、結局自分の命もそこにかけきれない、戦争なんて他人事、死ぬなんて頭に無くそこまで辛い目にもあったことも無い、まさに00年代初頭の脳内ぬるま湯お花畑なままのガクエン退屈男連中と言えばそうだったのかもしれないとも思う。

ことごとくを反転させた内容もどこか悪意的で「こんな物がゲッターロボだと言うのか」と嘲笑う脚本家の声がそこかしこから聞こえるようでもあった。
ましてこの作品が作られたのは04年。製作真っ最中だろう03年にはイラク戦争が開戦しているのである。現実世界で戦争が起きていて、自分達は元来反戦をテーマのひとつとした作品を手掛けているという状態であった。
*皮肉のひとつも入れ込まずに暴力賛美や侵略の肯定と取れる、結論として「弱いから食われるんだ」と弱肉強食を肯定し叫ぶこの作品を製作したのであればあまりにも心の無さすぎる所業とすら感じる

これを踏まえて「アンチゲッターロボ」として構成した結果の「ガクエン退屈男」のリメイク、「ニセゲッターロボ」として見るならば、その皮肉と悪意さえ含めて理解できる内容ではあるのだが、個人的な感想としては悪趣味すぎる。
苛烈な生存闘争のなかでも品は忘れずにあり続けたこの作品の名前でやる事じゃ無かっただろう。

また、同様に私には「新ゲッターロボの本質はガクエン退屈男である」と考えた時に思うことがある。
この作品が製作されたのは04年。インターネットが一般普及し、匿名掲示板が全盛を極めていた時代である。
90年代後半頃から、そういったサブカルオタク層には「アナキズム」なるものが広がり00年代前半には随分と目につく存在であった。(リアルタイマーの体感の話で個人差はあるだろう)
これもまた元を辿れば60年代~70年代の学生運動とも関わる話で、本来は「無政府主義」を指す思想の事であるのだが今は割愛しよう。
当時、アナキズムによる反逆を掲げて露悪趣味と暴力肯定に暴れまわるオタクによく持ち出されたのがダイナミック漫画作品であった。
ガクエン退屈男は「学生運動の御大層な名目掲げながらお前ら暴れたいだけじゃないか」と、当時の大衆を痛烈に批判する内容であった。「そこに理性の無いお前達は滅ぶ」と。
もしかすると、同じではないだろうか。

「アナキズムとダイナミック作品を盾にただ暴れまわってるだけのお前らの言動にはなんの意味もないし、いずれ滅ぶ」と。

もしもこういった意図であったのなら(ゲッターロボとしては話にもならないが)ガクエン退屈男のリメイクとしてはなかなかの完成度でもあろう。その路線でやりきるなら全滅させた上で世界を滅ぼしてほしかったが。
「理性を失った世界は滅びる」のであれば、せめても「ダイナミック作品」としての筋は通せたのだから。
ましてや「バイオレンスジャック」において、永井先生はあの二人と物語に破滅という明確なピリオドを打っているのである。

繰り返すがタイトルを変え、もしくは説明文などできちんとアンチゲッターロボかつガクエン退屈男リメイクであることを明示し、退屈男でもやらなかった全滅世界滅亡エンドを見せてくれれば私はいっそ絶賛したであろう。
(既にバイオレンスジャックでそれはやっているんだから、本来そこまでやって完成ではないのかとは後々思ったが)

◇いっそ完全に無関係であればよかったものが、タイトルのせいで全てが評価しづらい

「新ゲッターロボ」を「ゲッターロボ」と無関係な作品として評価することは可能ではある。
そうした単体作品として見た時には言い方は悪いが下品で下衆で頭が悪いから面白い作品の類。
特殊性癖ホイホイかよと画面の前で呟いて軽く引いてしまった程度に主に隼人に対する拗れた性癖の塊みたいなものをひどく感じたのはこの際置いておく。
(これは単に私がああいったR18G的な特殊性癖にまるで興味が無いというだけで好む人間がいるのは知っているし、他人の性的嗜好を否定する気も非難する気も無い。頼むから公共の場に流す時には成人の分別としてせめてワンクッション入れてくれとは心底思うが)

それにしたとて原作と比較しないよりマシであるだけで先述の通り話自体にほぼ「意味がない」のがなかなかに致命的ではある。
ここにはなんの意味もないと重ねてくる内容なのだからそう示してくる通りに作品自体が無意味であると断じたところで問題無いようにも感じてしまうのだ。

根本設定を変えずに様々なものをひっくり返して嵌めているがために矛盾なども多々目につき、自分に都合の悪い部分だけ棚上げしている詭弁、まさしく子供だましであるという感覚も強い。
BGMは特に文句はなく、映像自体も悪くはない。ロボット戦闘は頑張っているとも思う。
(この「映像など自体は悪くない」というのも、実が伴っていないためにどうも上っ面な感じがあるが、これは川越ゲッター全体にも割と言える。BGMや演出で見た目盛り上げてはいるがお前ら本当にそう思ってるのか、口ばっかりじゃないのか感というか)
酷評するほど悪くはないが「無意味」で「空虚」な作品としての評価が先のものになるというか。

しかし、こうして単独作品として見るには冠した「ゲッターロボ」というタイトルが心底邪魔をする。
根本的に、その看板を使う必要性を感じない。正直原作を読んだ後には詐欺だと思った程に。

原作と切り離して見ろと言うのは自らタイトルを堂々とつけてしまった時点で不可能だし、姑息な逃げでしかない。
まして「アンチゲッターロボ」であることや「ガクエン退屈男リメイク」であることには一切触れていないのだ。
ビッグタイトルの名前だけ借りて好き勝手やってるという図になってしまっている。
それは兄貴の影でいきり散らかしてる雑魚チンピラのそれであってその姿勢の時点で格好よさなど微塵もない。それがロックだのパンクだの言うなら鼻で笑ってしまうくらいにはこのタイトルを選んでしまったせいでただただダサい姿になってしまっている。

新ゲッターロボが好きなことはなにも構わないが「これがゲッターロボだ」などという主張は描いている内容からして臍で茶が沸く妄言にすぎないのである。
様々な描写を意図的に逆転させておいて「新」とは呆れる話でもある。なにも新しいことなどありはしない。単に無闇にひっくり返しただけでしかない。

この「ゲッターロボを逆転させて新しい物語を作る」発想が新しいと言うのも無理があって、ほぼ似たようなことをしている作品が新ゲッター以前に存在している。そもそもゲッターロボという作品自体がデビルマンの逆転である。
新解釈とか言い張るのもよく見るが、辞書引けばわかる単語の意味から義務教育知識まで片っ端から間違えたようなものは単なる誤読であって新解釈などとは言えるはずもないだろう。
新規で始まった新しいサーガというにはこの話だけで滅亡が確定しているっぽいし、一体なんのつもりであったのか謎である。
根本的に全てが逆転で言わば意図的な詐欺であると考えるならば「新ゲッターロボ」の内実「終ガクエン退屈男」と言えるだろうかと捻り出せる程度であろうか。
もしくは、最初に述べたようにこの作品自体が「ガクエン退屈男」、「新左翼(ニセ左翼)」のカリカチュアであるとしての「新」、「ニセゲッターロボ」という真意であるか。

*この辺りに関してはそもそも「ダイナミックプロ監修ではない」未監修の派生作品がすべて「監修作品」とは正反対となる論理を持っており、未監修の派生作品群が「本来のリベラル(監修作品、原典)」を乗っ取って騙る「左翼」「新左翼」のカリカチュアではないか、という疑いも正直持っている

ともあれ、批評においてはこのまま素直に取るならタイトル詐欺の悪趣味なアンチ作品であるということは理解しておくべきだろう。

総じて
ゲッターロボとして→話になってない。見た目と名前だけのニセモノ。悪意的すぎて眉を潜める。正直詐欺
アンチゲッターロボとして→まあまあ。粗は多いが手天童子を反転させて入れ込むなど構造も悪くはない。それならそれでやりきって滅ぼしてほしいしそれならそうと明示しろ
ガクエン退屈男リメイクとして→悪くはない。何に対する皮肉なのか明確にしてきっちり世界を滅ぼし真正面から視聴者盛大にぶん殴ってたらとても誉めてる。それをやるならひよるんじゃない、腰をいれて助走つけて全力で殴ってこそガクエン退屈男だろ!? まして後から知ったがバイオレンスジャックで永井先生はきっちり破滅も描いてただろ!? そこはやりきれって!! それはそうと明示しろ
B級スプラッタゾンビ映画的な00年代初頭OVAとして→並。こういった露悪的なコンテンツは90年代から00年代初頭はあまり珍しくもなく、こういうのよくあったねというやつ。正直このタイトルつけない方がよかった
といった感じである。

「ゲッターロボ」の正規シリーズのように見せて売ったのが根本的な間違いで、出来としては悪くはないアンチゲッターロボやガクエン退屈男リメイクとしての正しい評価が20年経ってもろくにされていないという、作品にとっては可哀想なことにもなっていると個人的には感じている。

◇企画段階からの問題

本音を言うと、新規がこれをゲッターロボとして見て気に入ってしまえば漫画や東映などは感触が違うので受け付けなかろうし、逆に原典を知る人間からは「わかってない」と言われるしかなく、結果的に分断と孤立化が進んでコンテンツの発展には寄与しないだろうとは最初から目に見えている。
尚且つこれをアンチゲッターと明言しなかったことから、スパロボがこの設定を本筋と勘違いしてか意図的にか構成した結果、現状のネット上の様々な媒体での誤情報の蔓延に繋がっていると推測もでき、コンテンツにとって害悪になり果ててもいると感じる。(少なくとも私は騙された)

また、石川先生は作中「個の本質は内面、人間性、理性、魂にある」とおいて、その表層だけを借りて騙ることを「個の唯一性、尊厳を損なう」「個を尊重しない悪」と度々描いていた。
それを理解していたなら、このような内容を「ゲッターロボ」と詐称して出すなどは作者への暴挙でしかなく、敬意もなにも感じられるはずのものではないだろう。
そういった作者の意思を尊重していないという意味でとても誉められたものではない作品だと思う。

石川先生は他人の解釈などを尊重する方だったから敢えて黙っていたのだろうし、表面上優しい言葉だって仰られただろうが、それで調子こきでもしたのか作品の私物化のような事を平然と行うなどお話にもならない。クリエイターたる姿勢としての問題である。
この作品の打ち上げの際に「いずれやるだろうと思っていましたが、ついにやりましたね」と石川先生が仰られたと南Pがアニアクブックレットにて語っていたが、私には「ついにあの世界を滅ぼしましたね」という石川先生の内心の怒りや悲しみの言葉であったのではないかと思えてしまう。
他者を尊重する事ができない悪への抵抗を描いていた作品で、作者の描いた内容を踏みにじり、視聴者に「弱者は食われろ、強者の奴隷であれ」と語るなど全方位馬鹿にするにもほどがあるだろう。

総じて、制作姿勢から問題が存在する、そもそも根本的な企画時点からの失敗作ではないか、と個人的には思ってしまう。
また、製作意図がなんであれ、この逆転した内容が正規シリーズであると誤認されるようなタイトルに多大に問題がある。このままでは単純に視聴者へ対する詐欺である。
原作にしろこの作品にしろ作品内容とその意図を正しく伝えるためにも、最低限アンチゲッターロボ、ガクエン退屈男リメイクであることは明示するべきであった。

【終わりに】

とりあえずこれ作った人間とは「ゲッターロボ」に関しては死んでも仲良くできそうにないなと思う。私は選民思想も全体主義もましてや暴力、弱肉強食ひいてはテロや戦争の肯定などに同意、賛同する気は甚だ無い。
むしろそういったものに対して怒り戦う物語であったから私は石川作品を愛好しているのだから。

ゲッターロボとなにひとつ関係無い完全なオリジナルとしてならまあまあ面白いと思うので、これはアンチゲッターロボだと明確にするかそもそもタイトルを使わず、SKLみたいに登場人物の名前を全員変えて別人にしてくれればそれはそれとして評価できただろう。

頭すっからかんにして見るロボットプロレスPVとしては悪くなかったよ。それ以上でも以下でもないけど。編集してロボットプロレス部分だけにしてくれ。

〖余談:考察的なもののメモ〗

新竜馬のその後、この話の後にある「必然の結末」について

おそらく物語のベースには東映ヤクザ映画的なテンプレもあると思うが、そのセオリーで行くと死ぬ。(ガクエン退屈男の最後もその文脈であろう)
ついでに言うと最後のあの台詞から考えても、記憶喪失+敵に回る(初期案では死ぬ)展開になる。

ここまでに述べたように、漫画版デビルマンでもバイオレンスジャック版ガクエン退屈男でも死ぬ。

「希望のある終わり方ではない」と重ねられているようで、総じて「確定バッドエンドでは??」という感触が強い。

地獄変における新隼人のまっぷたつ描写からのラストもある。
新隼人のあれは先述したバイオレンスジャック版の早乙女門土の死と共に、原典の再構成元のひとつとなる「デビルマン」ラストシーン、また後年永井先生が描いた「あっけなく両断されてしまう不動明」ではないかという感触がある。(99年刊行「ネオデビルマン」1巻 188~189頁)

「力の強い者が強いからといって弱者の生命を 権利をうばってよいはずはないのにな…」「ゆるしてくれ 明…」「わたしはおろかだった」

電子書籍版「デビルマン」5巻 204頁

サタンは愛した不動明さえもその手にかけ、世界には彼一人しか残らず、後悔し涙を流した。
しかし、新竜馬は同じものを目にしながら最後に言うのは「弱いから食われるんだ」という、「自分が強くなって食ってしまえば良い」という「弱肉強食の肯定」である。(恐らくこの台詞自体がサタンの台詞の反転である)

*この主張は弱肉強食の否定だという主張をたまに見るが、ルールへの参加宣言でしかない。
もし、そのつもりであるなら石川作品の殆どがそうであるように「強いから喰っていいだの弱いから喰われるのが当然だのって話じゃない」という根本的なルールの否定を行わなければならない。

そこには無惨に殺された新隼人への悲噴も自分の行いへの後悔も反省もなく、むしろそうして生きてきた自分への肯定「あいつは弱いから食われた」という一種の上から目線しか感じられないだろう。そこには自分が生き延びることしかない。

漫画版號の序盤、隼人は號に「戦ってはならない人間もいる」と話した。
弱いことは罪ではない。戦えない人間は死ねというなら、真っ先に死ぬのは女子供である。多様性を確保する事ができない弱肉強食とは人類の繁栄の歴史の上では負け理論なのである。
そうでなくとも、論理的に考えれば「弱肉強食の末に世界に最後の一人になる。その最後の一人もまたそれより強いものに食われて終わる。もしくは永遠の生命など存在しないのだからいずれ死んで終わる」。漫画版デビルマンの最後である。

ゲッターエンペラーはゲッター線における絶対悪のイメージの具現化と石川先生が全書のインタビューで仰っている。
石川作品における絶対悪はなにかと簡単にまとめれば「弱肉強食の理論、選民思想と全体主義で他者を食いつくす」存在である。

これを考えても新竜馬はゲッペラー一直線である。まず間違いなく抗い切れない。その上ストッパーもいない。
意図的かどうかは不明だがゲッペラーから竜馬の声しかしない事や、あの世界のゲッター線には皆がかえっていると思いがたい=あの世界のエンペラーは竜馬単独の存在ではないかという部分とも合致する。

この話は最初から新竜馬をエンペラーに仕立て世界を滅ぼす道筋を作る為の話だったのではないか? という感覚は拭えない。
そもそも、仮にも石川作品を名乗るなら「理性の無いケダモノは滅ぶ」という文脈が全体に共通して存在する上に、素直に考えても悪党の潰しあいである以上は筋を通すために全滅して世界が滅んでくれないと石川作品として認めがたいのだが。
もしくはまっとうな善性を持つ抵抗勢力が出現して永劫の戦いとなるか。

……結構残酷なことを言うと、結局石川作品における最終目標というのは「全ての意思あるものによる共存」であり、それを成すためには理性を必要とする図式を基本とする。
それを前提とすれば、新竜馬にもそれ以外の人類、延いてはこの世界事態にまともな理性が存在している描写がろくになかった以上は、新竜馬がいなくなかろうと(ゲッター線の基本性質が原作と同じであるなら、彼が死んだところで違う人間が選ばれるだけでもある)、そもそもこの世界にゲッターロボがなくこの話そのものがまるごとなかろうと、どこにも確固たる理性、他者を思う愛が存在しない以上は最初から世界は緩やかな自滅に向かっていたのではないだろうかとも思う。特別な力なぞなくても現代兵器だけで自滅は容易い。

大きな要素のひとつとして使われている手天童子にも人間の負の部分である、「理性なき人間の写し絵」である「鬼」の末路が、人間から離れとある星で暮らしたその先が描かれている。
「文明を築き宇宙へ進出しようとしたが、狂暴な性質を持つがために宇宙戦争を引き起こし滅びた」と。

少なくとも、脚本家は「愛╱理性の存在しない世界」「最初から滅びが決定付けられた世界」として構成しているように思える。

選民思想的ネット解釈について

私はこの作品の後に原典二作品を履修した身であるが、結果巷で言われるゲッター線に選ばれた流竜馬、それを特別視して持ち上げるような言説も心底無理になった

敢えて記載するが「選ばれた特別な存在になんらかの優位性がある」とするのはとても正統派な選民思想である。石川作品では悪の持つ理屈として描かれ続けた。
選民思想による英雄譚自体が悪い訳ではなく、古来神話や民話などに多い。近年ならば異世界転生チートもの(異世界の何らかにより選ばれ、能力や情報をもって明確な優位性を持つ状態から始まる)などもそうである。それはそういう物語である。しかし重ねて言うように、石川作品においては全体を通して悪側の理屈である。
*特殊能力などを持つ主人公の話が選民思想にならないような工夫(個性に落とすとか、最後に能力を手放すとか、対等でいられないから消えるのが石ノ森ヒーローとか)は様々な作品に存在する。ただこの作品にはそういった意図は見えない。
いみじくもゲッターロボをやるつもりなら「選ばれた」というなら「うるせえ上から目線で何様のつもりだ」くらい地面に叩きつけてから「今は守りたいやつがいるから使ってやんよ」で乗るべきである。リョウや號がそうだったように。

原点二作品におけるリョウはゲッター線とは髪の毛一筋ほども関係ないただ肉体的にも精神的にも強いだけの人間であった事もあるが、それ以上に「ならムサシの死をお前達はなんだと言うのか」と思ってしまった。
特に漫画版でのあれは明確に自爆特攻であった。原典におけるゲッターに乗る、選ばれるというのは言ってしまえば「赤紙」「召集令状」だった。(ただし戦うことやその末の選択を決めたのは彼ら自身の意思であることは重要で、全体主義や強制にならないよう気を使われている)
その意味を考えたことはあるだろうか。

あの作中で最初にゲッターに還ったのは紛うことなくムサシである。
彼のあの死に対して「君は選ばれたんだ、特別な存在だ」とでも?

それは神風を万歳三唱で見送った第二次世界大戦の焼き直しでしかないじゃないか。あまりにも強烈な皮肉すぎて反吐が出る。漫画版無印で神風未遂の時にリョウにドン引かれた敷島博士と変わらないじゃないか。
少なくともそう思ってしまった私には、この作品とその解釈(といってもそもそも原典からはそうは読み取れないし反証も存在するのだから実質ただの集団幻覚)はあまりにもつらい。

ついでに漫画版におけるゲッターへの同化というのは個の喪失、いわば人格の死であり、真ゲッターロボへの搭乗にはある種の人柱のニュアンスもあった。(號のラストは2001年宇宙の旅とその続編の台詞まで同じモロなオマージュであり、リョウ=ボーマン船長でもあるし)
それゆえゲッターに選ばれる()などということが良い事かと言えば全くそんな事は無い。

エンペラーについては先述したが基本的に絶対悪でもある。
最強厨的な思考であるならその辺繋がるのかもしらんが、人柱を捧げた悪神を奉るイアイアみたいなあれ感も感じて個人的には忌避感があるというかデモンベイン呼びたくなるし、正直何言ってんだかちょっと理解しがたい。
あれは聖別では無く、避けられなかった犠牲だと描いてるだろうにそこも無視なのかい。
それゆえ新ゲッターの結末にも、例えエンペラーがあの割とどうしようもない人間性してた新竜馬単独の存在だったとてなんだかなーという気持ちが先行する。

「弱肉強食の末にゲッペラーになる竜馬すごい!」という思想が前提にあればそうなるかもしれないが、
・少なくとも石川先生的にはゲッペラーは絶対悪
・根本的に弱肉強食とか悪の理屈の死亡フラグ
・クリティカル選民思想は石川作品全体で悪
・そもそも論「進化した人類がえらい」みたいなのは理屈がなく、それ前提にした社会進化論とか第二次世界大戦以降特にフルボッコにされて疑似科学のイデオロギーって言われてる
ということで、実は論理的な筋など一個もなかったりする。

どうも川越ゲッターをはじめとする派生作品の根底理論は
『弱肉強食の単一先鋭化の先に君臨した種族は千年王国を作り、(自らより強い種族に出会わない限り)永劫滅びない』
とでもしなければ成立しないのだが、こんなのどう見たって宗教では。ゲッター線一神教カルトだろ。
信仰は自由ではあるが原典は正反対と考えるとなんかよくわからん邪教になってないか。

いわゆる川越ゲッターなどダイナミック未監修派生への違和感

アークのアニメ化もそうだったのだが、きちんと情報を選別して作品に向き合えば、適切な資料があれば1年もかからずに核部分には辿り着けるだろうに、本気で仕事として20年以上も関わっておきながら川越監督はあの作品理解度であるのだろうか。
何回やっても「三つの心」は描けないし、流竜馬の核も描けていないし、一号機乗りは個性殺されて全員ヤクザの鉄砲玉入っている。
さっと見るだけでもその設定時点で個性を重要視し正しい意味での「個人主義」を描いていた作品であるとはわかろうに、そこから理解できていないとは思いたくないが。
協調性と同調性を履き違えているなどは「辞書を引け」という、話にもならない誤読にもすぎていっそ見ていて恥ずかしいすらあるが。
あんなに描けないなら原案を同じくする東映版準拠でやった方がまだ漫画版に近くなる分マシだろう。

どうにも90年代頃から漫画版を主軸としたゲッターロボとデビルマンの派生作品において、公式監修が入らないと何をやってもその本質を描けていないことは気にかかり、監督か更にもっと上が悉くをねじ曲げているような感覚は正直覚える。
関わったプロが揃いも揃って読解力皆無などそんな馬鹿な話はないだろう。

ましてトップやデモンベイン、中島かずき脚本といったオマージュ(再構成)作品ならばその本質を描けているのも、そもそも96年時点のナデシコ劇中作であるゲキガンガーでは原典の意図を理解していたのに、その後同じ人間が作画に主要で関わったチェンゲの川越監督担当時点でおかしなことになっているのも不自然だし、ダイナミック公式監修の派生作品には川越ゲッターへのカウンターなどが透けて見えもする=ダイナミックは川越ゲッターとかの方向性でやっていきたいわけじゃないだろう。
永井先生や石川先生が描いている作品はそれこそ70年代から理性を重要視する一貫性が存在しているし、星先生もその流れの上にある。

ましてや、川越監督は「鋼鉄神ジーグ(07年)」と「マジンカイザーSKL(10年)」では、実質的にはゲッターロボをやれている。
(なお私はこの二作品はとても好きで、実は先にSKL見てたから川越ゲッターも好意的に取ろうと最初はしていたくらいだった)

どうにも気味が悪いし、ねじ曲げたい人間が川越ゲッターはじめとするダイナミック未監修派生ゲッターロボ作品を通して「全体主義と選民思想のもとに弱者はひれ伏し文句をいうな」と啓蒙しつつ馬鹿にされているようで腹しか立たない。
お前の思想を広めたいならもう少しやり方考えろとも思う。最近だと石ノ森作品になるがブラックサンで似たようなことを非常に強く思ったが。
ついでにいうけど、どれもこれもそうやって根本設定からおかしなもの突っ込んでねじ曲げるから脚本時点で細々噛み合ってなくてがちゃがちゃなんだよ、視聴者舐めてんのか。

流竜馬を描こうとした結果が「早乙女門土に憧れてイキリ散らしてるチンピラ」ってふざけてんの??とも言いたい。
命の重さも知らずイキリ散らかしてるクズなんてダサすぎて門土にも及ばねえよ。きちんと読んだらガクエン退屈男の門土は理解して最初から自分の命かけて他人を手にかけてたからイカれてたし肝据わってたしかっこよかったのに台無しじゃんよ。頭お花畑のイキリモブじゃねえよ。
これに関しては先述の通り実際のところ、新竜馬は「流竜馬」ではなく「身堂竜馬」であったと考えれば色々整合性も取れるけど。
監督は「竜馬を描こうとした」って本当に流竜馬でしたか? 誰の事話してました?

もしも監督の更に上から「ねじ曲げろ」という強制や抑圧が入っているなら、川越監督すらも被害者であって可哀想な話なのかもしれない。
ファン層がこういったそもそものプロット構造のおかしさ、論理的な矛盾などを黙殺して原作に一番近いなどと吹聴しても回るものだから、好意のつもりで監督は読解力がなく辞書のひとつも引いてない馬鹿であると喧伝されているようなものでもあろう。

川越監督担当ゲッターの中でも特にこの作品(最近はアニアクもその気が見えているが)は、信者が「彼らは悪くなんかない」をはじめとするエクストリーム擁護を繰り出しがちでもあり、「本物を乗っ取りそれそのものと思い込んでいるニセモノ」「誰をも愛さなかったから愛されなかった」身堂竜馬のメタファーとして、周辺環境も含めて「再現できてしまっている」のがなんとも皮肉だなと思っている。
本当に「ゲッターロボ」というコンテンツやこの「新ゲッターロボ」という作品を愛しているというなら、この作品は「ゲッターロボの皮を被ったガクエン退屈男である」と言うべきが、そこまでわからずとも、せめて「核であるはずの三つの心も揃っていないこの内容はゲッターロボではない」と言うべきが双方の作品にとって誠実な態度というものだろう。(ダイナミックプロ未監修ゲッターロボ作品全般が「ゲッターロボ」ではないとすら言えるが)
実際のところは誰もこの作品やその中の人格を真正面から見て捉えず、都合の悪い部分は棚上げして自分の理想を押し付けてばかりで向き合わず、対等な他者として愛してなどいないのではないかと度々感じてしまう。
90年代から原典の石川ゲッターロボにそうしておいてからに、10年の間を開けて反省も学びも一切無いままにここでもまた同じことを繰り返している(しかもそこから20年現在進行形)とも見えてしまい、居たたまれない。

自己愛の拡張はいくら続けたとて他者の存在はそこにない。故に虚しく満たされず空虚なのである。
そこには自分しかいない絶対の孤独なのだから。

なんともまったく監督も作品もその中の登場人物も可哀想な話である。

*鋼鉄神ジーグを視聴したところ、
①.デビルマンから分化したゲッターロボ世界と虚無戦記、魔獣戦線という三軸であった石川作品全体世界観構造を前提に、まずゲッターロボ世界が本来とは正反対、悪の持つ思想である社会進化論と同調性軸に乗っ取られた。
②.ゲッターロボ筋とマジンガー筋はやはり分化したきょうだいであるため、原典のゲッターロボ軸(ダーウィンの進化論と協調性)は石川作品内の別筋である虚無戦記の姿を借りて(入れ替わりかもしれない)鋼鉄神ジーグの過去世界に飛び、マジンガーの系譜に融合した
③.結果、実質的には「鋼鉄神ジーグ」「マジンカイザーSKL」でまともなゲッターロボをやっている
みたいな構図も見えたし、おそらくこの前提で川越監督作品と小説INFINITISMは粗方説明がついてしまうだろう。
何から突っ込めばいいんだかわからんがややこしいんじゃ説明くらいしろ。この辺は気が向いたらきちんとまとめると思う。

本当に川越監督はすごいと言いたいなら意図的な「ニセゲッターロボ」、ガクエン退屈男リメイクとしてプロモーションした方が誰も恥をかかずにすむだろうにとも思う。
正直、最初こそ「どれもゲッターロボではなかった」未監修派生作品群にはよくも騙しただけに飽きたらずこれ以上ないほど馬鹿にしてくれたなと本気で激怒していたが、もはや現状好きだと自称する人間にすら寄り添ってもらえず理解もされない哀れな作品達とすら思えている。
そうでもなければこんなに文字数重ねて、本来私がやるべき仕事ではない構造の説明から行い、今現在の評価はそもそも前提からして間違えているのだから不当であると一種の擁護なぞしていない。
明らかにどう考えてもおかしいじゃろとは思いつつ、真偽は公式から明かされていないため、こうして騙された一消費者としてネットの片隅で訴えることしかできないのももどかしい話である。
いい加減20年も経過しているのだ、私の好き嫌いなどの個人的感情は別として、きちんとした評価をされて欲しいと願うばかりである。

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